平らな深み、緩やかな時間

105.ジェニファー・バートレットについて

コロナウィルスの影響が止まりません。
本当は、美術に関するblogなので、現状には触れずにさりげなく書き出そうと思ったのですが、やはりそうはいかない、と思い直しました。私は微力ながら教育に携わっている者なので、春から学校に通えず不安に思っている子供たちのことや、下宿で外出を自粛している孤独な学生の方たち、社会人としてスタートするはずが思うように進まない方たちのことを思うと、いたたまれない気持ちになります。若い頃は一瞬一瞬がとても大切に思えるので、真面目な方ほど自分自身を追い込んでしまいがちです。その前向きな気持ちはとても大切ですが、今回だけは、どうか焦らないでください。
私は人生における成功体験が貧しいので、こういうときにお示しできるようなよい話がありません。でも、このところ何とか平常心で時間をやり過ごすことができているのは、いつも聴いているラジオ番組を変わらすに聴くことが少し役立っているのかもしれません。私は音楽が好きなのでFM放送の音楽番組を聴いています。いまはNHKでもインターネットのフリータイム聴取ができるので、時間や曜日を気にせずに聴くことができます。私の個人的な趣味ですが、ピーター・バラカン「ウィークエンド・サンシャイン」と大友良英「ジャズ・トゥナイト」の土曜日の朝と夜の番組がお勧めです。ふだん、ラジオを聴かない方も、よかったらこの機会にいかがですか?
それから、人間には力を蓄える時期と、それを発揮する時期があると思います。こういうときは力を発揮することは不可能ですから、できる範囲で構わないので何かを蓄えましょう。読書はもちろん、こういうときに有効ですが、いまはインターネットで音楽や美術を視聴できます。絵画を描いている身としては、やはり実物の作品を見てほしい気持ちはやまやまですが、ここは我慢しましょう。私の絵や文章がみなさんの力になるとは思えませんが、一応、冒頭のページに示した私のホームページを見ていただくと、絵画や論文を見ていただけます。
それから、自分がいままでに見たり聞いたりしてきたことを、思い出して整理してみるのもよいのではないでしょうか。前回私は、30年以上前に見たマリオ・メルツの展覧会を思い出しながら文章を綴りましたが、今回はそれよりさらに数年前の経験を思い出して書いてみました。これぐらい昔のことになると、何が本当で、何が想像や思い違いなのかわからなくなってしまいますが、それがかえって楽しかったです。そういえば、私の好きな須賀敦子のエッセイには、かなり創作部分が含まれているそうです。そして、その文章の魅力は、彼女がイタリアから帰国して、あえて時間をおいてエッセイを書きはじめたことで成熟していったのではないか、という分析を読んだことがあります。自宅や下宿で何かに深く悩まれている方は、そのことを、あるいはその悩みとは無関係な思い出や考えを、文章に綴ってみてはいかがでしょうか。あなたがどんなに文章が苦手でも、私よりは素敵な文章が書けるはずですし、それが数年後に磨かれた宝石のように輝きだすかも知れません。まとまりに欠けていて、一見支離滅裂のように見えていても、その原石のような文章を私は読ませていただきたいと願っています。
そして最後に、もしもあなたが本当に困っていたら、無理に元気にならないでください。頑張らなくてもいいし、弱音だって吐いてみましょう。それを身近な、あるいはあえて少し遠い誰かに聞いてもらってはいかがですか?それでも自分がみじめに感じたら、役にも立たないblogを書いている定年間近の老人のことを思い出してください。いま、私たちの医療や日常生活を支えている尊い人たちがいる一方で、私のように役に立たない人間もいます。仮にあなたが今何もしていなくても、少なくともあなたには私にはない可能性があります。これは励ましでも、エールでもなくて、厳然とした事実ですから受け止めておかなくてはなりません。人間には役割やタイミングがあって、いまはあなたの活躍のタイミングではないかもしれませんが、その機会は必ずやってきます。
そう思うとうらやましいぐらいですが、私は私にできることをやるしかありません。ということで、ささやかながらこのblogを書いています。ささやか、とはいえ、あまりにもささやか過ぎて涙が出てきます。もしもあなたがこのblogを最後まで読んでくださったら、それが私を力づけることになります。よかったら、力を貸してください。

