正月の職場の閉鎖期間も本日までです。明日からは平常出勤、本格的に仕事が始まるのは七日からとはいえ、五日、六日、と出勤予定なので、自宅でゆっくりできるのは、今日までです。ここで、昨年からの『ユリイカ』のセザンヌ特集号から触発された「セザンヌ解釈」の概観を書きとめる作業に、一区切りつけておこうかと思います。
さて、前々回の末尾に書いたとおり、もっと具体的にセザンヌの絵画を論じてみたい、という気持ちで『ユリイカ』の特集号のページを繰っていくと、平倉圭(1977~ )の『多重周期構造』という論文がありました。これまで参照してきた『思考するイメージ、イメージする思考』を書いた岡田温司という人は、著作を次々と発表していますし、私にとっては何よりもモランディ関連の本や画集で親しみのある学者です。しかし平倉圭という人は不勉強にして、今回初めて見る名前です。インターネットで調べてみると、横浜国大でメディア研究を教えている方のようです。
この『多重周期構造』という論文は、晩年のセザンヌが絵を描くのに写真を利用することに反対しなかったという、一風変わったエピソードから始まっています。エミール・ベルナール(Emile Bernard 1868~1941)が驚きをもって伝えたこの事実について、平倉はこう書いています。
私も驚いてしまう。写真に基づく絵画は、直接的に経験された自然がもたらす「感覚」を完全に「実現」するという、ベルナールとジョアシャン・ガスケ(Joachim Gasquet 1873~1921)が伝える晩年のセザンヌの基本的アイディアに反するように思えるからだ。
(『多重周期構造』)
多くの「セザンヌ解釈」は、直接自然と立ち向かう画家のイメージから発していると、私も思います。例えばメルロ=ポンティの「諸感覚が分離する手前の原初的な体験」という解釈も、自然と向き合うセザンヌのイメージがないと拍子抜けしてしまうのではないでしょうか。
しかし、セザンヌは写真の利用を否定していなかったのです。この事実から平倉はこう解釈します。
セザンヌの絵画は、世界とは異なる論理によって構造化されており、つまり世界に対して「閉鎖」されている。
(『多重周期構造』)
絵画が、何らかの論理による構造をもっている、というのはあたり前の話だと思います。たとえ画家自身が意識していなくても、透視図法による遠近法に依拠していたり、モダニズム絵画の論理に依拠していたり、ということがあるからです。セザンヌの場合は、それが意識的であったと思います。ただ、「閉鎖」という言葉は、すこし言い過ぎのような気がします。セザンヌの絵画が自然を参照しつつも自律的である、ということを言いたかったのだろうと思います。
それでは、セザンヌの自律した論理とはどのようなものだったのでしょうか。セザンヌ自身は「組織化された感覚の論理」という言い方をしています。その言葉をそのままタイトルにした論文が、ローレンス・ガウィング(Lawrence Gowing 1918~1991)の『組織化された感覚の論理』(1977)です。この論文は1977年のニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された、セザンヌの晩年の作品を集めた展覧会のカタログに掲載されたものだと思われます。日本では月刊『美術手帖』に1983年6~9月号に、松浦寿夫の翻訳で掲載されました。ガウィングはセザンヌの筆触が、周期的な色彩の変化によって成り立っていることに注目しました。しかし平倉は、「ガウィングが見出した『感覚の論理』は、セザンヌの絵画に完全には当てはまらないことが知られている」といいます。実際にはもっと複雑に「重なり合う複数の周期構造を構成している」というのです。周期構造をもった筆触の「多重性は、絵画全体の多重周期構造と共鳴している」ので、その結果、次のようなことが起こります。
