平らな深み、緩やかな時間

195.『トゥルーズ=ロートレック』吉田秀和について②

本題に入る前に、先月の衆議院選挙後の話題について、少しだけ気になったことを書いておきます。政治に詳しいわけではないので、素人の感想です。
選挙結果について、当然のことながら私にも思うことがいろいろありますが、それよりもいまは敗れた野党の代表選びが見るに耐えない、ということが気になります。最も若い候補者が50歳、女性は一人だけ、というところなどは与党とさして代わり映えがしません。似たような政治家集団ならば、政権交代など何か意味があるのか、と誰もが思うでしょう。テレビの報道番組で、あるコメンテイターが候補者を全員女性にするぐらいの思い切りがなければ・・、と言ってましたが同感です。
それから、相変わらず若者の投票率が低く、街頭インタビューでは「誰に入れていいのか分からないから選挙に行かない」という声が多かったようでした。しかし、そもそも誰に入れていいのかなんて、誰にも分からないのに、どうして若者たちはこういうふうに考えてしまうのでしょうか。これは教育者の端くれとして、私も反省しなくてはなりません。若者が選挙に行かない限り、政治家は彼らに見向きもしません。お行儀の良い答えよりも、間違えてもいいから存在感を示すことが大切だ、ということを、私たちは子どもたちに教えなくてはならないのです。
そして私事になりますが、今月61歳になりました。もしも私が政治家だったら、まだ中堅ぐらいでしょう。しかし、このところテニス部の男子生徒と一対一で練習することが多いのですが、ラリー練習や試合の相手までやると、さすがに疲れてしまい、それなりの年齢だと感じます。そう考えると与党の老人たち、それから海の向こうのアメリカ大統領選挙を戦った二人なども、そうとうにタフですね。しかも共和党の敗れた大統領候補者は、次の選挙を見据えて影響力を広げようとしているのです。仮にそれで選挙に勝ったとして、いったいいくつまで大統領をやるつもりなのでしょうか。私のように、子どもたちに迷惑をかけないように作品や本、レコードをそろそろ整理や処分をしなくては・・、と連れ合いに諭されている身としては、政界の老人たちこそ負の遺産を整理して、さっさと身を引きなさいと言いたくなります。
以上が、今回の選挙に関する素人の感想です。私などがあがいてもどうしようもないことばかりですが、若者の選挙離れだけはなんとかしなくてはなりません。これは若者たちのせいではなくて、年長者である私たちに責任があると思います。

それでは本題に入ります。
以前に、音楽評論家の吉田秀和が書いた美術評論『調和の幻想』をこのblogでとりあげましたが、今回はその続編にあたる『トゥルーズ=ロートレック』を取り上げます。
https://blog.ap.teacup.com/tairanahukami/197.html
その『調和の幻想』という著書は、次のような文章によって次著の『トゥルーズ・ロートレック』に引き継がれたのでしたが、はじめにちょっと復習です。前にblogの末尾で引用した部分を再度掲載しておきます。

古典的パースペクティヴの枠におさまらず、それをはみ出したヨーロッパの絵画、それは、マネ、ドゥガからのち、さらにロートレック、ゴッホ、ボナールといった世代の制作に至って、一層、その非古典性を尖鋭化する。そこでは、絵画がそれをみたあと「爽快な気持ちになって、また仕事に戻ってゆく」ような働きを発揮することなど、めったなことでは、望めなくなる。科学的パースペクティブは、それ自体が、理想主義的内容をもっていたとはいえないにせよ、そのパースペクティヴにより、均衡のとれた肖像とか、一つの調和により美しく完結された風景とかが生まれ得たことは事実であり、パースペクティヴに歪みや変貌が加えられるに従い、画面の均衡は、内側からつき崩されたり、腐敗し、空洞化されはじめる。そこに虚偽を見、そこから発する悪臭に耐えきれなくなったロートレックのような画家は、アシンメトリーをさらに尖鋭化させたり、一枚の絵であって、しかも二重の方向に走るパースペクティヴを持つといってもいいような作品を描きはじめる。それからゴッホの場合も、主観的には、疲れた人の心を爽やかにして生活の場に戻してやるような芸術の創造を、彼くらい熱望している芸術家はいなかったかも知れないのに、その彼の創り出した絵画は、まるでちがったものになる。彼が魂の平安への祈りを強化すればするほど、画面には、不安、でなければ恐怖、でなければ渇望、でなければ絶望が、ますます濃い影をおとすことになる。こういう人たちが、マネやドゥガのあと、日本の絵画と強くかかずらうようになったのは、偶然であるはずはない。
だが、その跡を追うことはこのつぎの話である。
(『調和の幻想』「北斎」吉田秀和)

