前回、年齢が一つ違いという以外に関連性の薄い二人の芸術家を、無理やり論じてしまいました。今回は年齢は10歳以上離れていますが、私の周囲では同じ時期に話題になったタルコフスキーとキーファーという二人の芸術家を取り上げます。と言っても、二人とも大物なので、こんな小文ではとても論じ切れないのですが、私の中で彼らの共通するところだと思える作品のメッセージに関することを中心に書いてみます。
二人とも、1970年から80年代という、世界が一見するとのどかな平和を享受していた時期に、芸術家特有の嗅覚で人類の危機を察知し、作品を通じて警告を発したのでした。特にタルコフスキーの放ったメッセージは、原子力依存や温暖化という危機に接した今こそ見直されるべきだと思います。一方のキーファーのメッセージをどう受け止めるのか、これは少々難しい問題です。
以下拙い文章ですが、当時の彼らの活躍を知らない、若い方にこそ読んでいただけると、とてもうれしいです。
先日、上に書いたようなことを考えつつ、タルコフスキーの映画『ノスタルジア(Nostalghia)』を何十年ぶりかで見ることにしました。
https://youtu.be/Kj0I3GLs3uI
『ノスタルジア』は、ロシアの映画監督アンドレイ・タルコフスキー(Andrei Arsenyevich Tarkovsky, 1932 - 1986)が1983年にイタリアで製作した映画です。第36回カンヌ国際映画祭監督賞を受賞し、 タルコフスキーはこの映画の完成後に規制や検閲の多いロシアから亡命しました。『ノスタルジア』の主人公である詩人のアンドレイ・ゴルチャコフはタルコフスキー自身だと解釈する人が多いそうです。
そして見直してみると、とにかく一場面一場面が優れた絵画を見るようで、その完璧な映像を見るだけでも十分な見応えがありました。映画好きの友人が、タルコフスキーは画面の柱や家具の位置の数センチのずれも許さなかった、と教えてくれました。
その画面の美しさもさることながら、ここでは映画の内容について触れておきたいのです。
イタリア中部トスカーナ地方での話です。モスクワから来た詩人アンドレイ・ゴルチャコフと通訳のエウジェニアは、18世紀にイタリアを放浪し、故国に帰れば奴隷になると知りつつ帰国して自殺したロシアの音楽家パヴェル・サスノフスキーの足跡を追って旅をしてきました。
映画の前半では、村の古い信仰の様子や、アンドレイの夢の中の故郷の風景など、人間の内面と深く結びついた美しい情景が、映像詩のように綴られていきます。
映画の後半では、シエナの広場の温泉で、世界の終末が訪れたと信じて家族ぐるみ7年間もあばら家にとじこもったために狂人と噂されているドメニコという老人の話になります。アンドレイはドメニコに強く惹かれていきますが、エウジェニアは自分のことに振り向きもしないアンドレイにしびれを切らして去っていきます。
ドメニコは、広場を蝋燭の火を消さずに往復することができたなら、世界はまだ救われうる、と信じていますが、自分は狂人扱いされているので、できないのだとアンドレイに告げて、その役割を彼に託します。
その一方でドメニコ自身は炎に包まれて・・・
結末は書かない方が良いと思いますが、映画をご覧になっていない方は、ぜひ見てください。タルコフスキーの映画は、どれも美しいのですが、いつもちょっと自分の世界にこもったような感じがするのに、この『ノスタルジア』はそこから突き抜けたような色彩を感じます。私は近頃ではまったく映画を観ない人間ですし、古い記憶だけを頼りに書いているのですが、映画に詳しい人の話を聞くと、この映画がイタリアで製作されたことが、その映像美に影響しているのだということです。
そして今回注目したのは、この映画のクライマックスであるアンドレイのパフォーマンスとドメニコの死が、双方とも並々ならぬ緊張感を孕んだ場面でありながら、狂人の思い込みであるのかもしれない、という不均衡な落差のある状況です。この不均衡の度合いが大きければ大きいほど、二人の信念の強さが試されることになり、その行為が尊いものに感じられる、とも言えるのです。
現在の、インターネットが瞬時に世界を繋いでしまう便利な社会、あるいは監視カメラやドライブ・レコーダーなどで人々の秘めた行為がその気になればかなりの確率で暴かれてしまう情報化社会の状況から見ると、こんなナンセンスなパフォーマンスで世界が救えるかもしれない、などという荒唐無稽な思い込みは、たとえ映画の中であっても、なかなか取り上げにくいのではないでしょうか。
ところが、はじめてこの映画を観た当時は、その現実との不均衡な二人のパフォーマンスに魅入られてしまうことが、ごく自然なことだと思えました。いま見直しても、私のその気持ちは変わりませんが、はじめてこの映画を見る若い方は、どのように感じるのでしょうか。今、タルコフスキーを見直してみる上で、その点はとても興味があります。訳のわからない映画であることは確かですが、そこに何か人を惹きつける要素があることを、若い方にも感じていただけるのでしょうか?
