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多賀城跡「第86次発掘調査現地説明会(H25.10.26)」資料

2013-10-29 15:31:04 | 歴史
東北歴博の館長講座が開催された10月26日(土)の午前に標記の説明会が開催されていました。
館長講座の資料とともに手にすることができましたが、宮城県教育委員会文化財保護課のHPにはま
だ掲載されていないようなので、資料をスキャンしたものを以下に示します。
なお、掲載することで著作権等の問題があるようでしたら、削除いたしますので連絡をお願いいたし
ます。

また、見開きの中央に「第2図 調査区全体図」がありますので、5枚目に入れてあります。

<P1>


<P2>


<P3>


<P4>


<P2とP3の見開き>


以上の5枚(4ページ分)です。

東北歴史博物館館長講座(第11回)

2013-10-29 14:31:02 | 歴史
東北歴博の第11回館長講座が10月26日(土)に開催されました。
以下にその概略を記してみます。

第11回(2013-10-26)
第7章 Ⅱ期官衙-陸奥国府の時代(7C末~724年)
 :
2.陸奥国司と城司
 :
 ・陸奥国司は畿内・長門国司とともに重要視され、高位の者を任命する。この時期に陸奥国が大国
  に位置づけられたのは辺要国で蝦夷と対峙していたからであろう。
  陸奥国司は国内の行政・司法・軍事・祭祀の一般的な職務の他に、城柵の城司(城主)として辺
  境の支配を行なう。
3.陸奥国按察使:Ⅱ期官衙に駐在する陸奥守は陸奥国按察使を兼任
 ・按察使:719年(養老3年)7月に全国的に設置された上級広域地方官で、全国を4~5のブロックに
  分けその中の1国の守を按察使に任命し国司より大きな権限をもってブロック内の国司・群司を
  監察させた。
  陸奥国按察使は720年9月に初見し、陸奥守が兼任し、陸奥・石城・石背国を、721年からは出羽国
  を管轄。Ⅱ期官衙にいた最初の陸奥国按察使は上毛野朝臣広人、720年(養老4年)の蝦夷反乱で殺
  害される。
4.軍団制と兵士
 大宝律令により地方軍政として軍団制が施行され、城柵であるⅡ期官衙には防備のために軍団兵士が
 駐屯した。
 ・軍団制:律令国家の地方軍制。諸国の国司の下に軍団を設置し、1軍団に兵士1000人が所属。
  大毅(長官)1人、少毅(次官)2人、主帳(主典)1人の下に、指揮官として次の幹部を置く。
   校尉5人:兵士200人を管轄、旅帥10人:兵士100人、隊正20人:兵士50人
  兵士は1戸から1人、あるいは成人男子(正丁:21~60才)の1/4迄が指定され、一般諸国では軍事
  教練、国府の守衛などにあたり、奥羽2国では城柵の鎮守にあたった。792年に陸奥・出羽国などの
  一部を除き全国的な軍団制は廃止された。
 ・8C初めの陸奥国の軍団:4団兵士4000人が交代で城柵勤務。
5.大崎平野への進出
 Ⅱ期官衙建造とともに大崎平野への本格的な進出が始まり、ほぼ同時期に越後でも庄内平野への進出
 が始まり、出羽国が分国される。
 (1)出羽国分国
  698・700年(文武2・4年) 磐舟柵改修命令、庄内平野への進出の準備。
  708年(和銅元年) 出羽柵設置、出羽郡設置。
  710年(和銅3年) 蝦夷の反乱、征討軍派遣鎮圧。
  713年(和銅6年) 越後国から出羽郡を分け出羽国設置。陸奥国から置賜郡・最上郡の移管命令
          (716年実現)。
  714年(和銅7年) 出羽柵に200戸柵戸移民。
  716年(霊亀2年) 出羽柵に400戸柵戸移民(約8000人)。
 (2)名生館遺跡と赤井遺跡
  Ⅱ期官衙と同時に名生館遺跡と赤井遺跡に官衙が成立する。
  ・名生館遺跡:(大崎市大崎字名生館)大崎平野西北部、古代の玉造郡、丹取郡・玉造郡郡家。
  ・赤井遺跡:(東松島市赤井)石巻海岸平野。古代の牡鹿郡。
  ○705年(慶雲2年)陸奥国蝦夷の反乱:武蔵国奈良神の伝承、武蔵国から軍士が出征。
 (3)715年の移民と黒川以北十郡の建郡
  715年(霊亀元年) 坂東6国(相模:神奈川、上総:千葉、常陸:茨城、上野:群馬、武蔵:東京・
   埼玉、下野国:栃木)の富民1000戸(2万人以上)が移民、「黒川以北十郡」と呼ばれる郡が一
   斉に設けられ、支配が強化される。
   ・移民と地名の移動:陸奥国の郷名には坂東・東国の郡名・国名、陸奥南部の4郡名と同じ
    ものが存在し、移民とともに地名が移動。
   ・黒川以北の十郡:牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・富田・色麻・賀美・黒川郡

