平らな深み、緩やかな時間

339.『入江の幻影』辺見庸について

私はこの数年、「触覚性絵画」と名づけた絵画をテーマとして創作活動を続けています。このテーマにはさまざまな意味や可能性がありますが、そのことについては繰り返しこのblogでも綴っています。

そのもっとも分かりやすい例としては、絵画という「視覚」的な表現の中で、「触覚」性という(視覚とは異なる)感覚をあえて追究しているということです。私は絵画制作を通して、「視覚」という感覚の垣根を超えたリアリティを求めているのです。

その「リアリティ」についても、このblogでは繰り返し取り上げていますが、今回はある本をモチーフとしてあらためて考察してみたいと思います。

私たちは、「リアリティ(現実)」に接しながら日々の生活を送っているのですが、ぼーっと生きているとそのヒリヒリするような感覚を忘れてしまいます。また、この世界を動かしている為政者や資本家からすると、その方が都合がよいのです。あまりものごとについて深く考えず、生きることの痛みを鈍化し、現実と正面から向き合わない人たちの方が、統治者としての能力を問われずに済むからです。

私は、そのように鈍化した感覚を覚醒させるのが、芸術の重要な役割の一つだと思っています。これも何度かこのblogで論じていることですが、芸術は「炭鉱の中のカナリア」のように、人間の世界の危機をいち早く察知し、それを作品として表現することができます。そのような表現は社会的な問題をモチーフとした作品に限りません。美術作品においては、むしろ知性で世界と向き合おうとする作品よりも、感覚的に世界の動きを察知する作品の方が、世界の危機を表現することが多い、と私は考えています。時代が息苦しい方向に向かっていれば、芸術作品はそれに先んじて表現上の危機に陥るのです。

例えば私は、モダニズム思想の中で単線的に突き進む世界の危機を先鋭的に表現したのがモダニズムの芸術だと思っています。それはあらゆる批判に耐えうるような完璧な芸術表現を目指したのですが、その先にあったのは表現としての貧しさでした。現在の芸術が、瀕死状態のモダニズムから脱するような表現ができているのか、と言われると心許ないのですが、とりあえず「炭鉱の中のカナリア」の役目は果たしたと思っています。

文学作品などの言葉による表現は、ジャーナリズムとも密接に関係していますし、もっと直接的に世界の危機を表現することができますし、そうするべきだと思います。言葉を媒体とすることから、あらゆる芸術表現の中でも文学はもっとも知的な表現だと思いますが、それだけに芸術家が察知した世界の危機は、社会に直接的に訴えかけ、そして自分自身にも跳ね返ってくるものです。

 

さて、前置きが長くなりましたが、今回取り上げるのは、小説家、ジャーナリスト、詩人で、元共同通信社記者でもあった辺見庸(1944 - )さんが書いた最新作『入江の幻影』です。文学者であり、ジャーナリストでもあった辺見さんは、つねに私にとって「リアリティ」へと覚醒する手がかりを与えてくれる存在です。

私にとって特に思い出深いのは、2003年のイラク戦争のころに辺見さんが矢継ぎ早に出版した著作群です。『単独発言』、『永遠の不服従のために』、『いま、抗暴のときに』は、アメリカ追従を容認する世界的な雰囲気の中で、息をのむような発言集でした。

それらは、その当時私が読んでいた池澤夏樹(1945 - )さんのメールコラム『新世紀へようこそ』とともに、私の考え方の指針になりました。池澤さんはどちらかと言えば世界を肯定的に見ている人であり、一方の辺見さんはどちらかと言えば否定的に見ている人ですが、いずれにしろ当時のブッシュ大統領の判断は誤りである、と二人とも批判していました。そして結局、イラクに大量破壊兵器など存在せず、戦争の大義はなかったことが後でわかったのです。私は社会学的な問題に疎い人間なので、責任を持った発言はできませんが、ブッシュ元大統領が残した負の遺産は、トランプ元大統領のそれよりも大きかったのかもしれない、と思っています。

今、世界中がロシアのウクライナ侵略戦争に注目しています。当然のことながら、プーチン大統領に対して非難の声をあげている国が少なくありません。しかし、それらの国においては、プーチンを批判する前に襟を正さなければならないことがあるのだと思います。辺見さんは「入江の幻影」という散文詩の中で、自分が女性の首を絞めて殺したという仮想の中で、その罪の意識との向き合い方について、次のように書いています。