少し話が飛びますが、このblogでも取り上げた『人新世の「資本論」』の著者、斎藤 幸平(1987 - )は資本主義社会そのもの、世界のあり方そのものの見直しが急務だと言っていますが、タルコフスキーの映画を見ていると、どれも人間の内面を掘り下げた上で、このままの社会では世界中が不幸になる、という警告を発しているように思えます。冒頭に書いたように、タルコフスキー自身は共産圏(?)から西側へ亡命した人ですが、彼の映画はそんな狭い社会観ではなく、もっと大きな文明のあり方そのものを問い直しているように思えます。
総合芸術である映画について論じるには、このように作家のメッセージばかりに着目するのは良いことではありません。いずれどこかで、タルコフスキーのほかの映画もしっかりと見直して、彼についての感想を書いてみたいところですが、今日はタルコフスキーが1980年代に発していたメッセージに限定して書いてみました。
そして、同様に1980年代に強烈なメッセージを送った美術家がいました。その美術家が、ドイツの画家キーファーです。
アンゼルム・キーファー(Anselm Kiefer、1945 - )という美術家を、今の若い方はどれくらい知っているのでしょうか?念のため、基本情報を載せておきましょう。
1945年、旧西ドイツ、ドナウエシング生まれ。大学で法律を学ぶがやがて芸術を志し、ヨーゼフ・ボイスに師事する。69年、さまざまな場所でナチスの敬礼のポーズを取る自分自身を撮影した一連の写真「占領」を発表、激しい論争を巻き起こす。また「あしか作戦」シリーズ(1975)では、ナチスの無謀なイギリス侵略計画をテーマとするなど、ドイツの負の歴史を敢えて呼び覚まし、現代人の心を揺さぶった。一方で北欧神話、ギリ
シャ神話あるいは旧約聖書から題名を採ってくることで、作品を神話的世界へ導く。
(高松宮殿下記念世界文化賞 ホームページより)
https://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/laureates/kiefer
作品の紹介のページはたくさんありますが、例えばこれらはどうでしょうか。
https://www.artpedia.asia/anselm-kiefer/
https://youtu.be/1Owl3xsKt84
https://youtu.be/B82wTYMxrKU
私たちの世代からすると、フランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )が1970年代から80年代の代表的な作家だとすると、キーファーはその後の年代のスターでした。私が世界的な市場にまったく疎いせいもありますが、最近は彼の作品を見ないなあと思っていましたが、キーファーはもう75歳を超えているのですね。インターネットで調べてみると、今でも活躍しているようです。
動画で見ると、キーファーの作品のスケールは桁違いですね。ステラもそうでしたけど、彼らの大きな作品は芸術家個人の作品というよりは、企業のプロジェクトと言ったほうが良さそうです。絵が上手いとか下手とかいうよりも、自分のアイデアを人と共有して形にしていく手腕の方が大切なようです。僭越ながら、私のようなへっぽこな絵描きから見ても、ステラもキーファーも絵が上手いとは言えませんが、そんなことはもう関係ないのでしょう。
それはともかく、キーファーの作品には、どれも強烈なメッセージが込められています。その一方で、彼は作品の様式にはあまりこだわりがないようです。そこがステラとは大きく違うところで、彼が大成功を収めた後も、その点ではモダニズム芸術に関わる人たちから批判されていました。
私も美術家の端くれなので、キーファーについて語るにあたり、彼の表現方法について論じないわけにはいきません。そこがタルコフスキーについて論じるのとは違うところです。彼のとった表現手段が、彼の美術表現に対する理解や誠実さとも結びついていると思うので、この点は看過できないのです。そして私もキーファーの芸術に圧倒的な表現力を認めつつも、その表現方法という点において、やはり批判的な見方をせざるを得ないのです。
先ほどの『ノスタルジア』のモチーフは、狂人の思い込みと紙一重でした。しかし映画の中ではその行為は尊いものとなり、主人公の緊張感に共感してしまって、こちらまで息もつけなくなるほどの思いをしました。