局所の塗りは、絵画全体の印象を変更する。なぜなら一つの塗りは、つねに絵画の周期構造全体への働きかけとなるからだ。
(『多重周期構造』)
このような構造を持つセザンヌの絵画を見る体験について、平倉は次のように書いています。
一つのリズムに乗ろうとした途端に、別の周期構造が現れる。あるリズムから足を洗おうとした途端に、別のリズムに呑み込まれる。定位の不確定性が画面を震動させる。
(『多重周期構造』)
世界から閉鎖されたはずの絵画が、その始まりも終わりもない震動の永遠性において、世界の永遠性に平行する。画面に目を走らせるたびに組み替えられ、更新される永遠が、私の他なる身体を貫いて震動する。
(『多重周期構造』)
セザンヌの絵画が自律した存在であることが語られている一方で、それを見る体験は「世界の永遠性と平行する」、と平倉は書いています。つまりそれは、セザンヌの絵を見ることと、自然を見ることとがほぼ同じ体験になっている、ということではないでしょうか。セザンヌの絵画は、自然を写実的に写し取りはしませんでしたが、自然を見ていることと変わらない知覚的な震動を、見る者に与え続けているというのです。
「セザンヌ解釈」の転機となったメルロ=ポンティが、セザンヌの絵画に「知覚とともに生まれつつある世界」を感じ取ったことの具体的な理由が、画面の構造上の問題として、すこし明らかになってきたような気がします。私の頭の回転速度では、まだ平倉の言葉が宙を飛び交っているようで実感がわかないのですが、実際にセザンヌの絵を見ながら、これから確かめていってみたい内容だと思います。
ところで、セザンヌが写真を利用することに反対しなかった、というエピソードから、セザンヌとモチーフとの関係について、少し考えてみたいと思います。
モデルをしていた知人が居眠りして動いてしまったときに、「リンゴは動かない 」と言ってセザンヌが怒った、という有名な逸話がありますが、この手の話は徹底した観察者としてセザンヌを捉える類のものです。その一方で、セザンヌには寓意画や他人の作品から発想を得て描いた絵が、結構あるのです。それに有名な水浴図にしても、モチーフをそのとおりに設定することは不可能ですし、セザンヌとモチーフとの関係は、実はかなり柔軟であった、と考えるのが妥当だと思います。
ユリイカの特集号からは離れますが、ジャン=クロード・レーベンシュテイン(Jean-Claude Lebensztejn 1942~ )の『セザンヌのエチュード』(訳・浅野春男)という本の中に『消えない記憶』という論文があって、そこにガスケが語った面白い話が書かれています。
ガスケは自身の肖像画について、貴重な情報を提供している。「私は五、六回しかポーズを取らなかった。私は彼がこの絵を放棄したものと考えていた。後でわかったのは、彼が六〇回ほどの仕事を行ったこと、そして私たちが会っているときに、鋭い目つきで私を観察したのは、彼が仕事のことを考えていたためであり、私が発った後にも絵を描きつづけたことである。〔・・・〕もっともそれが彼のやり方のひとつであって、とくに肖像画に取り組む場合には、しばしばモデルが去った後に仕事をした。
(『消えない記憶』)
このような文章を読んでいると、私は彫刻家のジャコメッティ(Alberto Giacometti 1901~1966)のことを思い出します。ジャコメッティも執拗にモデルにポーズを取らせた彫刻家でした。しかし矢内原伊作(1918~1989)の記録によれば、彫刻家はモデルのいないときにも仕事をしていました。ジャコメッティは矢内原をモデルとして日本から呼び寄せるほどの徹底した「見る人」でしたが、記憶による制作も同時に行っていたのです。モチーフと芸術家との関係は、それほど単純なものではない、ということです。
彼らはいったい、何を記憶するためにモチーフを観察したのでしょうか?