『調和の幻想』は、吉田が中国の紫禁城に行き、その壮大な広さと空間構成に圧倒されたところから話が始まりました。彼は中国の建築物の空間構成が日本よりもヨーロッパの感覚に近いと考えたのです。それから、絵画のパースペクティブの問題へと話が移り、近代のヨーロッパ絵画に対して日本の浮世絵などの空間構成がどのように影響したのか、を考察したのです。そして近代絵画の中でもポスターなどの制作により、画面構成の妙に定評があったロートレック(Toulouse-Lautrec-Monfa、1864 - 1901)へと話が移っていきそうなところで、この『トゥルーズ・ロートレック』へと引き継がれたのでした。

さて、前回も同じようなことを書きましたが、この吉田秀和の美術評論は、いまの美術評論の感覚からすると、すこし外れたものになっています。本格的な美術評論というよりも、教養の高い人が書いた随筆のようなものだと言ったほうがよいのかもしれません。内容が美術に関することであり、それなりに知的な度合いが高いものではありますが、あらかじめ論旨がはっきりしていたり、筆者の研究的な立場が決まっていたりするのではなくて、吉田の興味の赴くままに話が進んでいきます。その進み具合の概略を追ってみましょう。
この本のはじめに、アカデミックな肖像画について論じられています。その上でロートレックが古典的な絵画のプロフィール(横顔)を好んだことを確認し、それがロートレックの絵画やポスターの中でどのように影響していたのか、ということを論じていきます。
そして、ロートレックの描いた人物や馬の姿が日本の浮世絵などに影響を受けていたこと、さらには人物の一瞬の姿を捉えたり、のぞき窓から見たような情景を描いたりしたことが、先輩の印象派の画家ドガ( Edgar Degas 、1834 - 1917)に共通することを指摘しています。
さらにドガとロートレックの関係にまで話が及んだと思ったら、ドガについて論じないわけにはいかない、とばかりにロートレックのことをひとまず置いて、ドガと古典的な絵画との関係について論じていきます。ドガが影響を受けたであろうニコラ・プサン(Nicolas Poussin, 1594 - 1665)やドミニック・アングル( Jean-Auguste-Dominique Ingres、 1780 - 1867)について論じているうちに、アングル晩年の作品『トルコ風呂』の女性像から「ヴィーナス像」が古代からどのように描かれてきたのかを考察していきます。
また、現代絵画の巨匠、ピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)がその『トルコ風呂』から大きな影響を受けたことを指摘したところで、やっとドガとロートレックの話に戻ります。
この二人の画家の比較から論じられたことは、画面の構図の大胆さであり、またモチーフである女性たちへの眼差しです。もう少し具体的に言うと、ドガはロートレックよりもアカデミックな絵画との繋がりが深いために、伝統的なパースペクティヴのなかで絵画の構図を工夫しようとしました。逆にロートレックはドガよりも作風が軽い分だけ、浮世絵などの影響を取り入れやすかった、ということが言えます。また、皮肉屋のドガよりも、ロートレックの方が女性への眼差しが優しかったようです。ロートレックが描いた女性たちがキャバレーのダンサーや娼婦たちだったことを考えると、このロートレックの女性たちとの距離感の近さは特筆すべきものです。

ところで私の個人的な興味から言えば、ロートレックよりもドガの方が数段、魅力的に感じます。ドガは卓越したデッサン力で踊り子を描いた画家として有名ですが、彼の懐の深さはそれだけではありません。私は中学生か高校生の頃に、デパートで開催された近代絵画の名画展で、ドガの美しい風景画を見たことがあります。それは家並みを描いたシンプルな作品で、家の形もぼんやりとしか描かれていません。しかし、にじむような筆遣いで描かれた家の屋根や壁の色合いが甘美で、自由で、それでいて深みのあるものでした。ドガはデッサンの達人であるだけでなく、色彩においてもずば抜けた画家であったことが、若い私にもわかりました。吉田秀和のこの本も、ロートレックを題名に用いながらも、その半分くらいはドガの話題です。例えば、こんな具合です。