キーファーの作品についてはどうでしょうか。彼の作品のナチス式の敬礼の写真作品や、大きな鉛のベッドは、その表現方法への信頼が置けなければ、見せかけだけの大仰なものに見えてしまう可能性もあります。
そのことを踏まえつつ、考察を進めてみましょう。
キーファーは、1993年に日本で比較的大規模な展覧会を開いています。その時には来日して、評論家の多木 浩二(たき こうじ、1928 - 2011)と対談をしたようで、その記録が雑誌『ユリイカ 1993年7月号』に掲載されています。ちなみに、この時の『ユリイカ』はキーファーの特集号で、他にも興味深い記事があるので、のちに少し引用して見ます。
ところで彼の作品を見ると、どこか浮世離れしていて、巨大な工場の跡地をアトリエにして、弟子たちと日々作品制作に励むだけの人のようなイメージを持ってしまいます。しかし、対談では気さくに話し、自分の作品がどう展示されるのか、あるいはどういう場所に置かれるのか、ということにも普通の画家のように気を配っています。この時、彼の作品はセゾン美術館、つまり西武系デパートの一角に展示されたわけですが、そのことにも自覚的であったようです。次のキーファーの発言をお読みください。
一言よろしいでしょうか?マーク(ローゼンタール)に言いたいのですが、百貨店の中のアート・ギャラリーという環境の話題が出ました。これは私にとって大きな挑戦でした。香水売り場があって、帽子売り場があって、俺の作品は本当に香水なんかに負けないのかなとか(笑)・・・。それから、60年代に学生だった頃、過激な芸術家の中には百貨店に行ってショーウィンドウの中で座り込んでパフォーマンスする人達もいたのを憶い出しました、それも挑戦だったと思います。ミュージアムといった殿堂でなく、百貨店という舞台は面白いと思います。そこで物事が本当に始まるのかどうか、観察するのは興味深い体験です。
(『ユリイカ 1993年7月号』「アーティスト・トーク 芸術の力」より)
これを読むと、結構ふつうのことを考えていますね。当時の西武系のデパートは、現代美術を扱う美術館や本格的な輸入書が買える本屋を設置するなど、若者に絶大な人気を博していました。
ちょっと脇道にそれますが、西武のそのような経営方針が堤 清二(1927 - 2013)という経営者によるものだ、ということは学生の頃から知っていましたが、堤が辻井 喬(つじい たかし)という文人と同一人物だと知ったのは、ちょっと後のことでした。現代美術や貴重な洋書が商業主義の牙城のようなところで取り扱われていることに複雑な思いを抱きつつ、圧倒的に情報不足だった当時の日本の若者にとっては、池袋の西武デパートをうろうろしていて得られる情報はやはり大切なものでした。堤清二は優れた経営者であると同時に政界との結びつきも強く、庶民から見ると得体の知れないところがありましたが、彼が経営から退いた時期に西武デパートが魅力を失ったことを考えると、文化的な素養のある人が社会的な力を持つということは悪いことではないのだと思います。
しかし、キーファーが疑問に思ったように、「そこで物事が本当に始まるのかどうか」と問われると、「否」というほかありません。本当に文化というものを根付かせたいのなら、つまり「そこで物事が本当に始まる」ためには、百貨店は経営を危うくしてでも美術館を継続するべきでした。そのコレクションを見るために、今では軽井沢のセゾン美術館にまで行かなくてはなりません。貧乏で、かつ忙しい生活者にはとても無理です。そして文化というものは、貧しい生活者にこそ開かれたものでなければなりません。これは私がそういう人間だから言うわけではなくて、私はこれを真実だと思っているのです
さて、話を戻します。
キーファーの作品について論じるときに、その話の大半は彼の作品のモチーフやその解釈になります。これはモダニズムの美術がフォーマリズム的な味方に偏っていたことを考えると、まったく異質な出来事なのです。
例えばキーファーの絵画を見ると、ほとんど無頓着に旧套的な遠近法が使われています。あまり上手くないので、きっちりとした透視図法には見えませんが、それでも奥行きのある画面であることには変わりません。このような画面は、意図的に旧時代的な表現を引用するのならともかく、現代的な表現としてストレートに遠近法を使うことなど、モダニズムの美術ではありえなかったのです。
