山田正亮(1930 – 2010)という画家がいました。
山田は、私が学生だった1970年代の終わり頃から1980年代にかけて、かなり注目された画家でした。それが1990年代後半頃からでしょうか、あまり話題を聞かなくなり、しばらくたって2010年の訃報記事を読んで亡くなったことを知りました。
昨年の暮れに発行された美術評論誌『ART TRACE PRESS 02』※に、山田正亮の特集が掲載されていたこともあり、これを機会に山田について、気になっていたことを書き留めておこうと思います。
※(http://www.arttrace.org/books/details/atpress/atpress02.html)を参照。
簡単に山田正亮の経歴をおさらいしておきましょう。
ここで参照する資料は、『MASAAKI YAMADA Paintings 1950-1980』という画集に掲載された早見堯のテキストです。早見は1980年までの山田の画業を、八つの時期に分けて解説しています。
1.対象の面から絵画の道へ(1949-1954)
2.アラベスクの絵画(1956-1957)
3.方形の面の繰り返しによる絵画(1957-1958)
4.色彩分割としてのストライプ絵画(1959-1961)
5.規則的な繰り返しによる色彩ストライプの絵画(1962-1964)
6.方形の面の並置による絵画(1965-1967)
7.二色のストライプの繰り返しによる絵画(1968-1973)
8.面の交差による絵画(1974-1979)
1は、セザンヌ風、というかキュヴィズム風の静物画などを描いていた時期です。それが2で小さなジグソーパズルを組み合わせたような絵画になり、3でアルバース(Josef Albers, 1888 - 1976)のような正方形を描いた絵画になります。4でストライプの絵画、つまりミニマル・アートの絵画が本格的に始まり、5でそれが規則的なパターンになります。その後の6から8の時期は、白い方形が並置された絵画、市松模様のように互い違いに色が塗り分けられた絵画、二色のストライプの絵画、などミニマル・アートの絵画におけるさまざまな可能性を試した時期が続きます。
私が画廊をまわり始めた頃には、ミニマル・アートの作家として山田は高い評価を得ていました。4の時期にあたるストライプ状の絵画は、東京国立近代美術館にすでに収蔵されていました。
この画集の最後の時期以降、つまり上記の八つの時期の後、山田の絵画は大きく変貌します。この画集では1980年の作品まで掲載されていますが、この時点で早見は次のように書いています。
1979年以降の山田は、色彩と形体とをドゥローイングによって結びつけ、絵画としての面をつくりあげようとしている。今一度絵画のイリュージョニズムをいかにして再構築するのかという課題に向かっているようだ。こうして、反復的で螺旋状の展開は、今また何度目かの始まりを告知している。山田の絵画は、平面化せざるをえない絵画の必然性に従い、さらには画面のフィジカルな構造の侵入に犯されながら、そうした還元的な要素と、時に鋭くまた時には穏やかに、面の操作、ドゥローイング、筆触、色彩といった非還元的な要素を交錯させたところに生れてきたものである。そして、絵画がなお絵画として成立しうる根拠を問うている点で概念的ではあるが、それを越える視覚的な表現を宿しているところに、私たちの時代が持つことのできたもっともすぐれた絵画の一つのあり方を示している。
(『MASAAKI YAMADA Paintings 1950-1980』「絵画―面による思考」)
画集の最後の方に掲載されている1979年から1980年にかけての絵画は、格子状に区切られた矩形の中に荒々しいドゥローイング、または絵具の筆触が見られる作品です。
早見が予見したように、その後山田は、その方向性をさらに発展させていきました。たぶん、その二、三年後だと思いますが、私が銀座の佐谷画廊で見た山田の作品は、筆のタッチが画面上の矩形(グリッド)の境界を突き崩すようになっていました。縦横に区切られた線の一部は消えて見えなくなり、一部は隣のスペースから伸びてくる線や色に侵食されていました。その新しいスタイルの作品群を見た私は、山田正亮という画家がひとつの結論に到達した、と感じました。当時は、たとえば海外の動向として、ミニマリストであったフランク・ステラ(Frank Stella, 1936 - )が奔放な形状の立体の作品へと展開していき、一方でニュー・ペインティングや落書きアートの作品、作家が大量に輸入されていた時期でした。山田の展開もそれにいくぶん呼応するようでもありましたが、ミニマル・アートからの作品のイメージを継続している点で、それらとは一線を画した、独自の道を歩いているようでもありました。その頃の私には、ミニマル・アートから発展的に脱却することに取り組んだ、数少ない真摯な試みとして山田の作品を捉え、そのこたえを見たような気がしたのです。
その後の山田の動向について、私はよく知りません。はじめに書いたように、彼の話題をあまり聞かなくなってしまったのですが、それは私が画廊を回る時間がとれなくなった時期でもありましたので、客観的な状況がどうであったのか、よくわかりません。2005年には、府中市立美術館で個展がありましたが、残念ながら未見です。その展覧会では、旧作と同時に1990年代末頃の作品も展示されていたようなので、彼の最晩年の作品を見る機会を逸してしまった、ということになります。