 

嗚、俺、忘れている。忘れるほうが楽だからな。それとも、忘れたふりをしている。失念を己に強いることだってできる。欺罔(きもう)。いやはや、何という化け物か! 人ってすこぶる達者だ。他者だけでなく己をも欺くことができる。記憶の箱の中身ををあらかた入れ替えることだって、やろうと思えばやれる。斯(か)く、やってきたではないか。それでいて欺罔ではないと思うこともできる。ハハハ。一ミリグラムの悪意もなしに。記憶の入り江の底に黒い藻のように、恥ずべき汚泥のように、悍(おぞ)ましい影絵がウラウラと漂っているというのに。  

恥ずべきだと? えっ、誰が恥じているというのだ。何を恥じているというのだ。諸君、実に「忌まわしい過去から/階段が上にのびている」のだ。そうではないかね?

(『入江の幻影』「入江の幻影」辺見庸)

 

辺見さんは、ときおり難しい言葉を使います。「欺罔」は「きもう」と読みますが、辞書によれば「ぎもう」とも「きぼう」とも読むようです。その意味は「詐欺的行為で、相手に虚偽のことを信じさせ、錯誤させること。あざむくこと。だますこと。」です。

それから「忌まわしい過去から/階段が上にのびている」という一節は、パウル・ツェラン(Paul Celan、1920 - 1970)さんというドイツ系ユダヤ人の詩人が書いた『雪の区域(パート)』という詩の一節のようです。ツェランさんはナチスによるユダヤ人虐殺をモチーフに前衛的な詩を書いた人で、自殺と思われる死を遂げた人です。

さて、この辺見さんの文章は、「かつて俺が首を絞めて殺した、かなり昵懇(じっこん)の女」のことを、都合よく忘れようとしている自分の内面をえぐった詩句となっています。なかなか凄まじい想定の詩句ですが、それはともかく、このような欺瞞の中で生きている自分は、本当に生きていると言えるのか?と辺見さんは問いかけます。

 

「『本当の生がここにはない』。それでも私たちは世界に存在している」。致し方なく死ぬまで存在し続けている。死ぬまで生きるほかない。存在にも<時>にも、意味などありはしない。何も期待するな。些(いささ)かも楽観するな。ただ、入江の<時>に徒(いたずら)に浸潤されているだけなのだ。

(『入江の幻影』「入江の幻影」辺見庸)

 

「『本当の生がここにはない』。それでも私たちは世界に存在している」という一節は、フランスの哲学者、エマニュエル・レヴィナス(Emmanuel Lévinas 、1906 - 1995)さんの『全体性と無限』という哲学書の一節のようです。レヴィナスさんは、私がいつか攻略したいと思っている哲学者の一人ですが、「『本当の生がここにはない』。それでも私たちは世界に存在している」というこの一節に関して言えば、あまりに私たちの生きている実感を言い当てていて、何も解説がいらないくらいです。

私たちは、誰もが生き生きと生きていたい、と願っています。しかし、現実にはそうもいきません。それでは、死ねば何もかも解決するのかと言えば、そうでもありません。死んだ自分を実感することなど、誰にもできないからです。だから、「本当の生がここにはない」としても「それでも私たちは世界に存在している」というほかに方法はないのです。

それならば、「本当の生」を手に入れればいいではないか、と若いあなたは言うかもしれません。確かにその通りですし、私もそう思います。しかしそのときに、「かつて俺が首を絞めて殺した、かなり昵懇(じっこん)の女」の記憶がよみがえって来ます。さらにタチの悪いことには、その記憶を忘れようとした欺瞞だらけの自分のことまで思い出してしまうのです。いやいや、それは辺見さんの空想の中のことであって、私は誰も殺してはいないし、殺すことに加担もしていない、とあなたは言うでしょう。

でも、それは本当でしょうか?