キーファーと時を同じくして世に出てきた、ニュー・ペインティングと呼ばれる一群の画家たちにも、このような旧套的な絵画空間が仄かに見られました。だからキーファーも、はじめは彼らの一派とも見なされたのです。しかし、ニューペインティングの画家たちは、画面に陶器の皿や食器の破片を貼り付けて画面の物質性を強調したり(シュナーベル)、二つの異なる画面を併置したり(サーレ)、それなりにモダニズムを経た時代を感じさせる工夫をしていました。キーファーほど深い奥行きのある絵画を大画面で堂々と描いたケースは、その一群の画家の中でも稀なケースだったと思います。
キーファーはインタビューでこう言っています。
(キーファーの作品の歴史的な必然性について)ミニマリズムとコンセプチュアリズムを完結させるものだと考える。それが絵画であるということは重要ではない。スタイルやメディアは大した問題ではない。肝心なのは思想である。
(『ユリイカ 1993年7月号』「キーファー自身によるキーファー」より)
「スタイルやメディアは大した問題ではない」というのは、モダニズムの時期に美術を学んだ人間にとっては、とても大胆な発言です。誰もが表現方法について無自覚ではいられない時代にあって、このようにあっけらかんと言ってしまうところが、大作家であるゆえんなのかもしれません。
そして彼は次のようなことも語っています。
私はドイツの芸術を作りたい。ドイツ的なものが芸術に関与すると醜く感じられるかもしれないが、そんなことはまったく問題ではない。
私が描いた建物は犯罪や権力に結びついている。マチスのような無害な絵画には興味がない・・・初期の作品では自分自身に問いを投げかけようとした。私はファシストだろうか?と。それは簡単に答えられない。権威、競争、優越性・・・これは他の人同様に私自身の一面である。正しい道を選ばなければならない。が、自らを一つの局面で規定するのは単純すぎる。私はまず経験を描いて、それから答えを見つけたかったのだ。
(『ユリイカ 1993年7月号』「キーファー自身によるキーファー」より)
このキーファーの発言の中で象徴的なのが、「私が描いた建物は犯罪や権力に結びついている。マチスのような無害な絵画には興味がない」というところです。
アンリ・マティス(アンリ・マチス、 Henri Matisse, 1869 - 1954)が「無害」だというのはあまりに一面的で、確かにマティスは自分の絵が安楽椅子のように心地よいものであって欲しい、ということを言っています。しかし鑑賞者にとって心地よいものが、作家にとって心地よく、無害であるとは限らないのです。
例えば、次の作品を見比べてみてください。
https://images.app.goo.gl/P22wCZNUhzZLYEyE8
『赤のハーモニー』(1908)と呼ばれる作品で、マティスが絵画の平面性を追求した初期の傑作です。それと、キーファーのホームページの中の『知らない画家へ』(1983)、『オリシスとイシス』(1985-1987)を見比べてみてください。どちらの作品が「無害」な作品だと言えるのでしょうか。
「無害」と言っても色々な意味があります。ちょっと言い方を変えて、どちらの作品が表現上の困難を抱えているのでしょうか。キーファーの作品は大画面ですし、素材やマチエールが凝っているようですから、真似をしようと思ってもなかなかできないでしょう。しかし、画面の構造として見れば、遠近法のイリュージョンをわかりやすく、そして極端に使うことでドラマチックな表現をしているのです。このような画面構造ならば、遠近法を勉強した絵画の初心者であっても、同様の空間を描くことができるでしょう。
一方のマティスの絵画は、この絵を見ながら表面的な模写をすることは可能かもしれませんが、実際の室内空間をこのような平面的な処理をして描くことは、誰にでもできることではありません。私は大学時代に、目の前の静物をさまざまなやり方で平面化することを試みてみましたが、その作品が魅力的であるためには、まず目前の静物を絵画的なイリュージョンとしてしっかりと捉えることが必要です。描き手が感受している正確な奥行きの感覚に抗って平面化を進めるときに、その絵は緊張感を孕んだ魅力的な絵となるのです。絵画的な、正確な空間把握ができない画家の描いた作品は、ただの下手くそな平板な絵にすぎません。マティスの『赤のハーモニー』を見ると、画面に描かれたすべてのものが、絵画的なイリュージョンと平面性との間で危ういバランスを保っていることがわかります。そして、純粋な赤い色や、壁やテーブルクロスの生々とした曲線の模様が、画面の平面性のゆえに躍動している様を見るとき、私たちはマティスが駆使した高度な技術に納得するのです。
