平らな深み、緩やかな時間

387.マティスのデッサンについて

私は少し前に、国立新美術館の『マティス 自由なフォルム』という展覧会について、このblogに文章を書きました。
https://blog.goo.ne.jp/tairanahukami/e/a99192b3f97f158ebc9ad8f0f5f4a69c

そこで見たマティス(Henri Matisse, 1869 - 1954)さんのドローイングについて、私は次のように書いています。

ただ、今回の展示では、その時期に描かれたと思われるドローイングが数多く展示されていましたが、その中で面白いものがありました。このドローイングも、平面的な表現を謳歌するものと、絵画の奥行きとの間で葛藤する作品に分かれるのですが、やはり後者の作品が興味深いのです。
例えばそのなかの一点は、裸婦を背中から描いたものですが、線を重ねて抽象化していく中で、女性の滑らかな体の線とそれに伴う周囲の空気の流れを同時に表現したような作品になっていました。このようなドローイング作品は、考えてみるとマティスさんのあとにも先にも見ることができません。マティスさんは若い頃に、おそらく触覚的な空間の把握の仕方をセザンヌ(Paul Cézanne, 1839 - 1906)さんの絵画から学んだと思うのですが、それがマティスさんの中で消化されて、独自ののびのびとした広がりのあるドローイングとして表現されたのでしょう。
(378.『マティス展』と『ブランクーシ展』について)

このドローイングは本当に素晴らしかったです。
そして、私はなんとか、私なりにマティスさんのデッサン(ドローイング)を消化して、自分の表現に繋げたいと考えています。そこで今回は、マティスさんのデッサンについて学習してみたいと思います。

そのマティスさんには、『画家のノート』というマティスさんが書いたものを集めた本があります。書簡であったり、覚書であったり、というものを編集したものです。
書店の紹介には、次のような文章が掲載されています。

「白いカンヴァスの上に、青、緑、赤などの感覚をまき散らすと、一筆加えるごとに前に置かれたタッチはその重要さを失ってしまう。室内を描くとする——私の前には戸棚があり、実にいきいきした赤の感覚を私に与えている。そして私は満足のいくような赤を置く、この赤とカンヴァスの白との間にある関係が生まれる。そのそばに緑を置き、黄色で寄せ木の床を表現しようとする。そこでこの緑と黄とカンヴァスの白との間に私の気に入る関係が生まれるだろう。だが、これらのさまざまな色調はお互いを弱めてしまう。私が使ういろいろな記号はお互いを殺さないように釣合いがとれていなければいけない。そのためには私の発想を秩序立てねばならない……」——マティス

感情と芸術表現、空間の表現、デッサンと色彩の葛藤、表現者と自然との同化、表現の記号、アメリカの都市空間と現代美術、オセアニアの光と地中海の光、中国や日本の画家の自然に対する態度、浮世絵から啓示をうけたこと、オリエント、ビザンチン、ロシア・イコン、プリミティヴ芸術、レジスタンス活動で捕えられた妻と娘についての心痛、闘病と仕事のこと、切り紙絵、彫刻、ヴァンス礼拝堂など多くが語られている本書はマティスを広い視野から見直すための大きな手がかりとなるだろう。
[初版1978年11月25日発行]
https://www.msz.co.jp/book/detail/09627/

さて、ここで「デッサン」と「ドローイング」という似たような言葉が出てきました。私自身も、両方の言葉を適当に使ってしまっています。そこで念のために、これらの用語について確認しておきましょう。
単純に言えば、「デッサン」はフランス語で「ドローイング」は英語です。
デッサンを辞書でひくと、次のように書いてあります。

デッサン【(フランス)dessin】 の解説
[名](スル)素描 (そびょう) 。下絵。「木炭で—する」
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%B3/

これに対し、「ドローイング(drawing)」は、「draw(引く)」という動詞の動名詞になりますので、一般的には「製図」などの線を引いたものから、「くじ引き」まで広い意味があります。
美術用語としての「ドローイング」については、例えば徳島県立美術館の「美術用語詳細情報」の中に、次のような解説がありました。

