平らな深み、緩やかな時間

13.山田正亮からモランディへ

前回、山田正亮について書いてから、見逃してしまった府中市美術館での展覧会のことが気になって、美術館のホームページを調べてみました。すると、展覧会の図録がまだ購入できることがわかったので、取り寄せてみました。
見たかった「Color」シリーズは「Work」シリーズとは異なり、緑やオレンジなどの単色で画面全体を塗りつぶしたものでした。わずかに上下左右のすみの方に塗り残しがあり、そこから下地の色が見えている、という作品です。図録の説明などによれば、山田は1995年に「Work」シリーズを終了し、数年間の沈黙のあと、2001年に「Color」シリーズのタブローを発表したようです。そのときのパンフレットの巻末に記された山田自身のコメントが、図録に引用されていました。

Color 油彩作品の制作年は、画面に塗布されたいくつかの色調が或る様相を現す時期として記述される。
作品はさらに数色の位置から統一する色彩に収斂されてゆく過程に、概ね、1-2年間の時間を要した。
その領域は存在についての一形態と重なり、完、未完の意味作用から離れる。
(『山田正亮の絵画 <静物>から<Work>・・・そして<Color>へ』)

この文章で読む限り、山田ははじめに何色かの色を画面に塗り、それがある程度すすんだところで制作年を記録したと思われます。それが統一する色彩、つまり単色の画面にまとまるまでさらに一、二年かかった、ということですから、最終的な画面になったのは、記載された制作年に1、ないし2年を加えた年、ということになります。ふつうならば、それを制作年、とするのでしょうが、「完、未完の意味作用から離れる」という記述がありますので、山田は絵が完成した年=制作年という考え方にとらわれたくなかったのでしょう。
ところで、こういう絵画の場合、積み重ねられた色彩、つまり見えない絵具の層にどれくらいの必然性があったのか、というあたりにその出来、不出来の差が出てくると思います。残念ながら写真では判断できませんが、山田正亮のことですから、それも十分承知して描いたことでしょう。私がちょっと気になるのは、「統一する色彩に収斂されてゆく過程」に一、二年もの時間を要した、とコメントしているところです。油絵では、絵具の乾燥に時間がかかりますから、完成までに一、二年の歳月を要することは珍しいことではありません。しかし「収斂されてゆく過程」とあえてことわっているのは、そういう素材や技法の問題だけでなく、画家がそれだけの時間をかけて描いたのだ、ということを言いたかったのだと思います。私のように絵の「完、未完」の意味すらおぼつかない身からすると、最終的な画面に辿り着くのが数日間だろうが、数年間だろうが、どうでもいいような気がします。しかし山田の場合は、ある程度時間のかかるプロセスを、シリーズの作品すべてに課していたのかもしれません。仮に、絵具の層に隠れて顕わには見えなくても、そのプロセスの重要性について言っておきたかった、と考えられます。峯村敏明が、山田のことを「計画画家」と書いていたことを思い出します。

そのほかこの図録を見ていると、初期の静物画から<Work>シリーズへと発展していく過程がこまかくわかります。私は<Work>シリーズに比べて、山田の静物画についてはあまり高く評価していないのですが、抽象的な作品に発展していく過程で描かれたデッサンには、興味深い作品がありました。

