平らな深み、緩やかな時間

190.『生誕110年 香月泰男展』神奈川県立近代美術館葉山

このblogでも以前に取り上げたことのある、香月泰男の展覧会が神奈川県立美術館葉山で開催されています。
まずは美術館のコメントのはじめの部分を見てください。

太平洋戦争とシベリア抑留の体験を描いたシベリア・シリーズで、戦後洋画史に確固たる地位を築いた香月泰男(1911-74)。東京美術学校(現・東京藝術大学)時代から最晩年まで、シベリア・シリーズ全57点を含む各年代の代表作を制作年順に紹介し、香月泰男の画業の全容をたどります。
http://www.moma.pref.kanagawa.jp/exhibition/2021-kazuki-yasuo


ここにも書かれているシベリア・シリーズという連作が、香月泰男をとりわけ重要な作家にしています。そして私は以前にも香月泰男のことを書いています。
それは次のblogになります。

「156. Bob Dylan『Blowin' in the Wind』、そして沢山遼『絵画の力学』から香月泰男について」

ここでは沢山遼という気鋭の美術評論家の文章に導かれて、香月泰男の絵の様式と、そのモチーフとなった過酷な体験との関係を考察しました。そのことについては、再度触れたいと思うのですが、それはあとにしましょう。
今回は、まずシベリア・シリーズのモチーフとなった香月泰男のシベリアでの体験がどのようなものであっったのか、少し客観的に見ておきたいと思います。

いったん、美術から離れて『シベリア抑留ー未完の悲劇』という岩波新書を見てみましょう。著者は栗原俊雄という私より少し若い毎日新聞の記者です。日本の近現代史が専門分野の方のようです。
それではまず、本の表紙の折り返しのところに書かれている内容の説明を読んでみましょう。

敗戦直後、旧満州の日本人兵士ら約六〇万人がソ連軍に連行され、長期間の収容所生活を送った「シベリア抑留」。極寒・飢餓・重労働の中で約六万人が死亡したこの悲劇は、今も完結していない。衝撃的な史料の発見、日本政府への補償要求と責任追及...。過酷な無賃労働を強いられた帰還者らは、「奴隷のままでは死ねない」と訴える。
(『シベリア抑留ー未完の悲劇』「表紙折り返し」 栗原俊雄)


戦争というものは、どんな戦争でも過酷なものですが、このシベリアで起きた出来事はその中でもどんな特徴があるのでしょうか。
例えば、戦争で相手に捕らえられてしまえば、その人は「捕虜」と呼ばれますが、このシベリアの出来事では、どうして「抑留(よくりゅう)」」という言葉が使われているのでしょうか?そして「今も完結していない」と書かれているのは、なぜなのでしょうか?「奴隷のままでは死ねない」という言葉も尋常ではありません。歴史に疎い私のような人間が読むと、謎だらけの文章です。素人の浅学であることは逃れようもありませんが、それでも少しずつ解明していきましょう。
まず、満州というのは現在の中国東北部のことですが、そこにどうして60万人もの日本兵がいたのでしょうか。実はそこには150万人もの日本人が住んでいたのです。
日本とソ連が戦争に至る経緯を簡単にみておきましょう。

