Taga_castillo

アマ無線、電子工作、歴史(古代)、ゴルフ、スペイン語、他

東北歴史博物館館長講座(第8回)

2013-09-11 11:51:31 | 歴史
東北歴博館長講座の第7回に引き続き、第8回目の概略を記したいと思います。

第8回(2013-09-07)
第5章 郡山遺跡の性格
 :
2.Ⅱ期官衙と陸奥国府
 724年(神亀元年)多賀城が陸奥国府として造営されるが、Ⅱ期官衙は多賀城以前の陸
 奥国府。
 (1)陸奥国府への駅路
  注]駅路:都と国府をつなぐもので、都から7路あった。
  718年5月の石城国・石背国の分国に伴い、京から常陸国府(茨城県石岡市)まで延び
  ていた駅路の東海道を石城国府(いわき市か)まで延ばし、さらに陸奥国府まで延ば
  すため719年(養老3年)7月石城国に10駅を置き駅路を設置(「続日本紀」養老3年7
  月丁丑条)。
  この駅路は福島県浜通りをJR常磐線沿いに進み、中通りを進んできた東山道に玉前
  駅で合流する。従って719年の陸奥国府は玉前駅より北の仙台平野に所在。
  *石城国街道十駅:養老3年(719年)7月設置、引仁2年(811年)4月廃止。
 (2)Ⅱ期官衙から多賀城へ
  Ⅱ期官衙の廃絶時期は多賀城創建(724年)と同時期かやや下る時期。
 (3)郡山廃寺から多賀城廃寺へ
  郡山廃寺は多賀城廃寺の前身、軒瓦の継承関係、伽藍配置の共通性。
 (4)藤原京モデル
  Ⅱ期官衙は藤原宮をモデルに設計されたことは、郡家や城柵でなく陸奥国府とみれば
  理解しやすい。
 (5)Ⅱ期官衙=陸奥国府
  以上の(1)~(4)から、Ⅱ期官衙は多賀城以前の陸奥国府。
 (6)国府からの道
  国府=郡山遺跡。
   内陸部:東山道
   浜通り:玉前駅から分岐する海道
   置賜・最上評:716年以前は陸奥国の所管。郡山遺跡-小野駅-笹谷峠-最上駅。
3.郡山遺跡と渟足柵・磐舟柵
 郡山遺跡と渟足柵・磐舟柵は同様な変遷をたどる兄弟城柵。
 渟足柵:城柵→越後国府
 磐舟柵の改修:698年(文武2年)12月、700年2月に磐舟柵の改修命令。
 郡山Ⅱ期官衙の造営(694-700年)ごろと対応し、政府が一体的に進めた辺境経営の中
 で設置された城柵。
4.郡山廃寺と多賀城廃寺・筑紫観世音寺
 (1)多賀城廃寺と筑紫観世音寺
  多賀城廃寺は、多賀城創建と同時に創建で、多賀城の付属の官寺。
  ①筑紫観世音寺と同じ伽藍配置
  ②多賀城城外から「観音寺」(観世音寺の略称)の墨書土器が出土。
  筑紫観世音寺は、朝鮮・中国との外交・国防にあたる太宰府の付属官寺。
  政府は、諸蕃と蝦夷に対峙する西と東の辺境の官衙である太宰府、多賀城に付属する
  官寺を、安置仏像、寺号、伽藍配置を同じくして建立した。
  ○密教的観音信仰
   7C後半には死者の追善を目的としたが、遅くと7C末から密教的観音信仰が盛ん
   になり、観音に鎮護国家が期待され、さらにその威神力によって国家に敵対し背く
   ものを鎮圧するものとしてまつられた。
  ○郡山廃寺の寺号は観世音寺か(注]資料には寺号が見えない)
   ①東西辺境の官衙の付属寺院
   ②3寺とも同じ伽藍配置
   ③郡山廃寺は多賀城廃寺の前身の寺院
   ④多賀城廃寺・筑紫観世音寺は観音信仰に基づき観世音寺を寺号とした。

東北歴史博物館館長講座(第7回)

2013-09-10 20:46:23 | 歴史
8月24日(土)に第7回、9月7日(土)に第8回の東北歴博館長講座が開催されまし
たが、第7回は都合で参加できなかったので資料によって概略を記します。そして、その
後に第8回の館長講座の概略を記すことにします。