予想外に前振りが長くなってしまいました。本題に入りましょう。
あなたはジェニファー・バートレット(Jennifer Losch Bartlett, 1941 - )をご存知でしょうか?
と、偉そうに言うほど私は彼女のことを知っているわけではありません。しかし、たまたま『ART TRACE PRESS 05』という雑誌を見ていたら、美術評論家の峯村敏明が1983年に彼女のことを書いた評論が掲載されていました。それで、ちょっと懐かしくなってblogに書いてみる気になったのです。いま、彼女の作品を見て、素晴らしい作家として評価するかどうか、は実は微妙なところです。しかし彼女が「絵画表現」もしくは「視覚的な表現」の在り方について、一石を投じた作家であることは間違いありません。日本では、このところ彼女のことをほとんど聞かないのですが、だからこそ彼女のことを考えてみるのもよいのではないか、と思ったのです。

ジェニファー・バートレットは現在、79歳になります。先ほども書いたように、日本では彼女の話はあまり聞かなくなりましたが、2019年にthe Francis J. Greenburger Awardという賞を受賞していますので、ご健在のようです。
彼女は1975年に『Rhapsody』という作品で有名になりました。この作品は20~30㎝ほどの大きなタイルに「家」、「山」、「木」といった記号的な形と円や三角形、正方形といった幾何的な形を描いたものを、少し隙間を開けて壁に貼り付けて並べたものです。縦に7枚ほど並べられていて、作品の上部は人の視線よりもかなり高くなっています。私は現物を見たことがないので、写真で判断するしかありませんが、記号を扱ったコンセプチュアル・アートとビジュアルな壁画としての要素を併せ持った作品のようです。本物を見たらどんな感じがするのか、興味があります。個々の記号が際立って見えれば、観念的な作品に見えるでしょうし、タイルとタイルが繋がって見えれば、大きな絵画のように見えるでしょう。そのどちらとも取れるような微妙な感じを狙ったようにも見えますから、実際にどう見えるのか、確かめてみたいのです。
この作品が制作された当時は、ふつうに絵画を描くことが旧套的な表現だと思われていた時代です。前回のことにもつながりますが、ミニマル・アートの次の表現を世界が模索していた時代で、パートごとに独立して見える小部分が相互に影響しながら大きな作品をかたちづくる、という形式がいろいろなところで試されていたと思います。ジェニファー・バートレットはその形式にのっとりながら、コンセプチュアル・アートの記号的な図像を持ち込んだところが新鮮でした。
余談になりますが、1970年代から1980年代はポストモダンが花盛りで、記号論とか構造主義とか呼ばれる思想が海外から流入してきました。美術の世界では、宮川 淳(1933 - 1977)の本がよく読まれていましたが、その記号論の最新の情報としてブルガリア出身で、フランスで活躍していた若き哲学者のジュリア・クリステヴァ(Julia Kristeva、1941 - )の著作が話題になっていました。私も『セメイオチケ』という彼女の本を図書館から借りてみましたが、これは無理だな、とすぐに挫折してしまいました。この本が自分の絵画制作にどこかでつながるとは、とても思えなかったのです。でも、「記号」という言葉と、若くて聡明そうなクリステヴァの肖像写真が印象に残っていて、それが同じく(?)記号をモチーフとしていて、ショートカットで知的な感じのバートレットの写真とイメージが重なってしまったのです。本の中身も読まず、肖像写真だけで二人を結び付けて軽率じゃないか、と言われそうですが、私の頭の中身はそのような単純な構造をしています。二人の知性のある作家と学者が、記号論という私にとっておぼろげな世界の向こう側で、ちょっと謎めいた感じで存在していたのです。