日本は日露戦争で満州を勢力下に収めた。関東軍はその権益を守るべく、1919(大正8)年に創設された。中国関東州と満州に駐屯した日本陸軍の部隊の総称である。早くから中央の制御がきかなかった。
<中略>
1932年、中国清朝最後の皇帝溥儀を執政(のち皇帝)に迎え、満州国が建国された。首都は新京(現長春)である。同時に締結された「日満議定書」によって、満州国の国防は関東軍が担当することとなった。
その満州国とソ連、そしてソ連の同盟国であるモンゴルとの間では、国境紛争が絶えなかった。1939年5月、満蒙国境付近で関東軍とソ連・モンゴル軍が衝突、大本営と政府の不拡大方針を無視して独走した関東軍は、手痛い敗北を喫した(ノモンハン事件)。
日中戦争が泥沼化し、対米英関係も悪化して閉塞感のある日本と、西はドイツ、東は日本との二正面作戦を避けたいソ連は歩み寄った。1941年4月13日、松岡洋右外務大臣はモスクワで、スターリンが見守るなか、日ソ中立条約に調印した。両国の平和友好関係の維持と、一方の国が第三国と戦う場合、他方は中立を守る、というのが主な内容である。
同年6月23日、日本の同盟国ドイツがソ連領に侵攻し、独ソ戦が始まった。
<中略>
ドイツの侵攻は日本が期待したほど進まなかった。8月9日、参謀本部はソ連への侵攻をいったん諦めた。諦めたのは、中立条約の信義を守るためではない。実行する条件が整わなかったからである。
北進中止を決めてからちょうど4年後の1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約を踏みにじって満州に攻め込んできた。歴史に刻印されるべき蛮行である。しかし一方で、日本側もその条約を無視してソ連に武力発動することを検討していたことも、確認しておくべきだろう。
(『シベリア抑留』「第1章 発端」 栗原俊雄)

一般的な新書とはいえ、歴史的な記述を読むと漢字(場合によってはカタカナ)と年号が多くて辟易します。読むのが面倒なところは省略したのですが、おおよその流れはわかると思います。
日本は中国の東北部に満州国という傀儡(かいらい)国家を作り、その皇帝に清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を据えます。歴史に疎い私ですが、この辺りの話は映画『ラスト・エンペラー』で見たイメージが強烈です。坂本龍一が演じた関東軍の甘粕正彦は、見るからに嫌な奴でした。しかし実際の甘粕は映画を愛した人で、映画界への貢献が大きかった人のようです。人間的にも、善悪の両面を持った、それなりの陰影があった人だったのでしょう。
そして、日ソはそれぞれの国の事情から中立条約を結んだのに、ソ連軍は武力発動して攻め込んでくる、という結果に至ったのです。戦争末期で日本軍は各方面の防戦に追われ、関東軍は満州国の人たちを守るどころか、一般市民はもちろんのこと、軍の中での撤退指示も不徹底なままにいち早く避難したのだそうです。
それから、文中にある独ソ戦ですが『独ソ戦 絶滅戦争の惨禍 』(大木毅)という本が岩波新書から出版されて、2020年度の新書大賞を受賞したのも記憶に新しいところです。ですから、多くの方がその悲惨さについて知っていらっしゃるのだろうと思います。ヒトラーとスターリンの戦いですから、どれだけ理不尽な戦闘であったのかは想像に難くないですね。日本は同盟国であったドイツに期待したのですが、期待虚しくドイツはソ連に敗れてしまいます。
日本にとっては、そういういろいろなことが最悪の方向へと転がって、中国東北部にいた日本人は撤退もできずに大量に捕虜となってしまったのです。
ここではじめの問いを考えてみましょう。なぜ、シベリアで強制労働などを課せられた日本人は「捕虜」ではなく、「抑留(者)」というのでしょうか。

ソ連に連れ去られた日本の軍人たちは、国際法上の「捕虜」であり、日本政府もそれを認めている。しかし帰還後、「捕虜でなく抑留者」と主張する旧軍関係者も少なくない。天皇の命令で戦争を止めた。ソ連に身柄を拘束されても「俘虜=捕虜」とは見なされない。すでに見た「勅語」と「大陸命」はそう約束していた。さらにもともと捕虜になることを不名誉、もしくは死に値することと教えられ、信じてきた人々が「自分たちは捕虜ではない」と主張するのは自然である。
しかし「抑留者」とは、一般に民間人で交戦国に拘束された者を指す呼称である。捕虜は国際法によって身分や権利が保障されているが、抑留者のそれは捕虜ほど整っていない。強制労働を課された場合、捕虜であれば労賃を受け取る権利があるが、抑留者にはそれが認められない。
<中略>
ソ連も署名したポツダム宣言は、日本の軍隊は武装解除されたあと「各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且(かつ)生産的ノ生活ヲ営ムノ機会」を与えられると記している。にもかかわらず、ソ連による抑留は最長11年に及んだ。明白な国際法違反である。
(『シベリア抑留』「第2章移送」栗原俊雄)

