平らな深み、緩やかな時間

350.『日本語の建築』伊東豊雄と『松浦延年展』obi gallery

少し前に、建築家の隈研吾(くま けんご、1954 - )さんについて、二回にわたってこのblogで勉強しました。

私は建築にはまったく疎いので、隈さんの著作から「勉強した」というのが当を得た言い方だと思います。その際に、隈さんが建築家として成熟していくまでの1970年代の過ごし方に注目したり、社会的に注目を浴びた東京オリンピックの国立競技場のことについて触れたりしました。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/33d331b2ba4cde30de60c7bc8e23f943

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/74ef0c5f18c67319ef4108cb48452185

その国立競技場について隈さんと同様に関わりが深かったのが、隈さんよりも一世代上の伊東 豊雄(いとう とよお、1941 - )さんという建築家でした。伊東さんは隈さんよりも年長ではありますが、若い頃にエリートコースをはずれ、やはり1970年代に試行錯誤を続けながら建築家としての地歩を固めたのでした。

今回は、その伊東さんの『日本語の建築』という著書を手掛かりに、隈さんとは違った道を歩んだ伊東さんについて、同様に国立競技場との関わりや1970年代の過ごし方について見ていきたいと思います。

そして後半には、伊東さんと隈さんの間の世代にあたる美術家の松浦延年(まつうらのぶとし、1949 - )さんの個展について取り上げます。ジャンルは違っても、継続して表現活動に取り組んでこられた方々は1970年代以降のモダニズム、ポストモダニズムの喧騒とどのように向き合い、どのように自己の表現と向き合ったのか、そんなことに思いを馳せることは私たちにとって良い勉強になるはずです。

松浦さんのことは後で論じますが、とりあえず「obi gallery 」のホームページをご覧になっておいてください。松浦さんをご存知ない方には、興味が広がるはずです。

https://obi-gallery.com/%E6%9D%BE%E6%B5%A6%E5%BB%B6%E5%B9%B4/



さて、はじめに伊東豊雄さんの『日本語の建築』という著作について見ておきます。これがどんな本なのか、出版社の紹介文を読んでみましょう。

 

西洋から入ってきたモダニズム建築を単に採用しているだけでは、日本人が建築家として仕事をする意味はない。同時に、日本の伝統的な建築に留まっていても、同じようにまったく意味がない。余韻や曖昧さを楽しみながら、自由に振る舞える建築をどうやったらつくれるか――と著者は語る。

 「管理」と「経済」の高く厚い壁に取り囲まれ、グローバリズムの海に溺れる現代に、場所と土地に根差す「日本語の建築」で挑む

 内容例を挙げると、

  • 無表情になった東京 
  • 「人間味」あふれる都市への旅 
  • モノとしての建築を大地に立ち上げる 
  • 英語によって均質化する社会 
  • 「日本庭園」としての建築 
  • 均質化する建築家らの脱却 等々

 ブリッカー建築賞など数々の栄誉に輝いた建築家が、「日本語」という空間から、建築の未来を考察する。建築家が建築家であるために、いま、なしたいことと、必要なこと。

(PHP総研のホームページより)

https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-83203-6

 

ちなみに、文中のプリツカー賞 (The Pritzker Architecture Prize) とは、アメリカのホテルチェーンのオーナーであるプリツカー一族が運営するハイアット財団 (The Hyatt Foundation) から建築家に対して授与される賞で、歴史は浅いものの「建築界のノーベル賞」と紹介されることもあるそうです。

そのような輝かしい経歴を持つ伊東豊雄さんですが、東京オリンピックの国立競技場建設のコンペでは「3連敗」した、と著作に書いています。隈研吾さんのblogで書いたように、この時のコンペはイギリスの建築家、ザハ・ハディド(Zaha Hadid 1950~2016)さんの案に一度決まりましたが、それが白紙撤回され、再度コンペが開かれて隈研吾さんのデザインが選ばれたのです。ですからコンペの回数は2回で、伊東さんのデザインがいずれのコンペでも選ばれなかったとしても、合計で2敗にしかなりません。

https://imidas.jp/genre/detail/L-110-0141.html

それでは、伊東さんが「3連敗」と書いているのは、どういう意味でしょうか?