それが1980年の『At Sea, Japan』になると、タイルを壁に貼り付ける形式は同じですが、作品の様相は大きく変わります。タイトルのように、海面を思わせるような青系統の色彩が施されたペイントで画面が統一されたのです。筆のタッチは印象派のようにも見えますが、もっと大雑把で軽やかな感じです。色彩もアクリル系の深みのない明快な色合いで、まるで海面を描いた大きな壁画というふうにも見えます。その大画面のところどころに、タイル3枚分ほどの楕円形のキャンバスが張り付けてあります。その表面はタイルと同様のペイントが施されていますが、下のタイルとは少し違和があるような感じで構成されています。この作品は日本で制作されたようで、銀座のギャラリー・ムカイで展示された後、慶応大学の図書館の壁面に飾られました。
うる憶えですが、確か1982か3年頃、私は友人と一緒に慶応大学までその作品を見に行きました。友人も私も美大の油絵専攻の学生で、慶応大学とは縁もゆかりもありません。当然のことながら入り口でチェックをされて、入場を断られてしまいました。私はどうしても作品を見たかったので、大学の学生証を見せて「私は愛知県の学生ですが、名古屋からジェニファー・バートレットの作品を見るために、わざわざ夜行バスで東京まで来たのです。作品だけ見たらすぐに出ていくので、せめて作品の設置してある壁面のところまで入らせてもらえませんか。」とお願いしてみました。すると、ご年配のそれなりの責任がありそうな、眼鏡をかけた男性職員が出てきて、「本来なら許可できませんが、そういうことなら仕方ありません。でも、作品を見るだけですよ。」と念を押したうえで、作品の展示してある場所を案内してくれました。図書館の職員も学生も、いつもある壁画ですからとくに作品を見ようとする人はいません。私たちは思う存分作品を見て、お礼を言って退出したのでした。もちろん、わざわざ名古屋から来た、というのはちょっと大げさで、そのころ神奈川県にあった実家に帰省していただけです。親切にしてくださった慶応大学の図書館の方、ちょっとだけ嘘をつきました、ごめんなさい。でも、あのときの神様のような対応には感謝しております。
ちなみに、その壁画ですが、『慶應義塾大学 アート・センター』の2002年の年報に「調査 慶應義塾所蔵作品調査・保存活動」という欄があって、そこに「ジェニファー・バートレット《日本の海にて》の洗浄・修復」という記述があります。洗浄と修復をした後、作品はどうなってしまったのでしょうか。どこかに展示してあるのでしょうか、知っている方がいたら教えてください。それから、もう図書館には展示していないかもしれませんので、たとえコロナ災害が一段落したとしても、いきなり慶応大学に訪ねて行って、図書館の方にご迷惑をかけるようなことはしないでください。
というふうに、ここまで書いてきましたが、インターネットでジェニファー・バートレットの項目を調べてみると、この『At Sea, Japan』は「96枚のスクリーンプリントと86枚の日本の紙に印刷された86枚のカラーウッドカットで構成された」( De Young /Legion of Honor )と書いてあることに気が付きました。これは別の作品でしょうか?またもジェニファー・バートレットはおぼろげな世界の向こうに退いてしまいました。
しかしどのような作品の成り立ちであれ、肝心なところは変わらないと思います。この時期のバートレットは各パートの集積が大きな作品になる、という形式はそのままにしながらも、明らかに大きな画面の統一性に重きを置いています。それがひとつの大壁画に見えることを考えて、制作しているのです。そして記号的なコンセプトが退いたことは言うまでもありません。
このような画面になると、作品の成否は次の点に絞られると思います。すなわち、個々のパートの独立性と全体像の中での必然性が、どのような緊張感をもって成り立っているのか、という点です。つまり、タイル状の個々の部分は、個々の作品として鑑賞に耐えうるように描けているのかどうか、そして同時に、それは大画面の一部分としてかけがえのないものとしてそこにあるのか、というバランスです。ひとつひとつの部分が単に独立して見えるだけなら、それは小さな絵を並べただけのものになってしまいますし、逆にただの大画面の一部に過ぎないのなら、個々のパートに分ける必要がない、普通の大作になってしまいます。これは私自身が大学院に在籍していた頃に、必死に取り組んだ課題でもありましたが、さらに言えばアメリカ抽象表現主義のジャクソン・ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)が「オール・オーヴァー」な絵画を表現して以来、多くの現代画家にとって共有されてきた問題だと思います。そんなときだったので、私はジェニファー・バートレットがコンセプチュアルな側面を後退させて、現代絵画の課題に取り組み始めたのではないか、という期待を持ったのです。
実際に作品を見た記憶をたどると、この作品はわりとあっけらかんと描かれたような感じがしました。ひとつひとつのパートのペイントにとくに力を入れ込むでもなく、全体としての作品の出来具合に拘泥されるでもなく、それらが緊張感をもってせめぎ合っている、ということもないままに制作がおわっているような気がしました。ですから作品を見て唸るような感動があったのか、と聞かれると、そうでもないのです。しかし、絵画の「部分」と「全体」との関係、という制作のねらいはぶれておらず、それをスケールの大きな作品として差し出す手腕はさすがだと思いました。