このようなことが理解できればマティスの絵画が、その描かれているモチーフの情景ほどには「無害」ではないことがわかるはずです。絵画的なイリュージョンを勇気を持って侵犯し、旧套的な絵画への強烈な一撃を加えることで、マティスは新たな表現の地平へと踏み出したのです。キーファーの絵が、モチーフの攻撃性に比べて、絵画表現としては極めて容易な先祖返りをしてしまっていることとは、対照的なことなのです。
このようなことは、少しでも美術を真剣に勉強した者ならわかります。しかしキーファーを評価する人たち、例えば先の対談の多木浩二は、1993年のキーファーの日本での展覧会カタログの文章冒頭に、こう書いています。
はじめてキーファーの作品を見た人間は、近代芸術に慣れた眼からは異質な、しかしあまりにも強力な、そして歴然とわれわれの生きている世界や歴史と切り離せない想像力の活動に遭遇して当惑するかもしれない。現代芸術はこれほど「世界」を作品のなかにもちこまなかった。われわれは古いとかあたらしいとかいう形式上の常識をたちまち放棄しなければならないのに気づくのである。キーファーの芸術は、これまで20世紀を形成してきた芸術の概念では捉えきれないあたらしい次元を感じさせる。あまり適切な言葉ではないかもしれないが、彼の芸術は世界という悩める力を表現する芸術であり、彼を駆り立てて止まないなにか強力な精神的な衝動があるのを感じないではいられない。こうした経験は現代の芸術では稀な経験である。多くの現代の芸術家は精神という言葉を忘れてしまったのかもしれない。彼はポピュラーな芸術が存在するとは考えていない。キーファーの掲げる目標ははるかに遠いのである。
(『キーファー展カタログ』「灰と鉛のフーガ」多木浩二)
この文章を読むと、複雑な思いに駆られます。キーファーの作品の大規模な展示は、誰もが説得されてしまう迫力に満ちたものでしたし、そのカタログにおいて評論家が熱く語るのを後の時代から批判するのは、卑怯な感じもするのです。
しかし、ここは冷静に語らなければなりません。私自身がキーファーの展示室に入った時の感動と違和感について記しておきましょう。キーファーという作家の持つ表現力については否定のしようがありません。しかし、その手法においては、危ういところがあります。例えば作品そのものが展示空間を支配するように置かれていて、その部屋に入った鑑賞者は自分が演劇的な空間の直中に入り込んだような気分になります。これはディズニーランドのアトラクションと同じ手法です。日本でも滝を描く有名な日本画家が、ある世界的なヴィエンナーレにおいて、暗くした部屋に白い滝を浮かび上がらせるという手法で大賞を取ったそうですが、美術の専門家たちでさえ、このような手法にだまされるのです。なぜ、この優れた日本画家は滝の描写そのものを見せようとしなかったのか、そこに含まれたであろう日本の美術の豊かな歴史でなぜ鑑賞者を説得しなかったのか、卑俗なアイデアで成功した画家とディレクターが、その後も日本の美術界、教育界で大きな力を持っていることに失望を感じます。
ただし、キーファーの場合には、その展示の手法の背後に、強烈なメッセージがあります。そこがアトラクションや滝の画家とは異なる点です。そして多くのキーファー論者は、そのメッセージについて長文を寄せているのです。ここでもそのことについて、少し触れておきましょう。
わかりやすいところで、キーファーの作品の中で、ヒトラーの敬礼を想起させるポーズを撮影した写真作品があります。これはキーファー自身がファシストなのか、それともパロディによる警告なのか、さまざまな論議を呼びました。キーファーのファンは、もちろん、これは優れたパロディであって、キーファーはドイツでタブー視されている微妙な問題に、あえて一石を投じたのだ、というふうに解釈します。
この点について、キーファーはこう語っています。
ネロやヒトラーと一体感をもっているわけではないが、彼らの狂気を理解するために彼らの行ったことを少し演じなければならないのだ。よって自らの意図に反してファシストになる試みをする。
(『ユリイカ 1993年7月号』「キーファー自身によるキーファー」より)