ところで、ここで突然こんな話をしてよいものだろうか。実は、私の計画では、ここまで書いたあと、話をロートレックに集中し、一挙に核心に向かってつき進むつもりであった。ところがここに来て、ドゥガが私の目の前に立ちふさがり、それをなおざりにしてよそにいってしまうのを許さないのである。申しわけないが、またしてもドゥガに寄り道をさせていただくほかない。
私は前に、ドゥガの芸術は複雑な性格のものだと書いた。それに比べればロートレックのそれは、あらゆる近代性をもってしても、より単純なものだ、とも。ドゥガが複雑だということで、私は何を言うつもりだったか。
それは絵画という芸術の本質にかかわる。
周知のように、絵画には長い歴史がある。歴史があるというのは、人類の文明の歴史の中で、それぞれの時代が、それぞれの絵画を生んだということにほかならない。しかし、それはまた、それぞれの時代の絵画が、それぞれの中で無関係に孤立していたというのではなくて、その間に関連があったということでもある。時代によって変化があったこと。変化にもかかわらず、あるいはその変化を通して、持続が存在していたということにもなる。歴史は、その変化を持続の弁証法の中で実現してくる。その意味で絵画の歴史は、それぞれの絵画を計る尺度と別なところにあるわけではない。逆に言えば、一枚の絵は絵画の歴史との関連の中で生まれたり、死んだりする。
画家が絵を描く。その時、彼は歴史と対決しながら、歴史を継承しているのである。彼は一枚の絵を無からつくりあげるのではない。彼が「自然」に向きあっていようと、「現実」を対象にして描こうと、モデルを使ってそれを忠実に描いていようと、あるいは本人だけは、何もないところで、無限に向かって手をふるように制作しているような気になっていようと。そもそも、どんな時代であれ、ある人間が絵を描こうとする時、絵画はその前にすでに存在していたのである。人間の歴史をどこまで遡ってみても、まだ絵がなかったという時代にゆきつくことはできず、どんな人間も、絵を描く最初の人間になることはできない。
(『トゥルーズ=ロートレック』「ロートレックとドゥガ」吉田秀和)

まったくその通りだと思います。この文章を読むと、「どんな人間も、絵を描く最初の人間になることはできない」ということが、実に単純な事実であると思えてきます。しかし現実には、とくに現代美術において、まるで絵画が一新されたかのように、それでいて安易に先人たちの築きあげたものに依拠している、そんな作品が目につきます。これはたんなる勉強不足のせいなのか、それともそういう新しさを装わなければならない必要があったからなのか、私にはよくわかりません。
この絵画の「歴史性」に気づきつつも、だからこそ「初めて絵画を描いた人がいたとしたら、それはどのような絵画になるのだろうか」ということを突き詰めて考え、表現した画家がいました。日本の画家、中西夏之です。彼は、絵画という平面が垂直に屹立しているところから考えはじめました。その思考や制作方法は、一歩間違えれば独りよがりなものになってしまう危険性をはらんでいました。しかし、絵画というものの核心に触れるために、彼は一歩ずつ着実に歩を進めたのです。現実には、多くの画家がそんな覚悟もなく、あたかも自分がまったく新しいことを始めているような錯覚のもとに絵を描いています。そのなかで、中西だけが覚醒していたかのように歩んでいったのです。しかしそれは、また別な時に論じることにしましょう。

それにしても、この部分を読んだだけでも、吉田秀和が本当に論じるべきだったのはロートレックではなくて、ドガだったのではないか、と思ってしまいます。そのことを吉田自身も気づいていたのではないか、と思います。それなのに彼がロートレックを論じ切ってしまったのは、吉田が音楽評論の大家であったとはいえ、本格的に美術を論じ始めたところだったからだと思います。吉田には、まだドガを通して絵画の核心に迫るだけの機が熟していなかったのです。そのことについて、もう少し突き詰めて考えてみたいと思います。
吉田秀和は、自分がどのような見方で美術を論じているのか、次のような言葉でいい表しています。