その後、すくなくとも10年ぐらいの間にバートレットは作品の形式を変えながら意欲的に制作を続け、その都度、日本でも話題になっていたと思います。

バートレットは『At Sea, Japan』と同時期に、『庭にて(IN THE GARDEN)』というシリーズを制作しています。これは南仏ニースの別荘の庭を描いた作品群ですが、プールと小便小僧の彫像と、周囲の木がモチーフとなります。この作品群は、2枚の描き方の異なる庭のスケッチを左右一対に合わせて額に収めたものです。それがアメリカのギャラリーで発表されたときには、200枚におよぶ作品群として壁一面に飾られたのです。縦に3枚から4枚の作品が並べられ、タイルの壁画同様に壁の上から下まで設置された様子を写真で見ることができますが、これがなかなかの壮観です。このときに同名の画集が発売されたので、日本の私たちにもわりとなじみの深い作品になっています。先に紹介した峯村敏明の評論も、実はこの画集を見ながら書かれたものです。『ジェニファー・バートレットの庭で』というのが評論のタイトルですが、「一冊の画集が、いま、私を魅了しつづけている」という印象的な一文から始まっています。この『庭にて』が連作群という形式で発表されたことについて、峯村は次のように書いています。

《庭にて》の各デッサンは、一枚一枚が独立しているにもかかわらず、あらゆるレヴェルで孤立から滑り抜けようとする。モチーフが共通しているからだけではない。ある一枚のデッサンは、他の196枚のデッサンとの差異のゆえにこそ生命を得ているのであるが、それなのに、というより、それだからこそ、一枚の絵は他の絵との複合的に参照し合う関係のなかに組み込まれ、見る者の目を、より若い番号へ、そしてまた、より遅い番号へと送り出してやまないからである。そうやって送り出されながら、目はそれぞれのデッサンの中にそれ固有の気分と技法の結合を認めて楽しむと同時に、つい今しがた見てきたばかりのデッサンや、これから現れてくるだろうデッサンの影、つまり、別の絵画の味わいを感じ取ってゆく。
(『ジェニファー・バートレットの庭で』1983年 峯村敏明/『ART TRACE PRESS 05』)

このあとに峯村はさらに、それぞれの作品の素材(メディウム)の変化や、モチーフの扱い方に至るまで、ち密に作品の流れを分析していきます。私もこの画集を持っていますが、ぼーっと眺めるだけで、そこまでこまやかには見ていません。さすがだなあ、と脱帽します。
そしてここでも、『At Sea, Japan』とは形を変えながら、個々の作品と全体との関係が問題になるのですが、峯村は「ある一枚のデッサンは、他の196枚のデッサンとの差異のゆえにこそ生命を得ている」というふうに書いています。言い得て妙だな、と思いますが、裏を返すと「一枚のデッサン」だけでは、作品の良さが分かりにくい、ということになります。私には『At Sea, Japan』と同じように、ジェニファー・バートレットという作家が、個々の作品と全体というねらいを的確に表現しながらも、個々の作品が独立した絵としてはやや物足りないために、全体が相互に不協和音を発するほどの緊張感には至っていない、と感じてしまいます。ですからこの画集は、学生の頃に大枚はたいて(11,200円!)買った愛すべき一冊ですが「私を魅了しつづけている」というところまでは深く入り込めない、悩ましい画集でもあります。