ソ連はこの戦争で多くの労働力を失い、シベリアの開墾などの過酷な労働を担う者が大勢必要だったのです。だから日本人の捕虜は労働力としてうってつけだったのです。そういう事情に加えて、「捕虜」であることを認めたくないという日本人の思いが重なりました。「抑留者」という、「捕虜」以下の人権しか持たない立場の呼称が用いられたのは、そういう複雑な事情があったようです。
そして、てっきり日本に帰れると思って従順に列車に乗った彼らは、北の果てへと連れていかれて、過酷な強制労働を強いられたのです。その「抑留者」たちは、帰国しても強制労働の賠償もされず、逆にソ連にいたことで「アカ」と呼ばれて、差別扱いをされた人もいたようです。だから、「抑留」された彼らの問題は「今も完結していない」し、「奴隷のままで死ねない」ということになってしまったのです。
さて、それでは被抑留者であり、画家でもあった香月泰男の気持ちは、どうだったのでしょうか。彼の書いた「私のシベリア」という文章に、次のような一節があります。

自分に忠実であろうとすると、ますます他人には分かりにくいものになっていく。一方で、人に理解されたくない、これはオレだけのものだという気持ちがあるのに、やはり分かってもらいたいという気持ちも他方にあるのは否定できない。しかし、妥協はできない。解決策として、私は説明文をつけることにした。
(『香月泰男展 カタログ』より「私のシベリア」香月泰男)

ここには表現者としての香月泰男の悩みが綴られています。どんなに強烈な想いであっても、表現を継続するのであれば他者(鑑賞者)の受け止めを気にしないわけにはいかなくなります。それを避けて自分の表現へと突き進めば、それだけ他者と乖離してしまいます。
他者に分かってもらうために表現を妥協するのか、いやいや、これは自分だけの想いの表現だったはずだ、という苦悩が香月泰男の頭の中を巡ります。そこで香月泰男は、絵画表現としては妥協しないかわりに、そこに文章をつけるという選択をします。
しかし、これも微妙な方法だと思います。私も香月泰男ほどの大家ではないとしても、このように文章を綴りながら、絵画も制作しています。そして、自分の展覧会では自分の制作について書くこともありますが、なるべく自作の説明にはならないようにしよう、と思っています。自分の制作上のコンセプトを、作品を見ていただく方に、とりわけふだん現代美術を見ることのない方に、理解の一助としてコメントを書くことは良いのですが、それが作品の説明になってしまってはまずい、と思っています。私の言葉が、見る方の自由な鑑賞を邪魔してしまうからです。
それでは、香月泰男の場合はどうでしょうか。彼の作品は、シベリア・シリーズとしてすでにその特殊性が明らかになっていますから、その作品を見れば概ね彼が訴えたいことも伝わってきます。しかし、具体的にどのような体験に基づくものなのか、というところまでは、さすがに分かりません。そこで彼の文章を読むと、作品の背後にどのような事実があったのか、ということがわかります。
この場合の、香月泰男が言うところの「説明」というのは、絵画の背後に流れる物語であって、絵画そのものの解説とは違っています。私たちは、彼の物語を知りたければ説明を読めば良いし、仮にその物語を知らなくても彼の絵画を鑑賞する上では障害にならないでしょう。そういう意味では、彼が絵画の中に説明的な表現をもちこまなかったという選択は、良いことだったと思います。

