はじめにお知らせです。3月15日から20日までギャラリー檜で個展を予定しています。
冒頭のblog「はじめに」やギャラリー檜のHP、または石村HPなどご参照ください。
今回は、美術からはちょっと遠い話題です。
いま評判になっている若手の哲学者、斎藤幸平(1987 - )の書いた二冊の『資本論』に関する本を取り上げます。二冊と言っても、一冊は今月放映しているNHK『100分de名著 カール・マルクス「資本論」』のテキストで、もう一冊はベスト・セラーになっている新書です。
両方ともカール・マルクス(Karl Marx, 1818 - 1883)の『資本論』を題材にしていますから重複する部分がありますが、『100分de名著』の方が『資本論』をていねいに解説しており、『人新世』の方では『資本論』の新たな解釈から「人新世」と呼ばれる時代をどのように乗り切っていくのか、という提案になっています。
私のように哲学や経済学のことがよく分からない方は、『100分de名著』、『人新世』の順で目を通してみると、著者の言いたいことが理解しやすいと思います。それでは、この順番で読んでいきましょう。
とは言うものの、その前にすこし押さえておきたいことがあります。
例えば、カール・マルクスってどんな人なのでしょうか?
すでにマルクスが亡くなって100年以上が経過し、東西の冷戦構造も崩壊してからずいぶんと経ちます。私が若い頃でさえ、マルクスの名前はすでに遠いものでしたが、それでもマルクス主義と言えば、すこし危険な、あるいは魅惑的な感じがしたものです。私の拙い理解でお話しすると、ドイツに生まれたマルクスは、今から150年も前に「資本主義」社会のメカニズムについて徹底的に考えた人でした。そして彼は、とくに資本家と労働者の貧富の差について心を痛め、それを何とかしようと考えて、「共産主義」とか「社会主義」というような新たな社会の仕組みを提案したのです。しかし、現実の社会ではなかなかうまくいかず、貧乏な生活のなかでヨーロッパを転々とし、最後はイギリスで亡くなりました。
それから『資本論』を読んでいく前に、知っておかなくてはならない基本的な社会構造として、どんなことがあげられるのでしょうか?
これも私の拙い理解になりますが、私たちの暮らしている「資本主義」社会では、お金を持っている資本家、企業が労働者をうまく使ってどんどん豊かになっていますが、その一方で一般の労働者の暮らしは一向に良くなりません。それでは、「社会主義」と言われる国ではどうでしょうか。「社会主義」の国ではお金を管理するのが個人ではなくて「国」や「党」ですから、そういう人たちが儲けたお金を国民に平等に分配すべきです。しかし、その為政者たちが独裁的な権力を握ってしまっていて、自分たちの権利や生活を保障している一方で、一般の国民たちはやはり虐げられたままになっているのです。
その二つの構造が、時間の流れのなかでどのように移り変わってきたのでしょうか?