もう一つ、余談を許して頂けば、私の基本的な態度は、ここでも、できるだけ絵に導かれ、絵に即して考えるように努力することであって、絵を出発点として、自分の幻想を語るのでなかった。
(『トゥルーズ=ロートレック』「あとがき」吉田秀和)

この「絵に即して」というのがくせもので、できるだけ予備知識を廃して画面だけをながめる、というこの態度は、前回のblogでも話題とした「フォーマリズム」とかなり近い見方になります。実際のところ、吉田が注目するのは何よりも絵の構図であり、描画の時の筆のタッチであり、画面上の色彩であり、描かれた人や動物の動勢です。例えば、ロートレックの最も有名なポスター作品『ムーラン・ルージュのラ・グーリュ』を吉田がどう書いているのか、見てみましょう。
https://www.musey.net/15492

ロートレックはポスターの上部、それからとくに床の部分に、大きく空白の空間をとる。そ上にもう一つ、画面中央に、踊り子のスカートの裏と下ばきのところにも、鮮やかな真っ白な空間を、いわば手つかずのまま、残す勇気をもっていた。この単純さと明快さは、画面を構成する幾つもの形姿を平塗りにし、輪郭だけを残すやり方でも同じように適用されているし、その平塗りに使用されたオレンジ、黄色、黒、淡い青と紫といったわずかの数にきりつづめられているところまで徹底されている。その上に、輪郭を描く線の歌うような性格。
こういった特質を、ロートレックは、どこから受けとったというのだろう、もし、日本の浮世絵、それと、彼の敬愛してやまないドゥガが浮世絵から学びとったもの、この二つからでないとしたら!
(『トゥルーズ=ロートレック』「ムーラン・ルージュ」吉田秀和)

画面を描写する吉田の文章がとても魅力的です。しかしこのように、画面上に顕著な特徴に注目していく限りでは、ロートレックは論じやすい画家だったと言わなければなりません。そして、私がロートレックに物足りないものを感じているとしたら、このように論じることで、かなりの程度まで彼の芸術を論じ切れてしまう、ということなのです。ビジュアルなポスターという表現手段を選んだ画家ですから、画面上のわかりやすい特徴が顕著であることはあたりまえだと言われてしまいそうですが、例えば同じ吉田が書いた文章でも、絵画の歴史的な本質にまで思いを馳せて語った先程のドゥガに関する文章とは、だいぶ様子が異なることに気がつくでしょう。
吉田は、自分の見方がフォーマリズム的だと意識せずに書いましたが、彼の中にはそれだけではおさまらない批評眼がありました。それが、吉田をドガの絵画に向かわせたのですが、それがここで大きく花開くというわけにはいきませんでした。
おそらく、その反動のようなものが彼をセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)へと向かわせたのです。吉田自身もそう書いていますので、それを紹介しましょう。この一連の流れについて、吉田自身が『セザンヌ物語Ⅰ』で次のようにまとめて書いているのです。少し長いのですが、次回以降の吉田の著作について書く上で、おさえておきたい部分なので引用しておきます。