ドローイング(DRAWING)
ドローイングは製図、図面などの意味ももつが、美術用語としては一般に「線画」と訳される。これは線だけで描く絵(ライン・ドローイング)を指すものである。つまり、単色の鉛筆やペン、木炭などで線を引くという行為に重きをおいて描かれた絵を指す。これに対して、絵の具を塗ることに重きをおいた絵をペインティング(painting)という。ドローイングは、しばしば素描やデッサンと同じ意味で用いられることがあるが、これはいずれの画面も単色的であるという点、線的であるという点が、その特徴であるということによる。また、水彩画をウォーター・カラー・ドローイング(water−color−drawing)といって、「ドローイング」として扱う際には、ペインティングは油彩によるものを指すこともある。
https://art.bunmori.tokushima.jp/srch/srch_art_detail.php?pno=3&no=102

わかりやすい解説ですね。
私もおおむね「単色的であるという点、線的であるという点が、その特徴である」と思われる作品について、「素描」と言ってみたり、「デッサン」と言ってみたり、「ドローイング」と言ってみたりします。展覧会で作品を表記する時には、英語表記との兼ね合いから「ドローイング」と記載されることが多いような気がします。一方、フランス語の美術書の翻訳用語としては「デッサン」と記載されることが多いのではないでしょうか。
ここでは「デッサン」と書かれていても、「ドローイング」と書かれていても、だいたいマティスさんの次のような作品をイメージして話が進んでいるのだと思ってください。

https://www.centrepompidou.fr/fr/programme/agenda/evenement/cKepEp

そして、マティスさんがフランス人であったことから、この後はなるべく「デッサン」という用語を使うことにしましょう。

話が少しそれましたが、『画家のノート』には、デッサンについて次のような記述があります。

宝石やアラベスクが私の素描の重荷となることはけっしてない。これらの宝石やアラベスクが私の編曲の一部をなすからである。うまく配置されれば、それらは素描の構成に必要な形もしくはヴァルールのアクセントを示唆する。ここで私にこう語った医者のことが思い出される。「あなたの素描を眺めていると、あなたがいかにもよく解剖学をご存知なのかに驚かされます。」私の素描では、運動は線の論理的リズムによって表現されていたのであるが、彼にとってはそれが活動する筋肉の働きを示していたのであった。
(『画家のノート』「自分のデッサンについての画家の覚え書」マティス著 二見史郎訳)

なかなか興味深い話ですね。
マティスさんは人体を描きながらも、その線描は「線の論理的リズム」によって表現しているのだと語っています。ところが、その線描を見たマティスさんの知り合いのお医者さんは、「あなたがいかにもよく解剖学をご存知なのかに驚かされます」と言っているのです。
もちろん、マティスさんが若い頃にアカデミックな絵の勉強をしていて、人体の解剖学的な知識や表現を身に付けた画家であったことは、言うまでもありません。マティスさんは当時のアカデミズムに対して反旗を翻した人ですが、そうは言っても、今の日本の美術教育の生半可なアカデミズムとは比べものにならない技術を持っていたことは間違いありません。だから、マティスさんが意識していなくても、その素養が画面に表現されていた、ということはあると思います。
しかし、このエピソードは、それ以上のことを語っているように思います。
マティスさんが表現したかったのは、「線の論理的リズム」です。例えば、心地よい曲線の繰り返しが、絵を見る人の目を楽しませるようなデッサンを、マティスさんは描きたかったのでしょう。「安楽椅子」のような絵画を描きたい、と言っていたマティスさんですから、線描のリズム感はとても大切なものだったと思います。そして、マティスさんが画面上で好ましい線のリズムを追求した結果、それが人体の構造としても解剖学的な真理に近づいていった、ということなのだと思います。最後のマティスさん自身の分析、「私の素描では、運動は線の論理的リズムによって表現されていたのであるが、彼にとってはそれが活動する筋肉の働きを示していたのであった」という言葉が、そのことを表していると思います。
インターネット上の画像で、あまり良いものが見つけられないのですが、例えば次の画像を見てください。

