「嶋田しづ・磯見輝夫展 色彩とモノクローム」が、横須賀美術館で開催されていました。ある方から、「磯見さんの作品が素晴らしいから、ぜひ見ておきなさい」と言われましたが、私自身の展覧会もあって、なかなか出かけられませんでした。かろうじて、最終日に見に行くことができましたが、予想以上の素晴らしさに感動しました。手短にその感想をメモしておきます。
この展覧会は嶋田しづ(1923~)と磯見輝夫(1941~)のふたりの展覧会です。
嶋田しづの作品は、大作よりも小さなエスキースの方が面白いと思いました。これはたぶん、私が作品を見るときに、作者がどのように作品と関わったのかを貪欲に知りたい、と思っているからでしょう。作者が試行錯誤の末に大作に辿りついたのだとしたら、その最後の結果よりも途中の段階を見てみたい、と思ってしまうのです。だから、完成度の高い大作よりも、線を消したり、後から描き足したりした痕跡の見えるエスキースの方に、興味を惹かれてしまうのです。
それでは、磯見輝夫の作品はどうだったのでしょうか?磯見輝夫は木版画家として知られた作家で、今回の作品もほとんど木版画でした。版画作品は、完成するまでにさまざまな作業工程を経るものです。場合によっては、直接の描画作品よりも技術的な確かさが必要です。それゆえに、版画作品は技術のベールにさえぎられて、作者の直接の息吹を感じとることが難しい、と私は常々感じています。もちろん、これは版画作品だけに生じる問題ではありません。技術的な上達が、かえって作品をつまらなくするということは、どんな表現にも見られることです。そのなかで、版画作品は技術面が先に見えてしまう傾向が強い、と私は感じているのです。
これは、版画作品がつまらない、とか、直接描画された作品よりも劣っている、ということではありません。例えば、ルドン(Odilon Redon、1840-1916)の版画作品には、版画作品でしか表現できない黒の美しさがあります。凹版画の黒インクには、版画ならではの輝きがあり、手で直接塗られた黒とは異質のものがあります。ルドンはそれを最大限に抽出した画家だと思います。あるいは、同じく凹版画ですが、デューラー(Albrecht Dürer, 1471 - 1528)の有名な『メランコリア』という作品には、版画特有の描線の特徴が見られます。ペンで直接描写された線とは異なり、インクを後から盛られた凹版画の線には、どこかクールな客観性があり、この絵の主題とよく合っています。「メランコリア(憂鬱)」という微妙な感情を表現したこの絵には、作者の直接の息吹を伝える線の抑揚は不要です。描かれた不可解なモチーフを見て、鑑賞者はそれぞれの内面から湧き上がるものを見つめることになるでしょう。その際には、作者の制作上の痕跡などは鏡のようにはねかえしてしまう方がよいのです。
さて、磯見の作品ですが、そこにはルドンやデューラーとはまったく異なる版画表現が見られます。彼の場合、版画作品としての技術よりも先に版として使った木の物質性が、ある種のリアリティをもって見えてくるのです。一般的な木版画の、端正な木の美しさではなく、もっと直接的な、作家が素材と格闘した痕跡のようなもの、それが版面から写し取られたように見えてくるのです。私は磯見の作品を以前から知っていますし、版画家としての質の高さも知っていました。しかし、今回のように感じたのは、はじめてです。どうして、今回は以前とは違ったふうに感じたのでしょうか。
それは2000年以降の磯見の作品を、まとまって見たことが原因だと思います。2000年以降の作品と、それ以前の作品と、どこが違っているのでしょうか?例えば今回の図録のテキストには、こんなことが書かれています。
2003年頃から、磯見の作品は大きく変化する。主役であった「人物」が消え、「地面」だけが描かれるようになるのである。また、色彩も墨を用いることに変わりはないが、印象的だった黒の強いコントラストが和らぎ、よりハーフトーンが強調されるようになった。常に磯見の意識にあり、また描かれてきた「地面」が新たにクローズアップされ、表情豊かに描写されるようになったのである。