伊東さんの『日本語の建築』によれば、ザハさんの案では建築費用がかかり過ぎることは明白でした。それなのに、建設の主催者側は何も手を打たなかったのです。そこで旧国立競技場を取り壊さずに改修したらどうか、という声が上がりました。伊東さんは、その時に旧競技場の改修案を提案したのです。私はこのことをニュースで知って、伊東さんの提案に共感をおぼえました。しかしこの提案は無視され、旧国立競技場は取り壊されてしまいました。この顛末のことを併せて、伊東さんは「3連敗」と言っているのです。

私のような建築の素人が国立競技場のことに注目するようになったのは、ザハさんのデザインが問題となった頃でした。そして2回目のコンペで伊東さんのデザインと隈さんのデザインがニュースで報じられた時、正直に言って二人のデザインはあまり大きくは違わないような気がしました。

https://bokuranotameno.com/post-3983/

伊東さんのこの本によると、そもそも1回目のコンペの時から国立競技場の仕様と予算などから考えると、デザインにそれほどの違いが出るはずがなかったのだそうです。そして2回目のコンペでは、わずかに伊東さんのデザインの方が工期短縮に関する点数で不利になったそうです。

このことについて伊東さんなりの言い分があるようですが、私にはそれをどう判断したら良いのか分かりません。ただ、これだけ大きな仕事で、多くの人たちや企業が関わるようになると、純粋にデザインの良し悪しだけで結果を判断するわけにはいかないようです。

これは美術においても、大きな展覧会やコンクールにおいて結果だけで作品の良し悪しを判断できないことと共通するのかもしれません。この国立競技場の問題についてクドクドと書いたのは、このことを認識しておきたかったからです。そして隈研吾さんにしろ、伊東豊雄さんにしろ、いずれも優れた建築家で、彼らの書いた著作も信頼のおけるものですが、一方の本だけを読んで解ったような気になるのは危険だということです。

 

さて、その伊東豊雄さんですが、先日のNHKの番組『最後の講義』に出演した時に、大阪万博の建築家チームに参加した時のことを語っていました。

https://www.nhk.jp/p/ts/4N7KX1GKN7/episode/te/X8M31Q815P/

超エリートだった伊東さんですが、その万博でモダニズム建築に疑問を抱き、一旦エリートコースから外れて、自分の道を歩き始めます。その時のことを、この本で次のように書いています。

 

私が学部を卒業したのは一九六五年です。その後菊竹清訓建築設計事務所に入所します。菊竹さんの事務所では、学生時代からアルバイトをさせてもらっていました。そんなある日、菊竹さんと話す機会があったので、卒業後に就職させてもらいたいと言うと、あっさり「いいよ」という返事をいただきました。それでそのまま、就職することになったのです。おかげで菊竹さんからは、仕事の進め方、設計に向かう姿勢など、さまざまなことを学びました。菊竹さんは、私が最も大きな影響を受けた建築家であることは間違いありません。

 ただこの頃、菊竹事務所では大阪で開催される万国博覧会に関する仕事が中心になっていきました。そのことに私は馴染めなかったのです。菊竹さんを始めとする日本の先鋭的な建築家が、万国博覧会という体制側、資本主義経済に深く組み込まれながら仕事をすることに、耐えられませんでした。それで一九六九年、菊竹さん個人には申し訳ない気持ちを抱きながらも、これ以上は万博の仕事にかかわりたくないという一心で、菊竹事務所を辞めたのです。

 ですから一九七〇年代、私は外部環境に対して閉じた建築ばかりを手がけていました。デビュー作である「アルミの家」(一九七一年)、「中野本町の家」(一九七六年)は、その象徴です。ですが次第に、建築家であるにもかかわらず、社会を否定し、背を向けていることへの矛盾、むなしさが募ってきました。

(『日本語の建築』「第3章 時代から場所へ」伊東豊雄)

 