https://www.atelier-blanca.com/shopdetail/000000003388/

女性の左手の動きが、とても美しい作品です。とくに注目したいのは、肩のあたりの流麗な線のつながりです。腕から肩へ、そして背中の方へと繋がる線が、リズム感を崩すことなく表現されているところが、マティスさんのデッサンの真骨頂だと思います。
この一連の線の動きですが、生半可な解剖学の知識があると、どうしても肩と背中の辺りで流れを分断してしまいがちです。ところが、マティスさんは大胆に肩の位置を前の方へと動かし、肩にも背中にも見えるような曖昧な、しかし流れるような曲線を引いているのです。
これは当てずっぽうで引いた線ではなくて、マティスさんは彫刻作品において、このようなフォルムの試行錯誤を繰り返し行なっています。人体の構造的な解釈と造形的な美しさが矛盾なく折り合い、そしてそれらが高度なところで相乗効果を生むような表現をマティスさんは目指していたのです。

さて、さらにもう一箇所、『画家のノート』から引用してみましょう。

たとえ、線影付けとか陰影とか半濃淡などがなくても、私はヴァルールの働きとか調子の抑揚を拒否しているわけではない。私は多少厚みのある線によって、またことに線が白い紙の上に区切る面によって抑揚をつけるのである。私は白い紙のさまざまな部分を、それに手を加えるのではなく、その隣接関係によって変化させるわけである。こうしたことはレンブラントやターナー、そして一般的には彩色の巧みな人の素描の中にはっきり見てとることができる。
(『画家のノート』「自分のデッサンについての画家の覚え書」マティス著 二見史郎訳)

この文章に出てくる「多少厚みのある線」というのは、例えば次の画像のような作品のことでしょうか。

https://allerauxessentiels.over-blog.com/2017/07/matisse-dessins-portraits-d-expression.html

少しページをめくっていただくと、簡略な線の中に骨格のはっきりした、見事な女性像のデッサンが現れます。
目が大きくて、頬骨が張り出していて、顎の骨はやや小ぶりな美しい女性の顔がしっかりと描かれています。胸から上しか描かれていませんが、左肩を少し前に突き出していて、右肩を後ろに引いている女性の姿勢もよくわかります。それは首からの線の流れとともに、左肩がやや上に描かれていることからわかるのです。「私は白い紙のさまざまな部分を、それに手を加えるのではなく、その隣接関係によって変化させるわけである」というのは、まさにこのことかな、と思います。シンプルな線の表現であるだけに、その位置関係はとても重要なのです。そのために線と線との位置関係を変化させ、表現上の多少の誇張、つまりデフォルメをするのです。

このように、マティスさんのデッサンは、平面的で奥行きのない、黒い線が針金のように白い紙の上を這うようなデッサンとは、文字通り次元の異なるものです。
ところが、そのことが十分に理解されず、マティスさんのデッサンがただの美しいイラストレーションだと勘違いされ、商業デザインのように消費されていることが多いように思います。また、マティスさんの簡潔な線の表現が、固定的で抑揚のない、動きのないものだと思われることもあるようです。
次の文章は、フランスの詩人、ジャック・デュパン(Jacques Dupin ,1927 - 2012)さんが『ジャコメッティ あるアプローチのために』という本の中で書いていたものです。

ジャコメッティのデッサンがわたしたちにもたらすもの、それは、重力なしにかつ鋭くもたらされる。なぜなら彼の線は、軽いと同時に鋭いからである。線は紙に軽くふれる。そして空間を裂く。線は、数えきれないほどのひび割れを通して、フォルムの中に空虚を侵入させておき、同時に、速やかな動きによって、引っ掻くことによって、空虚をその繰り返される干渉から、追い払う。その結果生ずる巧妙な不確定性が、物を、あるいは人間の体を、他のものから切り離し、わたしがそれらの物あるいは人物から切り離されていることを表明し、この物と人物を自由にしておく。つまり、さまざまな可能性の中から選択することのできる状態に置く。マティスが柔軟で生き生きとした線で木の葉をデッサンするとき、彼は葉を、葉の外見のうちのただひとつのものに固定する。そして横暴にも、葉を、永遠に不動のものにしてしまう。ジャコメッティは、このような形象(イメージ)をとらえて、自分の気まぐれで犠牲にするようなことは、あえてしない。あるいは、できない。現れの可能性を増してやりながら、ジャコメッティは対象とする物を、。彼は、進んでゆく動きはひとつたりとも止めず、描線の可能性をひらく。対象であるこの物は、それらの描線の間で選ぶことができるのだ。いずれにしろこの対象物はそれらの線の間で、たえずためらっているように見える。この非決定から、そのゆらめく自律性と、ひとり離れて在る生命のふるえを引き出して。
(『ジャコメッティ あるアプローチのために』「6」デュパン著 吉田加南子訳)