さて、このへんで先ほども触れた沢山遼の香月の批評について書いておきましょう。
彼は香月泰男の絵画にたいへんに深い読みをしてみせました。香月泰男の絵画の、箱の中を覗き込むような画面の様式は、捕虜として捉えられた人たちが囚われた空間の表象となっている、というのです。私は今回の展覧会でシベリア・シリーズのすべての作品を見て、やはりこれは少しうがちすぎた見方だな、と思いました。香月泰男は絵画の空間構造や様式について、それほど意識的に、そして自由に表現表現できた画家ではありません。それに私が今回見て再確認したのは、このシベリアシリーズの絵画様式に最も相応しいモチーフは、シベリアの湿地や大地などではないか、と思いました。それらの極めてシンプルな空間構造の方が、彼の表現様式にぴったりだな、と思ったのです。
しかし私がそう感じたことは、沢山の優れた評論を否定するものではありません。沢山が香月泰男の作品に、その様式と表象された空間とを結びつけ、そこに囚われた人間の空間意識を見出したということは、やはり慧眼だと思うからです。そういうふうに解釈できる作品もありましたし、そう見ることによって香月の作品のリアリティーが増して見えるという点で、素晴らしい批評だと思います。ただ、私が最もリアリティーを感じた作品は他のものだった、ということなのです。

香月泰男については、次回もう少し書いてみようか思っていますが、今回の最後に、香月泰男の作品のイメージをそのまま文学表現にしたような興味深い事例について紹介しておこうかと思います。
次の山口県立美術館のホームページにある『1945』という作品を見てください。今回の展覧会でも展示されていた作品とデッサンです。
https://www.yma-web.jp/exhibition/special/archive/kazukiyasuo2014/exhibition/index.html
この作品に関する香月の説明は次のとおりです。

戦争が終わると、我々はソ連兵の傍若無人のふるまいと、現地人たちの憎悪の眼にさらされることになった。我々の貨車が通る鉄道沿線に、ならんだ彼等からツバを吐きかけられ、罵倒されたこともあった。
列車が奉天を出て、北上をはじめてまもなく、線路のわきに放り出された屍体を見た。満人たちの私刑で殺された日本人に違いない。衣服をはぎとられ、生皮をはがれたのか、異様な褐色の肌に、人間の筋肉を示す赤い筋が全身に走って、教科書の解剖図の人体そのままの姿だった。
帰国後、写真で見た広島の原爆の、真黒こげの屍体と、満州で貨車から瞬間見た赤茶色の屍体。二つの屍体が1945年を語り尽くしていると思う。
(『香月泰男展 カタログ』より「シベリア・シリーズ」香月泰男の自筆解説文)

この記述の中の、「生皮をはがれたのか」という屍体は、どういうことでしょうか。「満人の人たちの私刑で殺された日本人に違いない」と書かれていますが、一体何が起こったのでしょうか。
このことに関して、私は村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』に、似たようなことが書かれていたな、と思い出しました。それは主人公、岡田の知り合いの老人が亡くなって、その遺品を持って訪ねてきた間宮中尉という人の話でした。間宮中尉は老人の戦友で、かつて関東軍に所属していたのです。私は小説のあらすじをすっかり忘れていたのに、この間宮中尉の話の残酷なエピソードだけは、なぜか憶えていたのです。
戦時中に間宮中尉はソ連軍の襲撃により捕らえられたことがありました。そして間宮中尉は、同じく捕われてしまった山本という情報部の男が、皮を剥がれて拷問を受けたところを見てしまったのです。山本はそれでも機密を漏らさず、間宮中尉はたまたま殺されずに済んだのです。

彼(ソ連軍の将校)は指をぱちんと鳴らしました。すると彼と飛行機で一緒にやってきた蒙古人の将校が前に出ました。彼はコートのポケットの中から、鞘に入ったナイフを取り出しました。それは、さっき首を切る真似をした兵隊が持っていたのと同じ形のナイフでした。彼はナイフを鞘から抜き、それを空中にかざしました。朝の太陽にその鋼鉄の刃が鈍く白く光りました。
<中略>
ナイフを持ったその熊のような将校は、山本の方を見てにやっと笑いました。私はその笑いを今でもよく覚えています。今でも夢に見ます。私はその笑いをどうしても忘れることができないのです。それから彼は作業にかかりました。兵隊たちは手と膝で山本の体を押さえつけ、将校がナイフを使って皮を丁寧に剥いでいきました。本当に、彼は桃の皮でも剥ぐように、山本の皮を剥いでいきました。私はそれを直視することができませんでした。私は目を閉じました。私が目を閉じると、蒙古人の兵隊は銃の台尻で私を殴りました。しかし目を開けても、目を閉じても、どちらにしても彼の声は聞こえました。
(『ねじまき鳥クロニクル』村上春樹)