そう言えば隈研吾さんにとっても、大阪万博は自分の方向性を決めるきっかけになったものでした。一般の人たちにとっては、万博は明るい未来を指し示すものでしたし、現在計画されている万博もその成功体験に依存しているものでしょう。しかし、隈さんや伊東さんのように、その先の世界が見えていた人たちにとっては、すでにこの時にモダニズムの行き詰まりが予見できていたのです。

少し伊東さんのことから話がそれますが、この1970年の大阪万博の時代というのは、その当時を生きた世代によってどのように受け止め方が違っていたのか考えておきましょう。

隈研吾さんのように、現在70歳ぐらいの方たちにとっては、大人になる入り口に差し掛かる頃の大きな出来事であったでしょう。伊東豊雄さんのように現在80歳ぐらいの方たちにとっては、まさに社会人としてのキャリアのはじめに起こった出来事だったのです。そして私のような60歳ぐらいの人間にとっては、少し前に流行った漫画、映画の『20世紀少年』のように、駄菓子屋に集まってわいわいと世間話をするような、そんな子供として経験した、ちょっと遠い出来事でした。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/20%E4%B8%96%E7%B4%80%E5%B0%91%E5%B9%B4

裕福な家庭の子供ならば、実際に万博を見に行けたでしょうが、そうでない家庭の子供は限られた情報として万博に行った友だちからその様子を聞くしかなかったのです。もちろん、私は後者でした。私は『20世紀少年』をちゃんと見ていないのですが、駄菓子屋に集まるランニングシャツで半ズボンの子供たちのシーンを見て、団地の近くにあった小さな駄菓子屋のこと、そのお店にたむろしていた自分自身のことを思い出しました。

 

さて、この後の時代との立ち向かい方について、隈研吾さんのケースについて以前のblogに書きました。そして伊東さんの立ち向かい方は、先に引用した通り、主流となる建築事務所から離れて独立したのです。それはモダニズムへの疑念から発したことでした。

そして美術の世界のことで言えば、1970年代はモダニズム思想の影響が極端に浸透した時期で、それが1980年代半ばにはポストモダニズムの流行によってモダニズムの雰囲気が空中分解してしまいました。さらに今では、ポストモダニズムと呼ばれた思想がその価値を問われ、一過性の流行に過ぎなかったことが暴かれています。ただ問題なのは、哲学や思想の世界では、ポストモダニズムと呼ばれた時代に発表された著作や思想の価値が吟味され、流行として淘汰できるものとそうでないものとを見極めようとする動きがあるようですが、美術の世界ではほとんどそのような試みが見られないことです。

すでにポストモダニズムの作品として高値で売買され、美術館に収まった作品について厳しく評価するのは難しいとは思いますが、それはそれとして、これからの時代を前向きに進めていくには、その検証が欠かせないと思うのですが、いかがでしょうか?アニメーションまがいの絵を描く人たちを大家として扱っても、そこにどんな未来も描けません。私は日本のアニメーションを高く評価する者ですが、それは映像芸術として、その総体を評価するのであって、一枚のセル画だけを見ているわけではありません。どうしてこんな単純なことが世間ではわからないのでしょうか?建築の世界で隈さんや伊東さんが語ったようなこと、つまりモダニズムやポストモダニズム、世間的には万博からバブルの時代にかけて、その時々の流行に乗って作られた建物を批判的に検証するようなことが、美術の世界でも必要なのです。

そして、そのような狂騒の時代に静かに絵画と向き合ったであろう松浦さんの作品については、このあとで書くことにします。

 

さて、モダニズムに疑念を抱いた伊東豊雄さんですが、その疑念の根本にはモダニズム建築の箱型を区切る壁の存在があったようです。そのことについて、伊東さんは『日本語の建築』のはじめのところで次のように書いています。

 

壁、壁、壁……。前を向いても後ろを振り返っても、右も左も壁ばかり。渡る世間は壁ばかりです。

 壁は本来、人を守ってくれるために発明されたはずなのに、今や壁は人の前に立ちはだかって、自由な活動を妨げる厄介な存在になってしまいました。しかもどの壁も厚くて堅固、少しばかり押しても引いても身動きしない壁ばかりです。