さらにジェニファー・バートレットは1980年代の半ばには、油絵と彫刻を併せて展示する、という形式に移行していきます。大きな絵の中に描かれているボートや幾何形体のような小屋(家?)、机、円錐形、鳥などの形が、立体としても作られていてそれが絵の前に置かれている、という作品です。この形式の作品はけっこう日本でも展示されていると思いますので、見たことがある人も多いでしょう。私も実際に見た記憶がありますが、正直に言うと、ちょっと印象が薄いのです。絵画の形式を展示空間との相関関係のなかで思考してきたジェニファー・バートレットが、いよいよ絵画の枠をはみ出して立体との相関関係を探り出した、ということになるのでしょうが、私の個人的な感想を言えば、その双方の追究の仕方が浅く、だからこそ違和感なく作品全体が見えてしまう、ということになります。
それぞれの表現形式の深みに入ることなく、横へ横へと移動していく、そして次々と軽やかに作品形態を展開していく彼女のやり方が、ポストモダン的だと言えばそうなるのかもしれません。
そして、これは好みの問題かもしれませんが、例えば『At Sea, Japan』における全体と部分の問題や、『庭にて』における連作と個の作品との問題などは、それだけでも一人の作家が一生を費やすほどの重たい課題だと思います。ですから彼女もそのどこかで足を止めて、もう少し表現を深めてほしかったな、というふうに思います。
インターネット上で彼女の画像を探すと、さすがに作品形式の展開という点からすると、1980年代に彼女が試行したさまざまな形態で尽きるようで、その範囲の中で制作を続けているようです。そしてその後も『At Sea, Japan』のようにタイル状の壁画作品や、『庭にて』のように対形式を追究した大きな作品なども制作しているので、実際に絵の前に立つとそれがどう見えるのか、という興味が湧きます。それらの作品から、先ほども書いたような表現の深みや成熟が、はたして感じられるのでしょうか。
彼女はアメリカでは継続して発表しているようなので、いつか日本でもその作品がまとまって見られるといいなあ、と思います。

最後に、前回の「アルテ・ポーヴェラ」でも同じことを書きましたが、あのころの美術は面白かったな、とか熱かったな、という他人事のような感想ではなくて、いま、私たちがそこからどのようなことを学ぶのか、ということが大切だと感じています。ジェニファー・バートレットのその後の展開がどうあれ、部分と全体、個と一連の関係性など、彼女が投げかけてくれた問題は今も有効だと思います。いつも書いていることですが、私たちは先人たちが駆け足で通り過ぎてしまったものの中から、自分にとって大切なものを見つけ出して、それを見つめなおす時代がきているのではないか、と思うのですがいかがでしょうか。
かく言う私も、ジェニファー・バートレットのように南仏のニースの別荘でスケッチをしたためる、というわけにはいかないものの、近所の「牛久保」や「すみれが丘」の同じ木立の風景を、いろいろと試しながら描いています。よかったらホームページで私の作品を見てください。


そして最後の最後に、最初の話に戻りますが、コロナウィルスで私たちは今、かけがえのない人たちを失い、かけがえのない時間を費やしています。他人事のように書いていますが、私の年齢になると感染した場合の死亡リスクは低くありません。それでも、もしも生き延びることができたなら、これからどういう世界を作ったら良いのか、真剣に考えていかなくてはなりません。効率やスピードを重視して、グローバル化していく世界が意外ともろいことも明らかになりました。ゆっくりと歩みながら、過去の作品から価値あるものを見出して学ぶことが、新たな価値観を生むことにならないか、という日ごろの私の考え方がそれほど間違っていないような気がしています。私とは分野が違っていても、古いものに魅かれ、新しい考え方にも興味を絶やさない方々とは、老若男女を問わずに一緒に学び合っていければ、こんなにうれしいことはありません。
何とか生き延びましょう。

 



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