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東北歴史博物館館長講座(第9回)

2013-09-22 15:13:30 | 歴史
東北歴博の第9回館長講座が9月21日(土)に開催されました。
以下にその概要を記してみます。

第9回 (2013-09-21)
第6章 渟足柵・磐舟柵と郡山遺跡Ⅰ期官衙
 「日本書紀」は7C後半の辺境経営について、陸奥国より越国の辺境経営について多く
の記事を収めているが、郡山遺跡の発掘調査等により奥越の一体となる辺境政策を進めて
いたことが明らかになってきた。

1.(越の)渟足柵と磐舟柵
 (1)城柵と移民
  647年(大化3年)渟足の柵を造り柵戸を移配
  648年(大化4年)磐舟の柵を造り越と信濃から柵戸を移配
  658年(斉明4年)阿倍比羅夫の北征に都岐沙羅柵造が従軍褒賞叙位
   都岐沙羅柵:磐舟柵の別称。都岐沙羅はアイヌ語で「沼の耳」、岩船潟をトキサラ
    と呼んだ。
 (2)渟足評・磐舟評の設置
  城柵設置より少し遅れて、658年(斉明4年)~685年(天武14年)
2.陸奥の官衙と移民
 (1)地方官衙の設置:郡山遺跡Ⅰ期官衙(7C半ば)
 (2)移民:関東系土器の出土と地名の移動による
  東北地方出土の土師器は内黒土師器と呼ばれ、関東系土師器とは違いがある。
  陸奥国には、関東・中部地方、福島県南部の郡名・国名と同じ郷名・郡名があり、人
  の移動とともに地名が移動したことを示す。(宮城郡多賀郷←常陸国多珂郡、等)
 (3)宮城評・名取評の設置
  仙台平野には宮城郡と名取郡があり、移民をもとにその前身の宮城評・名取評を設置
 (4)「名取」の刻字土器
  Ⅰ期官衙の土壙から出土、底面に「名取」の刻字のある土師器。
 (5)陸奥国優■曇(うきたむ)評の存在 (注:■は山偏に上部が"老"で下部が"日")
  「日本書紀」持統3年(689年)正月丙申条に「陸奥国優■曇郡城養蝦夷(*1)」が出家
  したとあり、城柵付属の寺と城柵が支配する蝦夷の存在が分かる。
   *1 城(柵)養(きかう)蝦夷:城柵に支配・保護された蝦夷
 (6)仙台平野では7Cから移民集落があるが、越後平野では河川の流域に氾濫原、後背
  湿地が広がる自然環境のため7Cの集落遺構がほとんどない。
3.蝦夷の服属
 郡山Ⅰ期官衙、渟足・磐舟柵は蝦夷を服属させるたの拠点。
4.斉明朝の北征
 斉明朝に越国・陸奥国が船団を率いてそれぞれ日本海沿岸・太平洋沿岸沿いに遠征を行
 なった。
 (1)越国の阿倍比羅夫の北征
  658~660年の3年間に3回にわたり、越国守の阿倍比羅夫が船団を率いて日本海沿い
  に遠征し、秋田・能代・津軽・渡島(北海道)等の蝦夷を帰服させ、支配関係を結び郡
  を設置。船団は、1・2回180艘、第3回200艘、根拠地は渟足柵で、信濃川・阿賀野
  川の河口港。
 (2)陸奥国の北征
  「日本書紀」斉明5年(659年)3月条に、阿倍比羅夫の遠征において越国司とともに道
  奥国司・郡司が褒賞叙位とあり、陸奥国でも太平洋沿岸沿いに船団による遠征があっ
  た。
  「続日本紀」霊亀元年(715年)10月丁丑条で、陸奥国の閉(へい)村付近の蝦夷須賀君
  古麻比留が先祖(注:祖父)以来昆布を国府に貢献しており、閉村の蝦夷が帰服してい
  たからであろう。(閉村:宮古湾北岸にあった蝦夷の村)
  ○船と鉄の調達
   相馬地方の製鉄遺跡群:通時代的に211にも上まわる製鉄遺跡が所在。7C後半の
    製鉄炉は吉備・近江(中央政府)の技術を導入し、北征の鉄物資を調達した。
  ○北征の根拠地:郡山Ⅰ期官衙。名取川河口港まで6km。
  ◎越は渟足柵(信濃川・阿賀野川の河口港)から日本海沿岸沿い、陸奥は郡山Ⅰ期官衙
   (名取川河口港)から太平洋沿岸沿いに北征し、北海道で合流。