第7回(2013-08-24)
2.Ⅱ期官衙と飛鳥の京
  :
 (3)飛鳥の服属儀礼
  ③斎槻(ゆつき)の広場
   天武・持統朝。斎槻とは神の降臨する神聖なケヤキ=依代(よりしろ)。
 (4)Ⅱ期官衙政庁の服属儀式
  蝦夷は7C後半から毎年都とともに国府・城柵などの地方官衙に朝貢し、服属儀礼を
  行なう。朝貢してきた蝦夷に饗宴と禄を与え、懐柔して帰服させる。
  ○太白山
   飛鳥での服属儀礼の誓約の対象は須弥山、斎槻であるが、Ⅱ期官衙の誓約の対象と
   なる神聖なものは太白山。郡山遺跡の西方8.25km、標高321mにある。
   太白山=神体山の条件:①めだった円錐形の山容、②頂上の岩盤、直方体の巨石→
   磐座、③貴船神社
  ○政庁の儀礼構造
   儀礼の主宰者である国司が天皇の代理人として正殿に南面して、その南の庭・脇殿
   を使って行なう。
3.Ⅱ期官衙の造営年代と宮都の関係
 Ⅱ期官衙の造営年代は、出土土器・瓦の年代から7C末と言われており、宮都との関係
 で694-700年の狭い範囲に推定できる。
 (1)造営年代の上限
  藤原京遷都(持統8年、694年)以後と考えられ、Ⅱ期官衙造営年代の上限は694年。
 (2)造営年代の下限
  Ⅱ期官衙に、都で700年まで行われた7C型の夷狄の服属儀礼の施設=禊のための石
  組み池が設けられた→造営年代の下限は700年。
 (3)Ⅱ期官衙造営年代と宮都
  Ⅱ期官衙の造営年代:694-700年。701年の大宝律令の施行以前となる。
  ○宮都との関係:Ⅱ期官衙は基本的に藤原宮をモデルに設計された、飛鳥と同じ服属
   儀礼の場を設けていた。701年の大宝律令の施行によって儀式が整備され、夷狄の
   服属儀礼の場は大極殿・朝堂に統合された。

第5章 郡山遺跡の性格
 これまで、郡山遺跡は、名取郡家、城柵、陸奥国府説などが提起されてきたが、結論と
 しては、Ⅰ期官衙=城柵、Ⅱ期官衙=陸奥国府である。
1.Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
 次の(1)~(4)から、Ⅰ期官衙は、越の渟足柵・磐舟柵に対応する。
 (1)奥越の辺境経営
  7C後半に、陸奥と越では、城柵あるいは官衙の設置・移民、船団による北征という
  同じ政策による辺境経営が行われた。越の渟足柵・磐舟柵に対応する城柵が陸奥にも
  設置されたはず。
 (2)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵との共通点
  7C半ばに蝦夷の地に設置。
  渟足柵:647年(大化3年)、磐舟柵:648年(大化4年)。2遺跡は未発見。
 (3)城柵の構造
  城柵の施設上の特徴:①外郭施設、②国府型の政庁。Ⅰ期官衙はこの条件を満たす。
 (4)畿内産土師器
  城柵には国司・鎮官など中央派遣官が城司として駐在。畿内産土師器の出土。
 (5)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
  (1)~(4)から、Ⅰ期官衙は渟足柵・磐舟柵に対応する城柵で、蝦夷の地への支配領域
  拡大、蝦夷の帰服の拠点。移民移配→宮城評・名取評の設置。

東北歴史博物館館長講座(第6回)