人物がいなくなり、地面や海面にあるさまざまな事象が描かれた画面は、一見「抽象画」のように見える。しかし、磯見自身が「常に具体的なものを描いてきた」と語るように、作品の細部を見ていくと小屋、草花、貝殻・・・などが組み合わさり、ちりばめられている。作品を発想する出発点は、あくまで具体的なものである。
人物というキャラクターがいなくなったので、見る側の視点として、画面のどこか一点を集中的にではなく、拡散的に全体を見るようになる。そのため、近作からは墨の濃淡、強弱というリズムをより強く感じられるようになったことも特徴として挙げられるだろう。
(「磯見輝夫の歩み」工藤香澄/横須賀美術館主任学芸員)
ここで語られているように、2000年以降の磯見の作品からは「人物」から「地面」へというモチーフの変化が見られます。また、それにともなって「集中」から「拡散」へ、という画面構成の変化も、同時に見られます。これらの変化が、具体的に画面にもたらしたものは、何だったのでしょうか?私の感じたところでは、それは画面の「平面性」の強化です。もともと磯見の画面は、「黒の強いコントラスト」があるにもかかわらず、「平面性」の意識を強く持ったものでした。黒と白のコントラストは、描写上の光と影のコントラストにとどまらず、色面としての黒と白の対比でもあったのです。それがモチーフの変化によって「拡散」的な画面に、つまり現代絵画の概念でいえば「オールオーバー」な画面に近づいたのです。そのために、戦後のアメリカの現代絵画に見られたような「平面性」が強調されるようになったのです。
そのアメリカの現代絵画では、絵画の「平面性」が強調されるにつれて、絵画の物質性、つまり絵具の素材感やキャンバスの布としての物質性が顕著に見られるようになりました。磯見の作品においても、版の素材である木の物質感、版面の「もの」としての抵抗感が、今までより強く打ち出されることになりました。
あるいはこんなふうに考えることも、できるのかもしれません。かつて、シュールレアリストたちが画面に物質性を持ち込むために、フロッタージュという技法を用いました。木の木目の物質感を画面上に表現するという点では、磯見の作品とフロッタージュ技法とは共通する点があります。しかし磯見は木の版面と格闘する過程で、その物質性を平面的な抵抗感として、シュールレアリストたちよりも昇華させた形で表現することに成功した・・・、と私はそんなふうに考えます。
いずれにしても磯見は版画という技法の中で、版木の物質感を際立たせることで絵画の平面性を強調させるという、私の予想外の方法を確立しました。そしてこれは私にとって予想外であるというだけでなく、版画表現にとって極めて稀有な方法論だったのではないでしょうか。
さて、このような版画表現が、どうして磯見に可能だったのか・・・?その手がかりが、数点出品された油彩画の中にあるような気がします。磯見にとって、木版画は必然的な表現手段ではありますが、彼の「平面性」への意志は油彩画の中にも見ることができます。磯見が制作の際に触れているのが、硬い木の表面であっても、柔らかなキャンバスの生地であっても、「平面性」を指向する意志があれば、その触覚性を実感できます。油彩画の抑制された色彩の中で、筆触のひとつひとつが絵画空間のどの位置に触れているのか、磯見は注意深く感じ取っているように見えます。そしてその位置が、絵画の平面性を確認するように、きわめて表面に近い位置で動いているのです。まるで作品を完成させることよりも、その感触を確かめることの方が重要なのだ、と言っているようです。欲を言えば、油彩画の作品も、もっと見たかったですね。今回展示された油彩画は、すべて作家が60歳を過ぎてからの作品のようです。それは版画作品の変化とほぼ同時期の作品です。60歳を過ぎてなお、このような果敢な変化、発展が可能だというのは、何だかとても励みになります。
とにかく、いろいろなことを教えられ、勉強になった展覧会でした。もっと美術界全体で、大きな話題になってもいい展覧会だと思うのですが・・・。
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