東北歴史博物館館長講座(第8回)

2013-09-11 11:51:31 | 歴史
東北歴博館長講座の第7回に引き続き、第8回目の概略を記したいと思います。

第8回(2013-09-07)
第5章 郡山遺跡の性格
 :
2.Ⅱ期官衙と陸奥国府
 724年(神亀元年)多賀城が陸奥国府として造営されるが、Ⅱ期官衙は多賀城以前の陸
 奥国府。
 (1)陸奥国府への駅路
  注]駅路:都と国府をつなぐもので、都から7路あった。
  718年5月の石城国・石背国の分国に伴い、京から常陸国府(茨城県石岡市)まで延び
  ていた駅路の東海道を石城国府(いわき市か)まで延ばし、さらに陸奥国府まで延ば
  すため719年(養老3年)7月石城国に10駅を置き駅路を設置(「続日本紀」養老3年7
  月丁丑条)。
  この駅路は福島県浜通りをJR常磐線沿いに進み、中通りを進んできた東山道に玉前
  駅で合流する。従って719年の陸奥国府は玉前駅より北の仙台平野に所在。
  *石城国街道十駅:養老3年(719年)7月設置、引仁2年(811年)4月廃止。
 (2)Ⅱ期官衙から多賀城へ
  Ⅱ期官衙の廃絶時期は多賀城創建(724年)と同時期かやや下る時期。
 (3)郡山廃寺から多賀城廃寺へ
  郡山廃寺は多賀城廃寺の前身、軒瓦の継承関係、伽藍配置の共通性。
 (4)藤原京モデル
  Ⅱ期官衙は藤原宮をモデルに設計されたことは、郡家や城柵でなく陸奥国府とみれば
  理解しやすい。
 (5)Ⅱ期官衙=陸奥国府
  以上の(1)~(4)から、Ⅱ期官衙は多賀城以前の陸奥国府。
 (6)国府からの道
  国府=郡山遺跡。
   内陸部:東山道
   浜通り:玉前駅から分岐する海道
   置賜・最上評:716年以前は陸奥国の所管。郡山遺跡-小野駅-笹谷峠-最上駅。
3.郡山遺跡と渟足柵・磐舟柵
 郡山遺跡と渟足柵・磐舟柵は同様な変遷をたどる兄弟城柵。
 渟足柵:城柵→越後国府
 磐舟柵の改修:698年(文武2年)12月、700年2月に磐舟柵の改修命令。
 郡山Ⅱ期官衙の造営(694-700年)ごろと対応し、政府が一体的に進めた辺境経営の中
 で設置された城柵。
4.郡山廃寺と多賀城廃寺・筑紫観世音寺
 (1)多賀城廃寺と筑紫観世音寺
  多賀城廃寺は、多賀城創建と同時に創建で、多賀城の付属の官寺。
  ①筑紫観世音寺と同じ伽藍配置
  ②多賀城城外から「観音寺」(観世音寺の略称)の墨書土器が出土。
  筑紫観世音寺は、朝鮮・中国との外交・国防にあたる太宰府の付属官寺。
  政府は、諸蕃と蝦夷に対峙する西と東の辺境の官衙である太宰府、多賀城に付属する
  官寺を、安置仏像、寺号、伽藍配置を同じくして建立した。
  ○密教的観音信仰
   7C後半には死者の追善を目的としたが、遅くと7C末から密教的観音信仰が盛ん
   になり、観音に鎮護国家が期待され、さらにその威神力によって国家に敵対し背く
   ものを鎮圧するものとしてまつられた。
  ○郡山廃寺の寺号は観世音寺か(注]資料には寺号が見えない)
   ①東西辺境の官衙の付属寺院
   ②3寺とも同じ伽藍配置
   ③郡山廃寺は多賀城廃寺の前身の寺院
   ④多賀城廃寺・筑紫観世音寺は観音信仰に基づき観世音寺を寺号とした。