<中略>

私はこのような「壁」を壊すことを目指して建築をつくってきました。壁を建てるのが建築家の仕事ではないか、と言われそうですが、まったく逆です。では建築をつくりながら壁を壊す、あるいは除去するためにはどんなことが可能でしょうか。

端的に言えば、それは物理的な壁を外す、あるいは変形することによって、管理という壁から少しでも逃れられるようにすることです。

たとえば後述する「せんだいメディアテーク」の「チューブ」や「みんなの森 ぎふメディアコスモス」の「グローブ」などは、壁によって空間を区切ってしまうのではなく、空間の連続性を保ちながら、空間に場所の違いを生み出します。壁を立てない、すなわち、区切られた部屋を極力つくらないことによって、自然の中にいるかのように、人は自由を感じ、人と人とを緩やかに結びつけるのです。

(『日本語の建築』「はじめに」伊東豊雄)

 

このモダニズムから外れた伊東さんの建築について考えることは、興味深いことです。

しかし、この短いblogでこの本に書かれたことを網羅的に取り上げることはできません。とりあえず文中の「せんだいメディアテーク」と「みんなの森 ぎふメディアコスモス」がどんな建物なのか、ということぐらいは見ておきましょう。

https://www.smt.jp/info/about/character/

https://g-mediacosmos.jp/

今では高校の美術の教科書にも載っている建築物ですが、これだけ画期的な建物なので、建てる時にはさまざまな軋轢があったようです。その話を知りたい方は『日本語の建築』の原著を読んでいただくと良いでしょう。ここでは、これらの建物を作るときに伊東さんが抱いていた大きな思いを書き留めておくことにします。

 

こうして、ざっとこれまでの仕事を振り返ってみると、やはり、「せんだいメディアテーク」以降は、ことに国内の建築において、地域や場所に密着した建築ということを強く意識してきたように思います。その背景には、冒頭に記したグローバル経済下の均質化した社会、均質化した建築への抵抗という意識が働いているからにほかなりません。時代性を取り入れることは、もちろん今でも重視しています。それは同時に、時代や社会、利用者から必要とされなくなった建築はあえて残す必要はないということであります。だからこそ、グローバル経済に覆われた時代であることを踏まえ、そのなかで本当に必要なものは何かを考えて、その先に見えてくる明日の建築をつくっていきたいと考えています。

(『日本語の建築』「第3章 時代から場所へ」伊東豊雄)

 

伊東さんが書いている「グローバル経済下の均質化した社会」ですが、これは例えば美術の世界ではどのように影響したのでしょうか?

この後で松浦さんのことに話を移しますが、その前に、少しだけ美術のことを考えておきましょう。

この「グローバル経済下の均質化した社会」では、美術の世界では、個人的な嗜好や思いを後回しにして、最大公約数的な表現でなければダメだ、という雰囲気が世界的に漂っていたと思います。現代美術の最先端はアメリカに移っていて、アメリカではインスタレーションやオブジェや環境芸術、それに工業製品のようなミニマル・アートの作品などが中心となっていたのです。ですから個人的に絵が好きだから絵を描く、ということではダメで、かろうじてミニマル・アートの絵画なら認められていたという時代でした。

美術でも建築でも、そのような大きな流れがある中で、建築家である伊東さんはあえて地域性に目を向け、そこに暮らしていた人たちの思いや嗜好に耳を傾けたのです。伊東豊雄さんは東日本大震災の後の復興にも大きく関わっていますが、その関わり方も地域に暮らす人たちとの対話に基づくものでした。伊東さんの斬新なデザインの建物が、決して浮ついたものに見えないのは、伊東さんにこのような思いがあったからでしょう。

 

伊東さんや隈さんの現在のお仕事については、またそのうちに取り上げてみましょう。そのためには、少しは実際の建物を見にいかないといけませんね。私はあまり旅行をすることのない身なので、チャンスがあれば逃さないようにしましょう。



さて、松浦延年さんの展覧会です。

ギャラリーのホームページをご覧いただけたでしょうか?