この文章は、彫刻家のアルベルト・ジャコメッテ(Alberto Giacometti、1901 - 1966)さんのデッサンの解説として、とても興味深いものです。
線をいくつも重ねて描くジャコメッティさんのデッサンについて、デュパンさんは「物を、あるいは人間の体を、他のものから切り離し、わたしがそれらの物あるいは人物から切り離されていることを表明し、この物と人物を自由にしておく」のだと書いているのです。

https://www.centrepompidou.fr/fr/programme/agenda/evenement/cye7GR

このジャコメッティさんのデッサンにおける輪郭的な線描の不在が、「その物の不確実な生成に、不安な可動性に、委ねる」というのは魅力的な解釈です。しかし、そのようなデッサンとは対極にあるものとして、マティスさんを事例として選んだのは、ちょっとまずかったのではないでしょうか?

マティスが柔軟で生き生きとした線で木の葉をデッサンするとき、彼は葉を、葉の外見のうちのただひとつのものに固定する。そして横暴にも、葉を、永遠に不動のものにしてしまう。

ここまで読んでくださった方なら、このデュパンさんのマティスさんへの解釈が、いささか軽はずみなものであったことに気がつくでしょう。
確かに、一本の輪郭線で物の形を決めつけるように描いたデッサンには、「外見のうちのただひとつのものに固定する」ような傾向があるのです。例えば古典的な線描によるデッサンは、対象物の形を固定し、永遠に不動のものにするための技術であるとも言えるのです。
しかし、マティスさんのデッサンは、そういうデッサンではありません。そのことについては、ここまで書いてきた通りです。
問題なのは、デュパンさんのように、優れたジャコメッティ論を書く人でさえ、マティスさんのデッサンや絵画について、このようなイメージしか持っていないということです。デュパンさんに限らず、日本の美術家の中では最も優れた理論家であった宇佐美 圭司(うさみ けいじ、1940 - 2012)さんも、マティスさんの切り絵に対して似たような勘違いをしていました。そのことを私は何度かこのblogで書いてきました。
このことの原因は、マティスさんの芸術が、正しく継承されていないということにあると思います。というか、美術の歴史全体が、そしてとくに近代から現代にかけての美術が、その後のモダニズムの狭い解釈によって捻じ曲げられ、限定された形でしか受け継がれていない、と私は考えています。これはどうにかしなくてはなりません。
非力な私に何ができるのかわかりませんが、とにかく気付いたところから声を上げ、現在のあり方に対する違和を唱え、もっとあるべき方向を示唆していくしかありません。それは一見すると難しいことのように見えますが、偏狭な考え方で進んできたことを、広くておおらかな場所へと連れ出していくことなので、実は豊かで楽しいことであるはずなのです。

今、私は文頭に書いたように、マティスさんのデッサンを何とかして自分なりに消化し、自分の表現に繋げていきたいと思っています。そう思っているだけではなくて、実際に小品で試みているのですが、マティスさんのように大らかな線で描こうとすると、何だか間の抜けた食い足りないデッサンになってしまいます。それに、現在の時点で描くのなら、自ずとマティスさんの表現との差異があって然るべきです。
ということで七転八倒していますが、その成果を近々お見せしたいと思い、努力しているところです。うまくいってもいかなくても、その過程を見ていただければ幸いです。

それから、デュパンさんのジャコメッティ論について、そのうちに書いてみたいです。今回は否定的な事例として彼の文章を取り上げてしまいましたが、実はとても興味深い文章です。デュパンさんの文章を手がかりとして、ジャコメッティさんの芸術について、さらに思考を深めていきましょう。現在、その勉強中なので、いずれその成果をこのblogに書いてみます。
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