東北歴史博物館館長講座(第7回)

2013-09-10 20:46:23 | 歴史
8月24日(土)に第7回、9月7日(土)に第8回の東北歴博館長講座が開催されまし
たが、第7回は都合で参加できなかったので資料によって概略を記します。そして、その
後に第8回の館長講座の概略を記すことにします。

第7回(2013-08-24)
2.Ⅱ期官衙と飛鳥の京
  :
 (3)飛鳥の服属儀礼
  ③斎槻(ゆつき)の広場
   天武・持統朝。斎槻とは神の降臨する神聖なケヤキ=依代(よりしろ)。
 (4)Ⅱ期官衙政庁の服属儀式
  蝦夷は7C後半から毎年都とともに国府・城柵などの地方官衙に朝貢し、服属儀礼を
  行なう。朝貢してきた蝦夷に饗宴と禄を与え、懐柔して帰服させる。
  ○太白山
   飛鳥での服属儀礼の誓約の対象は須弥山、斎槻であるが、Ⅱ期官衙の誓約の対象と
   なる神聖なものは太白山。郡山遺跡の西方8.25km、標高321mにある。
   太白山=神体山の条件:①めだった円錐形の山容、②頂上の岩盤、直方体の巨石→
   磐座、③貴船神社
  ○政庁の儀礼構造
   儀礼の主宰者である国司が天皇の代理人として正殿に南面して、その南の庭・脇殿
   を使って行なう。
3.Ⅱ期官衙の造営年代と宮都の関係
 Ⅱ期官衙の造営年代は、出土土器・瓦の年代から7C末と言われており、宮都との関係
 で694-700年の狭い範囲に推定できる。
 (1)造営年代の上限
  藤原京遷都(持統8年、694年)以後と考えられ、Ⅱ期官衙造営年代の上限は694年。
 (2)造営年代の下限
  Ⅱ期官衙に、都で700年まで行われた7C型の夷狄の服属儀礼の施設=禊のための石
  組み池が設けられた→造営年代の下限は700年。
 (3)Ⅱ期官衙造営年代と宮都
  Ⅱ期官衙の造営年代:694-700年。701年の大宝律令の施行以前となる。
  ○宮都との関係:Ⅱ期官衙は基本的に藤原宮をモデルに設計された、飛鳥と同じ服属
   儀礼の場を設けていた。701年の大宝律令の施行によって儀式が整備され、夷狄の
   服属儀礼の場は大極殿・朝堂に統合された。

第5章 郡山遺跡の性格
 これまで、郡山遺跡は、名取郡家、城柵、陸奥国府説などが提起されてきたが、結論と
 しては、Ⅰ期官衙=城柵、Ⅱ期官衙=陸奥国府である。
1.Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
 次の(1)~(4)から、Ⅰ期官衙は、越の渟足柵・磐舟柵に対応する。
 (1)奥越の辺境経営
  7C後半に、陸奥と越では、城柵あるいは官衙の設置・移民、船団による北征という
  同じ政策による辺境経営が行われた。越の渟足柵・磐舟柵に対応する城柵が陸奥にも
  設置されたはず。
 (2)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵との共通点
  7C半ばに蝦夷の地に設置。
  渟足柵:647年(大化3年)、磐舟柵:648年(大化4年)。2遺跡は未発見。
 (3)城柵の構造
  城柵の施設上の特徴:①外郭施設、②国府型の政庁。Ⅰ期官衙はこの条件を満たす。
 (4)畿内産土師器
  城柵には国司・鎮官など中央派遣官が城司として駐在。畿内産土師器の出土。
 (5)Ⅰ期官衙と渟足柵・磐舟柵
  (1)~(4)から、Ⅰ期官衙は渟足柵・磐舟柵に対応する城柵で、蝦夷の地への支配領域
  拡大、蝦夷の帰服の拠点。移民移配→宮城評・名取評の設置。