辺見さんは、この散文詩の最後に、次のような言葉を書き残しています。

 

俺は殺人者だ。内側に抑えがたい原始の心性を抱えた殺人者だ。

そして、下卑た殺人者だからこそわかることがある。入江には早晩、喩えようもなく巨きな水柱がズバーン、ズバーンと幾本も立つだろう。諸君、戦争である。嗚、オニシバリが甘く匂うよ。

(『入江の幻影』「入江の幻影」辺見庸)

 

また、解説の必要な言葉が出てきました。オニシバリは「鬼縛り」という常緑小低木の有毒植物だそうです。このオニシバリは、詩が訴えている危険な状況を私たちの五感に感受させるために登場したのでしょう。

そして「諸君、戦争である」という言葉です。

もしもこれから、世界的に大きな戦争が起こってしまうとしたら、私たちはそれを避けるための有効な手立てをしなかった不作為を、後世の人たちから責められることになるでしょう。戦争という大きな人殺しを止められないのならば、それは戦争に加担するのと同じことではないでしょうか。例えば、今私たちがロシアの一般的な市民に対して抱いている感情を思い浮かべても良いでしょう。どうして彼らは為政者に反対しないのか、彼らだけがウクライナへの侵略戦争を止められるというのに、彼らは涼しい顔をして平穏な市民生活を送っていて良いのか、と言いたくなります。しかし、多かれ少なかれ、その言葉は私たち自身に跳ね返ってくるのです。

 

実はそのような絶望的な現実に対して、冷静で厳しい言葉をテレビというメディアを通して発した人がいます。その人がそんなことを言うなんて何とも意外なことだ、と大方の人たちが思ったようです。その分だけ、その当時はその発言が話題になりましたが、私はそれほど意外にも思わずに、その言葉を了解しました。私よりも年長のその人が発した言葉に、さほどの違和感がなかったのです。

そんなことを思っていたら、辺見さんがこの本の中で、そのことを取り上げていました。

 

ところで旧臘(きゅうろう)のことだが、思想家や詩人ではなく、タモリという芸能人が『徹子の部屋』(テレビ朝日)に出演したときの発言がちょっとした波紋を広げた。視聴したわけではないので以下はネットからの引用となるが、黒柳徹子から「来年(2023年)はどんな年になるでしょう?」と訊かれると、タモリはやや間をおいて「新しい戦前になるんじゃないでしょうか」と答えたと言うのである。そのとおりである。

(『入江の幻影』「<新たな戦前>に際して」辺見庸)

 

なぜ、このタモリさんの話になったのかと言えば、辺見さんは「<新たな戦前>に際して」というエッセイの中で、櫻本 富雄(さくらもと とみお、1933 - )さんという詩人・評論家が、先の大戦中に「戦争詩」を書いて戦争を翼賛した詩人たちを追求する仕事をしてきたことを紹介し、その上で現在において危機的な状況を告発したタモリさんの言葉に触れ、タモリさんよりも随分前から櫻本さんが「新たな戦前」ということを言っていたのだ、ということを書いているのです。

もう少し詳しく書いておきましょう。

 

櫻本富雄は、だが、概ね“シカト”されてきた。平たく言えば煙たがられてきた節がある。ま、そりゃそうだろう。詩人らの大多数が戦争賛美・大元帥陛下崇拝の、坪井秀人に言わせれば、<屑詩>をこれでもかこれでもかと書きまくり、敗戦後にはいち早く口を拭って「反戦詩人」「反骨の詩人」にまんまとなり果(おお)せた御仁が少なからずいたのだから。

そのことを櫻本は『空白と責任ー戦時下の詩人たち』(未来社/1983年)などで遠慮会釈なく暴露したのだった。たかが詩ではない。戦時下の詩はときに銃器以上の武器であり、ファッショ的宣伝効果があったのである。有名無名の別なく詩人たちは書きまくった。詩は今では考えられないほど“繁盛”した。

櫻本はそうした過去の異様な喧騒を告発したのだった。蒼然としていとどに怪しい過去には敢えて触らず、そっと不問に付しておくのが、我がジパングの“醜悪な美風”であるにも関わらず、である。逆に見れば、この種の告発は日本では好まれない。暗部はしばしば見て見ぬ振りをされる。

(『入江の幻影』「<新たな戦前>に際して」辺見庸)

 

とてもショックな話ですが、私たちはこれらの事実について、どこまで知っているのでしょうか?

私は文学や詩に疎い人間ですので、例えば詩人であり、彫刻家であり、画家であった高村 光太郎(たかむら こうたろう、1883 - 1956)が、戦争協力詩を多く発表し、戦意高揚に努め、日本文学報国会詩部会長も務めたということを知ったのは、随分と後になってからでした。小学生の頃には、教科書に載っていた彼の詩を諳んじることができるほど、繰り返し朗読しました。私の無知はともかくとして、戦後の日本の国語教育には戦争翼賛に文学が果たした役割について、どういう反省があったのでしょうか?