このあと山本は腕の皮から剥がされて、全身の皮、鼻や耳、性器なども切り取られて絶命します。くわしく読みたい方は小説を読みましょう。村上はソ連軍の将校に、蒙古の人たちは羊の皮を剥ぐことを日常的に行っているのだから、ナイフを使って皮を剥ぐことに関しては専門的な技術を持っているのだ、というようなことをまことしやかに語らせて、読者を引き込みます。
そしてこのソ連軍の将校は、小説の後半で再び登場します。それは岡田が間宮中尉から受け取る手紙の中のことで、彼は「皮剥ぎボリス」という名前の悪の権化のような存在として書かれているのです。間宮中尉はその後、シベリア抑留者として抑留生活を送るのですが、その強制労働所内でボリスは日本人を苦しめる狡猾な支配者になっていくのです。
今回、この小説をパラッと見返して、小説内挿話として間宮中尉が体験したシベリア抑留生活のことが、小説全体を突き動かす原動力となっていることに気が付きました。そして小説に書かれていることが、香月泰男のシベリア・シリーズと深くシンクロしていることに驚きました。
とくにこの『1945』で描かれた屍体が、村上春樹の描写したエピソードそのものであった(と思った)ことにびっくりしました。『ねじまき鳥クロニクル』は末尾に参考文献が掲載されているのですが、私の見たところ、香月泰男の作品や著書については触れられていません。ですから、村上春樹が香月の絵や文章からこのエピソードを思いついた訳ではないと思います。それにもかかわらず、皮を剥がれた屍体のことが両者に共有されていたのは、このような人間の死に方が私たちの心を強く揺さぶるものだからでしょう。
ところで、この『ねじまき鳥クロニクル』という小説には、戦争中の関東軍の話を交えながら、人間の悪意や暴力について書かれています。その物語のクライマックスの一つは、間宮中尉と「皮剥ぎボリス」との対決です。そして間宮中尉は「皮剥ぎボリス」を欺いて殺す機会を得たのに、なぜか殺すことができません。間宮中尉は失意の一生を送ることになりますが、私はこの挿話を逆に良いものとして受け止めました。暴力に対抗するには、どんなにひどい相手であっても同じ暴力では決して解決しない、と村上春樹は言いたいのだろう、と思ったからです。ところが小説の主人公の岡田は、現代の悪の権化である人物をバットで殴り倒してしまいます。そしてその悪の人物の息の根を止めるのが、その被害者であったと思われる岡田の妻なのです。その結末が書かれているわけではありませんが、彼女が悪者を殺してしまうことを予感させて、小説は終わります。
私は村上春樹が本当は何を言いたかったのか、ということがよくわからずに小説を読み終えたことを思い出しました。たぶん、そのことが物語のあらすじを憶えていなかった、ということに連動しているような気がします。複雑な構造をした面白い小説なのですが、もともと不思議な結末なのに、さらに腑に落ちないものを含んだ小説になってしまっている、と思ったのです。
もしかしたら、村上春樹はきれいごとではすまされない混乱した現実の世界を、そのまま解決しない形で表現したかったのかもしれません。なんだか素人の文芸批評のようになってしまい、迷路にはまってしまったみたいです。

さて、今回は香月泰男が体験したシベリア抑留について、それに関連した新書や小説について言及したので、香月泰男の作品そのものについてはあまり書けませんでした。シベリア・シリーズはそのモチーフだけでなく、表現としても、とても興味深いものがあります。香月泰男自身が、自分は洋画の素材で日本画的な表現をしている、とも書いていますので、できれば次回、そんな香月泰男にもう少し寄り添って文章が書けると面白いかな、と思っています。

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