2013-08-13 22:14:43 | 歴史
東北歴博の第6回館長講座が8月10日(土)に開催されました。
以下にその概要を記してみます。

第6回(2013-08-10)
第4章 Ⅱ期官衙と宮都
 Ⅱ期官衙は、701年の大宝律令施行以前の藤原宮をモデルに設計された。

1.Ⅱ期官衙と藤原宮
 藤原宮:694-710年、最初の律令制宮都であり、条坊制都城である。
 Ⅱ期官衙は次の3点で藤原宮と共通する。
 (1)官衙域・宮城域と中枢部
  2つは、平面形がほぼ正方形であり、それぞれの中枢部である政庁と大極殿・朝堂が、
  官衙域・宮城域の南北中軸線上の中央部から南部に位置する。
  宮都の歴史において、正方形の宮城域とその南北中軸線上の中枢部の位置は、藤原宮
  に始まる。
 (2)外郭の構造
  藤原宮とⅡ期官衙の外郭は、塀の外に二重に溝と空閑帯を巡らす。
 (3)Ⅱ期官衙は藤原宮の1/4の規模
  最外の溝で囲まれた区画が、Ⅱ期官衙=1500令大尺=1里、藤原宮=3000令大尺=2
  里で、一辺の長さで1/2、面積で1/4。
   1令大尺=1.2令小尺=0.356m、 1令小尺=0.297m、
   1里=300歩=1500令大尺=534m
 (4)Ⅱ期官衙は藤原宮モデル
  以上の3点で関係が深いので両者は同一の考え方で作られ、新型の宮城モデルである
  藤原宮をモデルにⅡ期官衙が設計された。
2.Ⅱ期官衙と飛鳥の京
 Ⅱ期官衙正殿北の石組池は地方官衙では珍しい遺構だが、飛鳥の石神遺跡に同類の池が
 あり、共通点が指摘できる。
 (1)Ⅱ期官衙政庁の後庭
  政庁の正殿の北=後庭:石敷き・石組み池・南北棟建物によって構成され、1つの儀
  礼的空閑。
 (2)飛鳥の宮
  藤原宮の東南に隣接した京、「日本書紀」では「倭京」という。
  飛鳥石神神社:飛鳥寺の西北部に隣接、7C半ば~8C前半の間に4期の遺構が重複。
  7C半ば(A-3期)に斉明朝の須弥山の園池。石組み池あり。
 (3)飛鳥の服属儀礼
  ①7C半ばから、蝦夷は毎年都および国府・城柵などの地方官衙に朝貢して、天皇に
   服属することを誓約する服属儀礼を行なう。
   701年の大宝律令の施行を境にして、7Cと8Cで行なう日時・場所、性格が変
   化した。
    7C型=日時を決めずに、神聖な場所。神聖なものに誓約する呪術的性格。
    8C型=元旦の朝賀。大極殿・朝堂。天皇に直接誓約する儀礼的な性格。
  ②須彌山の園池
   「日本書紀」斉明3・5・6年(657・59・60)に粛愼、陸奥・越の蝦夷などの夷
   狄が服属儀礼を行なう。
   須彌山:仏教の世界観において世界の中心にある聖山、帝釈天を中心に三十三天・
    四天王・衆天などの天部が住む。
   石組み池:儀礼の前に心身を清める禊をするためのもの。

東北歴史博物館館長講座(第5回)

2013-07-28 11:47:09 | 歴史
7月27日(土)、第5回東北歴博の館長講座が開催されました。
昨日の講義は以下のような内容でした(各項目の内容は書ききれないので、部分的に記入)。