私が山田について気になっていることというのは、彼の作品を見る機会が何となく宙ぶらりんで終わってしまっていることに起因しています。そのことによって彼に対してどう評価してよいのかよくわからない、ということが一番大きなことでしょう。
今回の『ART TRACE PRESS 02』の特集では、山田正亮夫人へのインタビューや山田自身が書いた文献資料、そして峯村敏明、早見堯、松浦寿夫のテキストが掲載されていて、情報、批評面での不足をある程度補ってくれました。
そのなかで、峯村敏明の「山田正亮を括弧でくくってみませんか」は、当時の状況なども率直な書き方で書いてあって、参考になりました。晩年の山田の作品を見る機会が減ったことは、たぶん、二つ要因があります。そのひとつは、山田自身が制作をやめてしまったことです。私も、山田正亮が制作をやめるらしい、という噂を聞いたことがありました。画家が絵をやめるというのはどういうことだろう?といぶかしく思ったものですが、そのあたりの事情を峯村敏明は次のように書いています。
ある日、晩年ではあるが、山田がまだ最後の「Color」シリーズに取りかかる前だったと思う、彼から「大体やり尽くしたけど、あと一つ二つ、残っていることがあるんですよ」といった意味のことを聞いて、耳を疑う思いがした。「芸術家がこういうことを言うものだろうか」というのがとっさの反応。そしてその科白は、山田正亮という画家の中の芸術家のあり様に疑念を育てて、容易に消えない「うそ臭さ」の像を残すこととなった。
科学者が研究対象の範囲と奥行きをあらかじめ限定しておいて、ある時点であらかた解明し尽くしたと思える境地に達するということはあるだろう。芸術家でも、大作に挑むには体力的・精神的に限界だと思い知らされる時はやってくる。けれど、能力は別にして、自分をその先にいざなって止まないものの呼び声がもはや聴こえてこない、などということがあるだろうか。
(『ART TRACE PRESS 02』「山田正亮を括弧でくくってみませんか」)
「うそ臭さ」というところに、峯村の山田への批評的な見方が入っていますが、山田への評価は後回しにします。山田が自分で言った通り、最後のシリーズ以降、制作や発表を行っていなければ、当然、その作品を見る機会はなくなってしまいます。とくに現代美術の場合、よほど作者がマスコミ受けするような消え方(才能があるのに若くして死んだ、とか・・・)をしない限り、社会的に忘れられてしまいます。
それからもうひとつ、これも当時から聞き知っていたことではありますが、山田が学歴を詐称していて東京国立近代美術館で予定されていた回顧展が中止になってしまった、ということです。このことについて、峯村は次のように書いています。
こういう根源的な疑惑(※自分自身の制作展開をカレンダー的秩序に収めること)に比べれば、1990年に露見した山田の学歴詐称問題などは大したことではない。その年まで山田の年譜がつねに謳っていた「東京大学文学部中退」の記述が事実でないと判断され、計画中の東京国立近代美術館での回顧展が不可能となった事件である。学歴詐称とは小さい。大芸術家なら壮大なウソをつきとおしてもらいたいところだった。いけないのは、そのとき山田が開き直るどころか、「入学したつもりだった」などと言い訳にもならぬ愚痴をこぼしたことである。今にして思えば、「大学に入学したつもり」も自身の「Work」の全体が一つの円環を成すと思うのも、生身の生から離脱したところで芸術をも自他の人生をも眺めやるこの人の生き方からして、どちらも同じ観想の対象でしかなかったのではないか。
※ ( )内は石村記
(『ART TRACE PRESS 02』「山田正亮を括弧でくくってみませんか」)
山田が「壮大なウソ」をつきとおすべきだったのか、私にはよくわかりませんが、少なくとも芸術家にとって学歴などどうでもよい問題だろう、とは思います。このことが原因で近代美術館での回顧展が不可能となったのなら、これは悲しいことです。ひとりの芸術家の作品に直に触れ、全体像を客観的に眺める機会がなくなったわけですから・・・。少なくとも回顧展を計画するに値する作品だと認識していたなら、やってほしかったと思います。そして、もしもこの問題がなかったら、もっと他にも山田の作品を見る機会が増えていたのかもしれない・・・、と仮定すると、これはそれほど小さな問題ではありません。
さて、峯村はこれらの事実をたんに指摘しているのではなく、このことが山田正亮という芸術家の根源に関わる問題として取り上げています。
近代芸術とは生がこのような観想者的客観性(ひとごと視)に自己限定することを意味したのだろうか。これが近代の求め保証した芸術の自律性になり、何でも見通せる視力と知力を獲得したなどというのは真っ赤な嘘である。本当は自由であることそのことが彼を盲目にし、見通しのきかない暗闇の中で模索するほかない運命に彼を突き落としたのだから。この運命を知らぬげに自己の画業に円環の成立を見ると言えるような画家は、計画画家であっても本当のモダニストではありえまい。
(『ART TRACE PRESS 02』「山田正亮を括弧でくくってみませんか」)