念の為に基本情報を掲載しておきます。

 

Nobutoshi Matsuura 松浦 延年

2023 11.17 Fri – 12.4 Mon

10:00 – 19:00 (最終日16:00)

開廊 金,土,日,月 | 予約制 火,水 | 休廊 木

 

私はこのobi galleryが開廊した頃に、倉重光則さんの展覧会を見に行ったことがあります。その時の感想は次のとおりです。独特の空間をしたギャラリーの様子も書いてありますので、よかったらご覧ください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/4dc4a620be9d12cbbf4be167d71911d5

 

今回の松浦さんの展覧会では、相変わらずの美しい作品が並んでいますが、その中でも今回の展示で特徴的だったものについて触れておきましょう。

まずはギャラリーの展示スペースに飾られている青い色の作品です。この作品は、ギャラリーのホームページにも作品写真が上がっていますので、そちらもご覧ください。

松浦さんは、複雑な色を使いながらも、最終的には単色で仕上げたように見える作品を通常制作されています。重ねられた色は最上層の色のベールに隠されていて、それが深い色彩となって鑑賞者の目に入ってくるのです。しかし、この青い作品では珍しく、青から青緑、あるいは紫までの色彩を中心として、色の変化が見られるのです。それはまるで印象派のモネ(Claude Monet, 1840 - 1926)さんの睡蓮の絵の、最も深い水面の部分の色を引き延ばしたような作品です。そればかりでなく、さらにそこに松浦さん特有の絵の具の艶があって、こんなに美しく、しかも贅沢に絵を仕上げてしまって良いのだろうか、と思うほどの作品になっているのです。松浦さんの単色で仕上げられた絵を見て、人によっては1970年代のミニマル・アートの絵画の延長のように解釈するのでしょうが、松浦さんの作品が「ミニマル=最小限」の表現とはまったく異なることが、この作品を見るとはっきりとわかるでしょう。

そしてそれとは逆に、白を基調とした作品があります。こちらもギャラリーのホームページに写真が上がっています。これは先ほどの青い作品とは真逆の表現のように見えますが、白い表現がかえって下に秘められた色を意識させます。普段の青や緑、黄色を基調とした作品の色彩表現のコンセプトを、白を用いることでむしろより分かりやすく、そして豊かに表現したものだとも言えます。

このように、松浦さんの作品はミニマル・アートという定型表現を突き抜けて、絵画表現の豊穣さを逆照射してしまうのです。実は私は、これまでにこのような松浦さんの独特な表現について、このblogで二度書いています。ぜひ、次のリンクを開いてお読みいただきたいと思います。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/8a93b65856cbbef1d683dcffb51a424d

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/20e5775bc57089f6d49e618f8b8846fc

 

そして今回の作品でもう一つ書いておきたい作品があります。それは、このギャラリー特有の和室の部屋の机の上に平置きにされたシワの寄った布の作品です。手前の部屋の白い作品、奥の部屋の緑色の作品、と小さい作品が二点置かれていました。それらはハンカチよりも小さい正方形?の作品ですが、波打つようなシワが寄っていて、それがおそらくは絵の具のメディウムで固定されているのです。

このような説明を読むと、例えばフランスのシュポール/シュルファスの作品を思い起こす方もいらっしゃるでしょう。シュポール/シュルファス(Supports/Surfaces)について、もしもご存知ない方は、次の私のblogをご覧ください。

https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/bc10f0329a52b11735bebe22ffe80c31

あるいは、その代表的な作家、クロード・ヴィアラ(Claude Viallat、1936 - )さんの作品をご覧ください。 

https://www.kamakura.gallery/claudeviallat/2018.html

「シュポール/シュルファス」は絵画という制度を問い直す運動でした。その中で例えばヴィアラさんのように、作品の表面に記号的な絵を描いて、そのキャンバスを木枠から剥がして吊るしたり、畳んだりして展示した作品があったのです。

彼らの主眼は、木枠に張った布という絵画の構造を解体することでした。ヴィアラさんの作品はその中でも装飾性が高く、視覚的に見ても美しいものでしたが、その表面に描かれた記号的な形や色については、それほどこだわっていなかったと思います。ある意味では、その表面の絵画にこだわってしまっては、彼らの作品のコンセプトが曖昧になってしまうのです。