漠然とした言い方しかできませんが、それはモチーフ(モデル)そのもの、というよりもモチーフをとりまく「空間」を把握するためではなかったのか、と思います。「空間」という言い方の意味が広すぎるとするなら、それはモチーフとの「距離」と言ってもいいのかもしれません。例えばセザンヌはモチーフである山との距離にこだわって絵を描いたし、ジャコメッティはモデルの最も手前に見える部位である鼻にこだわってデッサンをしました。彼らは実物のモデル通りにはけっして描きませんでしたが、モデルとの「距離」をリアルに感じることは、どうしても必要だったのでしょう。彼らにとって、「距離」を把握し、記憶しておくことが重要だったのです。
もちろん、それは物理的な「距離」のことではありません。メジャーでは測定しえない、モチーフから受容される何かです。このことをつきつめて考えようとすると、言葉があいまいな方へと逃げていってしまいます。
しかし実はここが肝心で、私の絵のだめなところ、制作が深まっていかないところは、このあいまいさにあります。私はこのところ、具体的なモチーフを設定して絵を描いています。それなのに絵が行き詰ると、そのことの意味が混乱して分からなくなってしまうのです。
何とも情けない話ですが、今年はもうすこしはっきりとさせたいと思っています。
「セザンヌ解釈」を概観するつもりが、とんでもない話でおちてしまいました・・・。
ところで、セザンヌが写真を利用することに反対しなかった、というエピソードから、セザンヌとモチーフとの関係について、少し考えてみたいと思います。
モデルをしていた知人が居眠りして動いてしまったときに、「リンゴは動かない 」と言ってセザンヌが怒った、という有名な逸話がありますが、この手の話は徹底した観察者としてセザンヌを捉える類のものです。その一方で、セザンヌには寓意画や他人の作品から発想を得て描いた絵が、結構あるのです。それに有名な水浴図にしても、モチーフをそのとおりに設定することは不可能ですし、セザンヌとモチーフとの関係は、実はかなり柔軟であった、と考えるのが妥当だと思います。
ユリイカの特集号からは離れますが、ジャン=クロード・レーベンシュテイン(Jean-Claude Lebensztejn 1942~ )の『セザンヌのエチュード』(訳・浅野春男)という本の中に『消えない記憶』という論文があって、そこにガスケが語った面白い話が書かれています。
ガスケは自身の肖像画について、貴重な情報を提供している。「私は五、六回しかメ[ズを取らなかった。私は彼がこの絵を放棄したものと考えていた。後でわかったのは、彼が六〇回ほどの仕事を行ったこと、そして私たちが会っているときに、鋭い目つきで私を観察したのは、彼が仕事のことを考えていたためであり、私が発った後にも絵を描きつづけたことである。〔・・・〕もっともそれが彼のやり方のひとつであって、とくに肖像画に取り組む場合には、しばしばモデルが去った後に仕事をした。
(『消えない記憶』)
このような文章を読んでいると、私は彫刻家のジャコメッティ(Alberto Giacometti 1901~1966)のことを思い出します。ジャコメッティも執拗にモデルにメ[ズを取らせた彫刻家でした。しかし矢内原伊作(1918~1989)の記録によれば、彫刻家はモデルのいないときにも仕事をしていました。ジャコメッティは矢内原をモデルとして日本から呼び寄せるほどの徹底した「見る人」でしたが、記憶による制作も同時に行っていたのです。モチーフと件p家との関係は、それほど単純なものではない、ということです。
彼らはいったい、何を記憶するためにモチーフを観察したのでしょうか?
漠然とした言い方しかできませんが、それはモチーフ(モデル)そのもの、というよりもモチーフをとりまく「空間」を把握するためではなかったのか、と思います。「空間」という言い方の意味が広すぎるとするなら、それはモチーフとの「距離」と言ってもいいのかもしれません。例えばセザンヌはモチーフである山との距離にこだわって絵を描いたし、ジャコメッティはモデルの最も手前に見える部位である鼻にこだわってデッサンをしました。彼らは実物のモデル通りにはけっして描きませんでしたが、モデルとの「距離」をリアルに感じることは、どうしても必要だったのでしょう。彼らにとって、「距離」を把握し、記憶しておくことが重要だったのです。
もちろん、それは物理的な「距離」のことではありません。メジャーでは測定しえない、モチーフから受容される何かです。このことをつきつめて考えようとすると、言葉があいまいな方へと逃げていってしまいます。
しかし実はここが肝心で、私の絵のだめなところ、制作が深まっていかないところは、このあいまいさにあります。私はこのところ、具体的なモチーフを設定して絵を描いています。それなのに絵が行き詰ると、そのことの意味が混乱して分からなくなってしまうのです。
何とも情けない話ですが、今年はもうすこしはっきりとさせたいと思っています。
「セザンヌ解釈」を概観するつもりが、とんでもない話でおちてしまいました・・・。
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