私には確証めいたことは書けませんが、ただ、私自身が見た1980年代の山田の個展で結論を見たような気がしたことは、山田自身が「自己の画業に円環の成立」を見ていたことと関係があるのかもしれません。すくなくとも山田は、自分自身に明確な課題を課し、それを解決することで前進していくタイプの芸術家だったのでしょう。私は課題を明確にできないタイプの人間なので、ことの当否は分かりませんが、問題なのはその課した課題と、そのこたえの質でしょう。
そこで、先述した1980年代の山田の作品について考えてみましょう。いまとなって思うのは、それらをミニマル・アートからの継続した作品として捉えるのには、少々無理があるのだろう、ということです。ミニマル・アートの作品がなぜ平面性へと向かったのか、それはやはりグリーンバーグのモダニズム絵画の考え方が背景にあったと思います。(このブログの、2012.12.20<『オリジナリティと反復』「序」と 田中恭子の作品について>を参照してください。)平面性へと向かう、ということは、画面上の形や色彩の差異をおさえ、限定して平面に近づけていく、ということです。ストライプやグリッドという形状は、そのなかで生じてきたのだと思います。山田の作品は、グリッドの形状が感じられる点で、ミニマル・アートの余韻を残してはいますが、そのグリッドの内容はミニマル・アートの指向する平面性ではありません。それでは、まったく平面性を意識していないのか、というと、そういうわけでもありません。どちらかというと、抽象表現主義の絵画が指向した平面性に近いような行為性を感じます。そうだとすると、はたしてそこにグリッドの形状が必要だったのでしょうか。私には何となく、ミニマル・アートの様式の中にほかの問題を接木されたような、そんな感じがするのです。もしかすると、峯村敏明が指摘した「計画画家」であることの不自然さが、このような接木された継続性として表れたのかもしれません。
ただ、絵画のよさ、おもしろさというのは、一筋縄ではいかないものだと思います。たとえばこの場合、画面上のグリッドを突き崩そうとした山田の絵画には、やはりある種の魅力がありました。グリッドの痕跡を残しつつ、グリッドを突き崩さなくてはならない、という矛盾した課題に、山田は正面から立ち向かっています。私の記憶では、そこに知性と感性が結びついた生き生きとした画面が広がっていたように思います。私は山田の色彩感覚があまり好きではないのですが、そういうことはどこかにおいておいてもいい、と思わせるだけのものがあったように思います。いまでは本物の作品を見る機会もなく、当時の図版でしか見ることができないので自信を持ったことは言えませんが、記憶の中にある山田の作品は、そんな感じです。
『ART TRACE PRESS 02』には前述したように松浦寿夫によるテキストも掲載されていて、そこには私がここで取り上げた時期の山田の作品について、次のように書かれています。
この「Work E」では各ブロック内部を充填する筆致が、ブロックの境界をいくつもの箇所で横溢することになるが、この横溢を可能にする役割、より正確にいえば、いかなる横溢をも統御し、画面の全体性を保証する役割、正確にいえば、いかなる横溢をも統御し、画面の全体性を保証する枠組みとして機能する役割がこの色帯に担わされたのではないだろうか。また、この色帯の彩色が画面内部の充填に用いられた複数の色彩を交互に使用しつつ、単一色による色帯を回避したのも、この全体性の保証という任務の観点からすれば、当然の帰結であったはずだ。たしかに、「Work E」は、線的な要素、運動感を喚起する筆致といった、自然発生的にみえる刻印を留めているが、それら自発性の単なる顕現に制作を委ねるという以上に、山田正亮は、どんな自発性の発露にも耐えうる制御作用にこそ注目していたといえよう。むしろ、この制御作用と自発性とのディアレクティークをこそ、提示しようとしたといえるだろう。
(『ART TRACE PRESS 02』「絵画の体系、あるいはアナクロニスムについて」)
松浦寿夫のテキストは、私にとってはいつも難解で、読んでかなりたってから意味が少しずつ分かってくる、ということがしばしばあるのですが、このテキストも例外ではありません。ただ、この文章では私が山田の絵画に感じた魅力と、似たようなことを松浦も感じているのではないか、と思うのですがどうでしょうか。
それから、この時期の山田の作品のグリッドの担った役割についても、松浦は触れています。グリッドはミニマル・アートの頃の方形の区切りとは違った役割を担っていた、ということなのでしょう。そのあたりの変化について、画家はどれくらい意図していたのでしょうか。
あれこれと未整理なまま書き散らしましたが、いずれにしろ作品と直に接することによってしか、作家を正当に評価することはできません。峯村はそれに加えて、「捕らわれない目で」見直すこと、それが「括弧にくくる」ということだ、と書いています。私もそうしたいと思いますし、1980年代を中心にかなり話題になった画家ですから、もう少し本物を見直す機会が与えられてもいいのではないか、と思います。
山田正亮に限らず、現代美術の作品、作家は、忘れられるのが早すぎると思いませんか?現代美術そのものを成熟させていくためには、一人ひとりの作家と、もっと向き合うことが必要だと思うのですが、いかがでしょうか。『ART TRACE PRESS』のような雑誌が発行され、その内容が話題となって広がっていき、例えば山田正亮のような作家の展覧会が企画されるとよいと思うのですが・・・。
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