東北歴史博物館館長講座(第10回)

2013-10-07 12:00:08 | 歴史
東北歴博の第10回館長講座が10月5日(土)に開催されました。
以下にその概要を記してみます。

第10回 (2013-10-05)
第6章 渟足柵・磐舟柵と郡山遺跡Ⅰ期官衙
 :
4.斉明朝の北征
 :
 (3)斉明朝北征の目的--従来の説
  ①国内における支配領域拡大説(東北学院大・熊谷公男氏)
   北方各地の蝦夷集団と個別的に貢納制的政治支配を結んで大和政権の支配下に置こ
   うとするもので、国郡制の面的な拡大に対して貢納制支配の点的な拡大を意図した。
  ②国際情勢説--(奈良大・坂井秀弥氏)
   7C後半の北東アジアの緊迫した国際情勢を重視して、阿倍比羅夫の北征は倭国の
   北方領域の確定を目的とした。
 (4)北征と国際情勢
  次の2点から(3)の②と同様に国際情勢の中に位置づける。
  ・奥越羽でこのような船団による遠征が行なわれたのはこの時限りで、ちょうどこの
   時期は倭国をめぐる東アジアの国際情勢が緊迫している時期であった。
  ・7C半ばの国家の支配領域は陸奥国では仙台・大崎平野、越国では越後平野止まり
   で、この時の北征の対象地域があまりに北に突出している。
  ○7C半ばの東アジアの国際情勢
   朝鮮半島:高句麗・百済・新羅の3国が鼎立して抗争。
     643年 「唐と新羅同盟」と「高句麗と百済同盟」の対立
   唐の高句麗征討:645・647・648・655・658年
   倭国の外交:改新以前は高句麗・百済と親交
     改新以後、646年に二面外交へ転換(親百済を基本に新羅を通して唐とも通交)
       657年:新羅との関係が悪化し二面外交の破綻
       660年:唐・新羅によって百済滅亡
   ・658~660年北征をこのような国際情勢の緊迫下に置いてみると、いつ非常事態が
    起きるか分からない時に倭国が国内問題のために奥越両国で大軍を動かす余裕が
    なく、この北征が国際問題の一環であったと考えられる。北征の開始658年が二
    面外交の破綻の翌年であった。
 (5)北征の目的
  ○室賀信夫説:阿部比羅夫の北征は、日本の国土と大陸との地理的関係を明らかにす
   る地理的探検であり、高句麗・粛愼への北方航路の開拓を目指したもの。
  ○今泉隆雄説:奥越両国の北征は、国際情勢の緊迫化の中で国土の北部と大陸との地
   理的関係を明らかにするための地理的探検・探索であり、より限定的には高句麗へ
   の北方航路を開拓することを目的とした。
 (6)阿倍比羅夫と阿倍氏
  ○阿倍引田臣比羅夫:阿倍氏の引田家の出身。7Cの官人・武将
  ○阿倍氏:阿部とも。6C前半~8Cに大和朝廷の上級豪族・貴族。初め姓は臣、
   684年から朝臣。本拠は大和国十市郡阿倍(奈良県桜井市阿部)。
   ・主な人物:阿倍大麻呂、阿倍麻呂、阿倍御主人、阿倍仲麻呂
   *日本書紀に越国の記述が多いが、阿倍氏の持っていた記録があり、それが書紀の
    中に入ったのではないか。

第7章 Ⅱ期官衙-陸奥国府の時代(7C末~724年)
1.陸奥国府と観世音寺
 ①Ⅱ期官衙は藤原宮をモデルに設計
 ②Ⅱ期官衙には、大宝令以前の蝦夷の呪術的服属儀礼を行なうための施設が設けられる
 ③郡山廃寺=観世音寺は太宰府の付属寺院である筑紫観世音寺と同時期に造営
2.陸奥国司と城司
 701~702年:大宝律令の制定・施行、Ⅱ期官衙には陸奥国司が駐在
 ・国のランクは、大国・上国・中国・下国によって国司の定員と相当位階が決まる。
  陸奥国は大国で、守(長官、従五位上相当)、介(次官、正六位下相当)、大掾(大
  判官、正七位下)、少掾(少判官、従七位上)、大目(大主典、従八位上)、少目
  (少主典、従八位下)、史生:3人、国博士、医師の計11人