なぜ、シンメトリーの感覚とそれを支える精神的態度は、中国とヨーロッパに内在的自発的であって、日本ではそうでないのか。
この問題の全体に解答を与えるのが、私の手に余ることは、最初から、わかっていた。それから、このシンメトリーの感覚は、近世ヨーロッパで、科学的パースペクティブを基本にすえた造形芸術の誕生とその発展の歴史と不可分に結びついているだろうことーそれも、即座に考えられた。
しかし、私はかつて美術史を勉強したことのない人間である。近代的科学的パースペクティヴの発生とその後の展開のあとを深めることだけでも、私の生涯にあまされたわずかの年月だけではとてもたりないだろう。私はむしろ、自分に今残されている力と自分に与えられた時間の中で、自分の経験の領域にとりこみ、実際に見たりふれたりできる限りでのものを頼りに、北京紫禁城に立った時の感覚(sensation)についての分析的再現を企てようと考えた。
こうして、私の美術の旅ーそれも主として絵画をみたり、そのみたものについて考えたりする歳月が始まった。その二つの結果は、すでに『調和の幻想』と『トゥルーズ=ロートレック』という本として、発表された。それについては、ここでは、多くを語る必要はない。ロートレックは、ヨーロッパの芸術家で、自分の芸術を実現する上で、日本の芸術から多くを得た人々(その中からごく数人をあげれば、マネ、ドゥガ、モネ、ゴッホ)のなかでも「本質的でないものはすべて切りすてる」ということを、ひとつの軸にすえて芸術創造を行なった人の例である。その芸術は、また、ヨーロッパ社会の最高の貴族階級に生まれながら、自分で自分をその社会からはじき出し、同じように疎外された集団と共存するところまでいった人間の芸術でもあった。そうして、私がこの芸術家に特別の関心をもったのは、その点ではなくて、日本の芸術に接近して、その最も基本的な美学を自分のそれにした彼の芸術がヨーロッパの近代的パースペクティヴの枠から逸脱し、アシンメトリーに依存した構図をとった事実(それが『ジャルダン・ド・パリ』『ディヴァン・ジャポネ』のポスターに結晶した)にあったのだが、この人の例は、日本の芸術家で、ヨーロッパ近代的パースペクティヴに作図の大きな役割を与えながら、最も独創的な画面(『富嶽三十六景』)をつくりあげた人ー北斎ーと大きなパラレルの関係をつくり出したのではないかと推理された。
<中略>
ロートレックのあとを追い、その芸術の生成のあとを追っていくうちに、私はいわばそのカウンターバランスとしての存在、セザンヌについて考えるようになっていた。
こう書いていくと、私のセザンヌへの関心は、主に近代美術史の展開の上で彼が演じた役割をめぐるそれのように思われる恐れがある。しかし、在りようは、その反対であった。まず、セザンヌは、私にはずっと前から、19世紀のヨーロッパの画家の中でも、およそ日本の美術とは遠いところにいる人と見えていた(彼自身も、何度か、そう言明していた)。と同時に、彼の制作には、近代的なパースペクティヴの見地からすれば、説明のつけがたい点とか、理論と整合しない点が、多々、認められるのだ。この二つを組み合わせるとどうなるか。
それは、日本芸術からの影響といわず、それからのわずかな刺戟さえないとされてもいいところで、すでに、近代的パースペクティヴからの逸脱ー或いはその解消への歩みがはじまっていた以上、それは西欧美術の内部からの自己変革ということになるだろう。それは、なぜ、そうしてどう行われたのか。また、なぜそれは最後まで、結局、非ヨーロッパ芸術と相わたるものがないままに終わってしまったのだろうか?
(『セザンヌ物語I』「終わりにあたってのはしがき」吉田秀和)

ここに書かれているように、吉田秀和のセザンヌへのアプローチは、ロートレックと同様に画面上のパースペクティヴの不整合、つまりは独特の工夫がなされた画面構成の問題からはじまっています。自分の見たものだけをたよりに絵画を探究する、という吉田の態度はセザンヌの絵画においても踏襲されていたのです。しかし、吉田自身がドガについて書いたように、一枚の絵画を深く理解するためにはその背後にある歴史や人間の思想を考慮することも、時には必要です。それがなければ「西欧美術の内部からの自己変革」であるセザンヌの芸術を十分に理解することができない、と私は考えるのです。
けれども吉田は、自分の見たものだけをたよりに探究するという態度を簡単には変えようとしませんでした。つまり彼は、セザンヌの絵画の背後にあるものに気づきつつも、セザンヌの絵画のパースペクティヴの問題を丹念に見ていくことで、自ら見出した課題を解き明かそうと試みたのです。それは吉田秀和という評論の大家だからこそ成し得た、あるいは許された貴重な道行きだったとも言えます。

さて、その『セザンヌ物語』を読み解く前から結論めいたことを書いてはいけませんが、私の遠い記憶では、吉田はついに自ら課したセザンヌのパースペクティヴの問題を解決することができませんでした。しかし私は吉田の本から、その解決しようとする過程こそが意味がある、と教わったように思います。実際に彼の本を読むことは心地よいものであり、彼が興味の赴くままにセザンヌの絵画を彷徨う様でさえ、読み応えのあるものでした。そのことを、これからも少しずつ追いかけてみたいと思います。

ということですので、この後も断続的に吉田秀和の著作『セザンヌ物語I』、『セザンヌ物語II』を読んでいきます。
よかったらご一緒に、セザンヌの絵を見ることの醍醐味を味わっていきましょう。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「ART」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事