その山田の静物画のシリーズを見ていて、ふとモランディ(Giorgio Morandi, 1890 - 1964)のことを思い出しました。二人の作品が、似ているからではありません。むしろその逆で、山田正亮は自らの作品を発展させていくために静物を描いたのですが、モランディはイタリアのボローニャという静かな町で、ほとんど変化のない静物画を繰り返し描き続けました。その対照的な態度が面白くて、思い出したのです。
そのモランディの生きた時代は、20世紀初頭の喧騒の時代ですから、彼も時代の流れと無縁であったわけではありません。初期においては、デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888 - 1978)のような形而上絵画の作風で描いていましたから、いわば時代の先端を走っていたのです。しかし、のちに現代的でありながら古典絵画をも消化した独自の作風に辿り着き、大きな変化のない静物画、ときに風景画を描き続けました。こんな風に、さらっとモランディのことを書いてしまってはもったいないのですが、今回はモランディの作品を正面から取り上げよう、というのではありません。モランディが、その「静かな画家」としての自分のイメージを重要だと考えていたらしい、という話・・・、平たく言えば、周囲からそのように見られたがっていた・・・、という話をしようと思うのです。山田正亮が絵画上の課題を自らに課し、計画的に(?)画家としての人生を変革していったことを考えると、自らの生き方に意識的であったという点で二人は似た所がありますが、しかし作品や生き方はまったく対照的であった、という所がちょっと面白いと思ったのです。
モランディについて、どうしてそのようなことが言えるのかといえば、岡田温司の著作『ジョルジョ・モランディ』にそう書いてあるからです。蛇足になりますが、モランディに関する本が新書(平凡社新書)で読めるなどということは、十年前なら考えられなかったことです。岡田温司のおかげでこのような話題にも触れることができるわけで、まったく面識のない著者に感謝する次第です。
さて、話を戻すと『ジョルジョ・モランディ』のなかに「モランディ、怒る!」という章があります。モランディは絵のイメージ通り、静かな人だったらしいのですが、生涯で一度だけ心を揺さぶられるほど怒った、ということです。それも七十歳を超えてから、というのですが、いったい何があったのでしょうか。
モランディには、親しい年少の研究者フランチェスコ・アルカンジェリという人がいました。そのアルカンジェリがモランディのモノグラフを書くことになったのですが、それが問題でした。アルカンジェリは初期のころからのモランディを書こうとしたのですが、モランディにとって、その頃のことは触れてほしくないことでした。

「驚かないでください、まだやっと1916年に到達したところなのです」(アルカンジェリの手紙)。予感的中、手紙の受け手(モランディ)はこのひとことにかなり驚かされたにちがいない。1916年といえば、まだ画家が絵を描きはじめてごく間もないころで、未来派やキュビズムの手法に接近していたのだが、すぐにそこから脱却することになる時期だからである。モランディはいまだ「モランディ」でないばかりか、前章で見てきたように、後年になればなるほど画家は、駆け出しのころの自分に触れられたくないという思いを募らせていたのである。それにもかかわらず、「弟子」は、「師」が若気の至りとしてきれいに捨て去っていた過去のことに、本全体の三分の一も費やしているとは。ひょっとすると、とんでもないことになるかもしれない・・・。
(『ジョルジョ・モランディ』)

モランディは、何とかアルカンジェリに執筆をあきらめさせようとしますが、上手くいきません。さらに出版を差し止めようともしますが、結局、モランディの没年に本は出版されます。気の毒なのはアルカンジェリで、モランディの死後、モランディの妹に「わたしの目は涙で曇っていました。身に覚えのない恥の意識にさいなまれていたのです。」と手紙で書き送ったのだそうです。まるで、何も悪いことはしていないのに、頑迷な親父に叱られた子供のようではないでしょうか。岡田は、どうしてアルカンジェリがモランディの言うことを聞かず執筆をつづけたのかを考察していますが、その込み入った状況は直接、本を読んだ方がよいでしょう。

さて私は、このように自分の人生に対して意図的に何かを施そうとすることについて、違和感を覚えます。しかし、かといってこのようなエピソードがモランディの芸術を貶めるものでもありません。モランディの静謐な作品は画家の本質的なものの表出に違いないでしょうし、そこに偽りのようなものを感じることはありません。
結論を言えば、芸術も人生も、いろいろなことがある、ということでしょう。あのモランディにしてからが、このような人間的なエピソードを秘めているというのは、考えてみるとかえって楽しいことではないでしょうか。そう思って、自分のふがいない人生も、ときには大目に見ることにします。

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