このように、あまりに不勉強な私には、この件についてこれ以上何かを述べる資格はありません。こんなことでは辺見さんに叱られそうですが、さすがに美術の分野については、もう少し勉強しています。例えば、戦争翼賛のために描かれた戦争画については、機会があれば実物を見るようにしてきました。上の文章に、戦争翼賛の詩を「屑詩」と書かれていますが、戦争画について私は同様の感想を持っています。

 

さて、気が滅入る話が続きましたが、私は冒頭で「現実」と向き合うことは「ヒリヒリするような感覚」を覚えるものだ、と書きました。

しかし、ここまでくると「ヒリヒリする」どころではありません。あまりに辛くて、目を背けたくなりますが、そういうわけにはいきません。私たち一人一人は微力であり、個別に努力したところで事態は変わりませんが、それでもこれから何かできる重要な局面があるはずです。もしもあなたが芸術の分野における表現者であるならば、直接的に社会的な問題に触れる作品でなくても、厳しい現実と直面したことがわかる表現を続けていれば、そこに何かが起こると私は信じています。あなたの作品のリアリティが人の心を動かし、励ますのです。そんな努力を続けるためには、この矛盾した世界で生きていかなくてはなりません。あなたは潔癖なままではいられないし、安全な場所もありません。それでは、いったいどうしたら良いのでしょうか?

 

実は、この『入江の幻影』という本は、このような突き詰めた話だけではありません。辺見さんの飼っている老犬の健康を気遣ったエピソードや、辺見さん自身の脳出血、大腸癌などによる通院やリハビリの話など、個人的な話も書かれています。一般的に、詩人や評論家などと言えばスマートな文筆家、というようなイメージがあるのかもしれませんが、辺見さんの姿はそれとは程遠いものです。そんな姿を、辺見さんは包み隠さず文章化しているのです。

この世界には、時代を動かすような大きな問題が溢れかえっていますが、一方でごく個人的な問題も生きている私たちにとっては重要です。実際には、それらを分け隔てて整理することもできないでしょう。辺見さんは、その両方においてズブズブに足を取られている自分の現実=リアリティから目を逸らさずに、ひたすら一人で歩いているのです。

 

さて、それではそのような矛盾だらけの世界の中で、私たちはどのように生きていけば良いのでしょうか。その中でリアリティと向き合い続けることなどできるのでしょうか?

幸いなことに、芸術表現にはそんな世界を生きる処方箋のような作品があります。最後に、その話題について書いておきます。

 

その作品というのは、ロシアの大作家、ドストエフスキー( 1821 - 1881)が書いた『カラマーゾフの兄弟』という長編小説です。意外なことに、辺見さんは作家の村上春樹さんの書いた文章からその話を始めています。

 

村上春樹氏によれば、世の中には2種類の人間がいるという。それは何かと言えば、「『カラマーゾフの兄弟』を読破したことのある人と、読破したことのない人だ」(ジム・フジーリ著『ペット・サウンズ』の訳者あとがき)そうだ。

氏一流のレトリックなのだが、伝え聞くところによれば、すでに繰り返し4回読んだというから傾倒のほどが知れる。が、上には上がある。哲学者のウィトゲンシュタイン(1889 〜 1951)は、第一次世界大戦中軍事の数少ない私物の一つが『カラマーゾフの兄弟』だったこともあり、真否は定かでないが、同著を最低でも50回は精読したとか。

(『入江の幻影』「カラマーゾフと現在」辺見庸)

 

どうでもいいことですが、辺見さんが村上さんの文章を読んでいること、それも『ペット・サウンズ』の訳書ですから、辺見さんもビーチボーイズの音楽をお聴きになるのでしょうか?『ペット・サウンズ』はビーチボーイズの最高傑作です。

それはともかく、この『カラマーゾフの兄弟』は、父親とその子供たち、つまりカラマーゾフの兄弟たちの人間関係を見るだけでも、興味が尽きない小説です。ちょっとだけ、ご紹介しておきましょう。

好色な成り上がり者の父親フョードル、放埒で直情型の長男ドミートリィ、インテリで合理主義・無神論者の次男イワン、純情で真面目な修道僧である三男のアリョーシャ、それにイワンに心酔しているてんかんの持病をもつ使用人のスメルジャーコフ、実はスメルジャーコフはフョードルの息子だと噂されています。物語の主人公はアリョーシャなのですが、ドミートリィとイワンの人柄が濃すぎて、誰が物語の中心なのか、よくわかりません。