こういうふうに、社会的な問題、世界が抱えている問題についてキーファーは鋭く反応し、それを美術作品として表現します。こういうことを語るキーファーは生き生きとしいますが、彼はモダニズムの美術が積み上げてきた手法については、ほとんど問題にしていません。そのアンバランスを、今こそ正しく評価するべきだと思います。
私はキーファーが世界と関わろうとしたこと、彼が抱え込もうとした問題について共感しますし、また尊敬できる部分もあります。また、彼の作品に見られる表現の強さ、素材の物質感の提示や巨大な作品を作る構想力なども素晴らしいと思います。
ただ、彼がモダニズムの美術の成果に無頓着であったこと、その点で悩まなかったことが彼の作品の表現の弱点になっていると思います。やはり、表現としての侵犯力を持っていたかどうかが、作品の質に大きく影響すると思うのです。彼がマティスを理解しなかったことが、とても残念です。彼が遠近法のイリュージョンに頼って表現しようとした画面の強度が、もしも絵画の平面性との葛藤の末になされた表現であったなら、それはさらに素晴らしいものであっただろうと思います。
一人の芸術家を巨匠と崇めて神話にしてしまわないこと、それが大切なことです。
商業主義の美術は、一人の作家を神話化することでその作品価値を吊り上げて、可能な限りの利潤を搾り取ろうとします。あなたが将来有望な若い作家であったなら、くれぐれも用心してください。どんな境遇になっても、自らの芸術を見失わないことが肝要です。
その点、キーファーはどうだったのでしょうか。インターネットで探れる範囲のことですが、彼はどうやら、自分の地位を活用しながらも、マイペースで制作しているようです。彼が多木浩二との対談で、このblogでも取り上げたシジュフォスの神話について興味深いことを言っています。最後にそれを引用しておきましょう。
大きな岩を何度も山へ押し上げるというシジュフォスの神話をアーティストがどう扱うかということですが、山の上まで押し上げた時にまた石が落ちてしまう。シジュフォスはそこで笑いを発するわけですが、その笑いこそアートではないかと思います。神がシジュフォスをバカな人間だとしてしまうかもしれない。つまり何度も石を押し上げて、そこでまた落ちても、笑ってもう一回やる。
石を理想としても、その理想を上まで上げることができないということをシジュフォスは知っているんです。そのように神が定めたものだから、決して上まで押し上げることができないのに、そこで笑うわけです。石が何度も何度も落ちても押し上げるわけです。そのイメージこそアーティストがやっているイメージではないですか。
(『ユリイカ 1993年7月号』「アーティスト・トーク 芸術の力」より)
この話を聞くと、キーファーのことが以前よりも好きになりますね。
理想的な、究極的な芸術作品なんてどこにもありませんし、それを目指したところで石は結局、落ちてくるのです。それでも、日々の営みとしてアーティストは制作をするのですし、それは苦行でもなんでもなくて、笑ってしまうような喜びのあることなのです。
キーファーを神話化しないで、批判的に読み込みつつも、彼の営為をちゃんと評価する、ということを心がければ、彼の作品は今でも輝きに満ちたものに見えるはずです。
ちなみに多木浩二がキーファーに関する立派な著作を出していますが、そのタイトルは『シジフォスの笑い』です。書名は素晴らしいのですが、ややキーファーの神話化に加担した本であるかもしれません。キーファーが美術市場の最大のスターではなくなった今こそ、彼に関する新しい著作が待たれるところです。
最後の最後に、私見ですが、キーファーとタルコフスキーを比べてしまうと、その芸術的な重要性は圧倒的にタルコフスキーにあるような気がします。私が映画の門外漢だからそう見えるのでしょうか?そうでもないと思います。
文中にも書きましたが、もう少し勉強して、タルコフスキーについて存分に語りたいですね。私が見ただけでも、『惑星ソラリス』(1972)、『鏡』(1975)、『ストーカー』(1979)、『ノスタルジア』 (1983)、『サクリファイス』(1986)とどれも傑作です。そしてもしもあなたが、どれも見たことがなければ、『ノスタルジア』が手始めとしてはお勧めです。あくまで私見です。
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