第5回(2013-07-27)
第3章 郡山遺跡の概要
3.Ⅰ期官衙
 Ⅰ期官衙・Ⅱ期官衙ともに、礎石建物ではなく掘立柱建物で瓦葺きではない。
 Ⅰ期官衙の年代:7C半ば~7C末(出土土器による)。
  施設の造営基準が、真北に対して西に50~60°振れるのが特徴。
 ◎外郭と規模
  外囲施設は材木列塀。
  全体の規模:長方形、西南辺295.4m、西南~東北604m、面積17.8ha。
  内部に掘立柱塀、材木列塀、板塀で囲まれた中枢区、北・南倉庫区、北・
  南雑居区、鍛冶工房区がある。
 ◎中枢区=政庁
  規模:東南辺91.6m、西北辺92.0m、東北辺118.6m、西南辺120.3m
 ◎倉庫区
  中枢区の東北に北倉庫区、西南に南倉庫区
 ◎雑居区
  北倉庫区西北に北雑居区、南倉庫区の西南に南雑居区
  ○北雑居区:東南~西北51~54m、西南~東北65~66m
  ○南雑居区:90mx60m以上
 ◎鍛冶工房区
  北雑居区西南に鍛冶工房と総柱倉庫
  ○鍛冶工房:平面長方形の竪穴建物、内部に5基の鉄鍛冶炉
4.Ⅱ期官衙
 Ⅱ期官衙の年代:7C末~8C前葉。Ⅰ期を取り壊して同位置に建造。
  造営基準はほぼ真南北。
 ◎外郭と規模
  平面はほぼ正方形、外囲施設は材木列塀。
  規模:南北423.2~423.8m、東西425.1~430.9m、面積18ha。
   多賀城の74haの4分の1
 ◎大溝と外溝
  材木列塀の外側に二重に大溝と外溝をめぐらす。
 ◎外郭南門
  南辺中央、5間×2間の12脚門か。
 ◎櫓
  外部塀をまたぐ、2間×2間の櫓。4隅と各辺の3等分点に設置か。
 ◎中枢区=政庁・曹司
  ○政庁:儀式・政務・宴会
  ○曹司
 ◎工房
  官衙内の東西辺に
  ○東辺:鉄鍛造、銅鋳造、漆工房
  ○西辺:鉄・漆工房
 ◎造営尺度:大尺使用か
  古代の尺度:1令大尺(高麗尺)=1.2令小尺(天平尺)
5.郡山廃寺
(1)遺構
  Ⅱ期官衙の付属寺院。
 ◎伽藍中枢部の規模
  北辺120m、南辺125m、南北167m、面積約2ha。寺域はさらに東へ。
 ◎南門、北西門
 ◎講堂
  東西棟基壇建物。東西32m以上・南北12m以上。
 ◎僧房、金堂、塔
(2)出土瓦
  多賀城・多賀城廃寺の創建瓦より古く、7C末~8C初め。
  八弁単弁蓮華文軒丸瓦、重弧文平瓦、粘土板桶巻き作り無断丸瓦、
  粘土板桶巻作り平瓦
  文様から見て、郡山廃寺の軒瓦は多賀城・多賀城廃寺創建瓦の祖型
(3)伽藍配置
  伽藍配置は多賀城廃寺と同じと推測。大宰府の筑紫観世音寺とも同じ。

東北歴史博物館館長講座(第4回)

2013-07-13 22:24:55 | 歴史
7月13日(土)、第4回東北歴博の館長講座が開催されました。
なお、今日から「考古学からの挑戦」というテーマで、「東北大学考古学研究
の軌跡」特別展が9月8日まで開催されています。

今日の講義は以下のような内容でした。
(各項目の内容は書ききれないので、部分的に記入)

第4回(2013-07-13)
第2章 辺境支配の展開
1.辺境政策
 陸奥国と越後国・出羽国は、国家領域の北の端の国で、「辺国」(辺境の国)
 と呼ばれた
 律令国家の辺境政策は、蝦夷の移住する地域(辺国の外側)に支配領域を拡
 大すること
2.郡の設置方式
 ◎一般諸国:その地域の住民を公民とし、豪族を郡司任命
 ◎辺境:国家に対して服従性を持たなかった
  ①城柵の設置
  ②他地域からの移民(柵戸)→公民化→郡・里の設置
  ③蝦夷の服属→朝貢→公民化
3.辺境支配の拡大の諸段階
 奥越羽における辺境への支配拡大は、7C半ば~9C初めのほほ1世紀半に、
 奥・越羽がほぼ対応して段階的に進められた。
 第1段階 7C半ば郡山遺跡Ⅰ期官衙 (越・羽:磐舟柵)
 第2段階 8C前半:1000戸移民 (越・羽:出羽柵)
 第3段階 8C後半:桃生城陥落 (越・羽:雄勝城)
 第4段階 9C初:阿弖流為征討
4.陸奥国と越後・出羽国
 越羽側より陸奥側は蝦夷の抵抗が強く、困難で時間がかかった

第3章 (仙台)郡山遺跡の概要
 7C半ば~8C前葉の地方官衙遺跡であり、日本歴史全体としては、律令制
 国家が形成・確立する時期
 ◎性格
  Ⅰ期官衙:城柵
  Ⅱ期官衙:陸奥国府
1.調査の歴史
 (1)黎明期:1915(大3)年~
 (2)本格的調査:1979(昭54)年~
2.郡山遺跡の立地
 (現)仙台市太白区郡山、仙台平野のほぼ中央、名取川・広瀬川の合流点の
 北西1.5kmで、合流点から6kmで太平洋に河口を開く