この人間模様だけでも興味深いのに、『カラマーゾフの兄弟』には、物語の中でイワンがアリョーシャに語る「大審問官」という創作物語が、劇中劇のように挿入されています。この「大審問官」は信仰を考える上で大変な問題作である、ということで、しばしば単独で論じられることがあります。

さらに物語の後半では、父親のフョードルが殺されてしまいます。そこで物語は、一気に推理小説のような興味を掻き立てる仕組みになっているのです。犯人の自殺、裁判のどんでん返しなど、凡庸なミステリーのようにすっきりと全てが解決して終わる、ということはありません。何が正義なのか、何が真実なのかもわからず、混乱したままに物語は終わるのです。

この『カラマーゾフの兄弟』のモチーフについて、辺見さんは次のように書いています。

 

ここで臆面もなく問わなければならないのが「神」の存否である。もしも神がこの世に存在しないとしたら・・・の仮説はドストエフスキー畢生(ひっせい)の大問題である。神の不在は、とりもなおさず「絶対」の消失であり、『カラマーゾフの兄弟』においては無神論者イワンの哲学「神がなければ、すべてが許される」が導きだされたのだった。

あらためて仰天する。21世紀現在とはすでにして「神なくして許されざるなし」の結果、到達した惨憺たる曠野(こうや)ではないのか。ドストエフスキーの時代には、核兵器も極音速巡航ミサイルもスマホもなかった。しかし神の存否と人倫の価値を真剣に論議する土壌があったことは明らかである。そのことをそぞろ羨ましく思う。

(『入江の幻影』「カラマーゾフと現在」辺見庸)

 

ここで辺見さんは、物語が混乱のままに終わることを問題としてはいません。むしろ彼は、それが現在の混乱を予見していたことに驚いているのです。そして「神の存否と人倫の価値を真剣に論議する土壌があったこと」に、辺見さんは注目しています。混乱は混乱として、矛盾は矛盾として受け止めて、それでも論議して前を向くことが大切です。それが現実=リアリティと向き合うことではないでしょうか。

現在の世界は、社会全体で混乱を避けることばかりを考えていないでしょうか。そして、これだけ歪んだ現実=リアリティが存在するのに、それらの矛盾を矛盾として受け止めきれなくなっているのです。

現代美術の世界では、すでに1960年代において、モダニズムの作品が純粋な論理を求めるあまり、その息苦しさから出られなくなってしまいました。それからあとは、論理を放棄した混乱だけになってしまったように見えます。それでも良質の作家たちは、論理的な進展をあきらめず、なおかつ矛盾を抱えたままの作品と辛抱強く向き合っています。それは、必ずしも辛い苦行ではありません。むしろ、そこにこそ人間が芸術と触れ合う喜びがあります。

このエッセイの最後に、辺見さんは次のように書いています。

 

文目(あやめ)も分かぬ夜の森にも似たこの長編小説の奥行きは深すぎて、どこが森の果てや出口やら見当もつかないまま読み手が迷子になってしまう。じつはそこが妙味なのである。わたしたちはいま、もっと迷子になるべきなのだ。

(『入江の幻影』「カラマーゾフと現在」辺見庸)

 

最初に書いたように、リアリティ(現実)と向き合って生きていくことは、ヒリヒリとするような感覚を伴うものです。作品を制作していても、矛盾を進んで引き受けると、すっきりとしない思いが募るかもしれません。しかし、矛盾を解消することが目的ではありません。「じつはそこが妙味なのである」と辺見さんは書いています。その妙味がわからない人は、芸術家に向いていないかもしれません。そういう人は、『カラマーゾフの兄弟』を読み切ることすらできないでしょう。

さらに、辺見さんの最後の一言を覚えておきましょう。

「わたしたちはいま、もっと迷子になるべきなのだ。」

どうやったら、私たちは「迷子」になることができるのでしょうか?もちろん、『カラマーゾフの兄弟』を読むことが第一ですが、もしもあなたが自分自身の創作において「迷子」になりたいのならば、矛盾した現実=リアリティと向き合えば良いのです。ヒリヒリとしたリアリティが、必ずあなたを迷わせるはずです。そして、そんな現実=リアリティに困って悩んだら、そのありさまを作品として見せてください。そして一緒に迷いましょう。

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