しかし、現在に生きる私たちは、シュポール/シュルファスの運動が絵画の構造を解体したことを知っています。私たちには、その後の表現の展開が求められているのです。今回の松浦さんの布の作品を見ると、松浦さんはシュポール/シュルファスの表現のその後のことを考えているのではないか、と私は思いました。特に緑色の布の作品は、その重層的な絵の具の重なりがどこまで「絵画」という意味を形成するのか、その表現力を試しているようにも感じました。私には、それが平坦な表面ではなくても、絵画的な表現の美しさに見えたのです。

このような試行錯誤を見ると、松浦さんがいかにモダニズムの思想を深く受け止め、しかしそれにとらわれる事なく表現活動を展開しているのかがわかります。モダニズムは、ある意味ではそれまでの表現の限界値を模索する思想でした。その後にくるポスト・モダニズムの時代は、本来ならモダニズムの乗り越えでなくてはならなかったのに、美術におけるポスト・モダニズムはそうではありませんでした。そう考えると、松浦さんはポスト・モダニズムの時代がやるべきであった探究活動を、今も単独で実践しているのではないか、というふうに思えてきます。まったくの未踏の地に踏み込むように、何も参照するものがない世界で、松浦さんはたった一人で単独行を試みているのです。

その孤独の深さがいかばかりであるのか、私には推しはかることしかできません。実は私は、その松浦さんの単独行を推しはかるために、このblogの前半に伊東豊雄さんのことを書きました。伊東さんより少し年少で、隈研吾さんより少し年長の松浦さんは、建築と美術というジャンルの違いはあれ、モダニズムの限界を見て、ポストモダニズムの喧騒を見て、その中で現在も自分の表現を継続している、という点で二人の建築家と共通しているはずです。先ほども書いたように、美術の世界ではそのようなことを検証した著作がなかなかありません。そこでこれを読んでくださる皆さんには、建築家の伊東豊雄さんの歩みを参照しながら、松浦さんの困難な足取りを想像していただきたいのです。

 

最後になりますが、展覧会の報告をもう少し書いておきます。

広い和室の展示スペースには、松浦さんの黄色い作品が畳の上に置かれています。大きさ、厚み、そして制作年代の異なる矩形の作品が部屋の中央に並べられている様子は、黄金色の田んぼとその間の畦道のようです。ギャラリーのホームページの写真は、その一部を撮影したものだと思います。そしてその部屋の床の間には、緑色の作品が飾られていて、黄色く色づく前の田んぼを象徴しているようでもあります。

先ほどの布の作品も含め、畳や台面に平置きにされた作品であっても、意外と違和感なく鑑賞できるものです。これが洋室の床であったなら、まったく印象が違っていたでしょう。もともと日本の家屋には絵を飾るような壁面がありません。その代わりに掛け軸を床の間に掛けたり、襖の上に絵を描いたり、屏風を立てたり、ということをするわけです。そういう空間の中では、今回のような展示方法も意外と自然に見えるものなのだなあ、と感心しました。

白い四角い壁に囲まれたギャラリー・スペースというものは、これもモダニズムの中で成立した展示の制度に他ならないのですが、作品を効率よく展示するにはよくできた空間だと思います。私は、あえてその空間を否定しなくても良いのではないか、と日頃考えていますが、このように和室の空間であっても松浦さんの作品が十分に鑑賞できるというのは、うれしい驚きでした。このobi gallery という特殊な空間での展示の機会を、松浦さんは最大限に活用されたようです。

 

ちょっと不便なところにあるギャラリーですが、素晴らしく美しい作品と、和室空間での展示という見応えのある内容を考えると、ぜひ実物をご覧になることをオススメします。私はまだ明るいうちにギャラリーにお邪魔したのですが、おそらく一時間以上作品に囲まれていて、帰り道はすっかり暗くなってしまいました。

いろんなことを書きましたが、おそらく松浦さんは作品をそのまま皆さんに見ていただくことを願っていると思います。私の書いたことが鑑賞の邪魔になるようでしたら、すっかり忘れて、無垢なままに作品と向き合ってみてください。

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