第二次世界大戦のあと、「資本主義」の国であったアメリカ合衆国、イギリス、フランスなど(西側)と「社会主義」の国であったソ連(東側)が対立して、世界を二分する「冷戦」構造が出来上がりました。いまから思うと、東西の冷戦構造は解消すべき問題であったものの、為政者にとっては国民をまとめあげるための仮想敵としてお互いを利用し、都合のよいものでもあったとも思います。それが1989年に東西対立の象徴であったドイツのベルリンの壁が解放され、さらにソビエト連邦が崩壊し、2000年頃には欧州連合(European Union、EU)が誕生しました。世界は急速にまとまってよい方向に進んで行くように見えましたが、現在ではEUからイギリスが脱退し、アメリカが自国第一主義に突き進み、ここにきてコロナ・パンデミックで国同士はおろか、国内においても人々が分断される状況になっています。
さらに、今回の本を読むにあたっては、本のタイトルにもなっている「人新世」という考え方も理解しておく必要があります。
人新世(ひとしんせい、Anthropocene)とは、人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える発端を起点として提案された地質時代のことを指す言葉、概念です。その「人新世」時代の「起点」というのは農耕社会が成立した頃なのか、それとも最近の工業化の時代なのか、意見が分かれているようですが、『人新世の「資本論」』の表紙にも書かれているように「人類が地球を破壊しつくす時代」という危機感から生れた言葉であることは間違いないようです。「人類が地球を破壊しつくす」主な原因は気候変動(地球温暖化)ということになるのでしょうが、それに限定されるものではありません。
以上のことを総合すると、斎藤幸平が論じているのはマルクスに関連する経済学、哲学に関する問題であり、またマルクスの思想がその後に影響を及ぼした社会学的問題であり、さらに現在の社会が直面している環境や自然科学の問題でもあります。
こういうふうに多岐にわたる問題、学問を横断していることからも、斎藤幸平という学者は期待されているようです。私が彼の名前を目にしたのは、マルクス・ガブリエル(Markus Gabriel, 1980 - )に関する本やテレビ番組でのことでした。マルクス・ガブリエルでさえ若いなあ、と思ったのに斎藤幸平になると私の子供たちの世代です。私たちの世代が残してしまった問題は、あらゆる課題が絡み合った複雑なものであり、(申し訳ないことですが)世代を超えていますぐにでも立ち向かっていかなくてはならないものです。
そんな気持ちで、彼の本を読んでいきましょう。
さて、それでは『100分de名著 カール・マルクス「資本論」』を見てみましょう。
まず、私たちが暮らしている「資本主義」社会というのは、いったいどのような社会なのでしょうか。そのことをわかりやすく説明している部分があります。
映画『マルクス・エンゲルス』の冒頭シーンにも印象的に描かれいますが、地面に落ちた枝さえも地主が私有財産として囲い込み、「薪木が欲しかったら金を出して買え」と迫る。そんな「商品」の論理に支配された社会を痛烈に批判したマルクスは、当局に目をつけられ、やがてパリに亡命することになりました。
この一件からもわかる通り、社会の「富」が「商品」に姿を変えるということは、簡単にいうと、値段がついて“売り物”になるということです。
かつては誰もがアクセスできるコモン(みんなの共有財産)だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象、「商品」になる。例えば飲料メーカーが、ミネラル豊富な水が湧く一帯の土地を買い占め、汲み上げた水をペットボトルに詰めて、「商品」として売ってしまう。それまで地域の人々が共同利用していた水汲み場は立ち入り禁止となり、水を飲みたければ、スーパーやコンビニで買うほかない。これが商品化です。
(『100分de名著 カール・マルクス「資本論」』斎藤幸平著)
このように、誰でもタダで手に入れることができたものが「商品」となること、それも貨幣によって交換価値がつけられる、というようなことは、人間以外にはやりません。このことの良しあしはともかくとして、ものを「商品化」することは人間特有の行為であり、きわめて特殊なことなのです。その、「もの」が「商品」となることを指して柄谷行人は「命がけの飛躍」といいましたが、この比喩と絵画との関連については、以前にここで書きました。よかったらご覧ください。
(139.『画布/画面/絵画 中西夏之にふれながら』平井亮一、『探究Ⅰ』柄谷行人から)
そして、この「商品」に私たちは振り回されることになります。
「労働」によって「商品」を生み出した私たちは、ひとたび「商品」が市場に出まわれば、その「商品」を買う買い手にもなるのです。そして「商品」は私たちの暮らしに必要であるということよりも、多くの人が欲しがるものの方が、「商品価値」が高いとされます。したがって、資本家は人々が必要とするものよりも、人々が欲しがるものを作ることになります。
この本で著者は図書館が危ない、と警告しています。私たちの大切な知的富である「図書館」が資本主義的な観点から使用価値が低い、と見なされれば失われてしまう、というのです。私は教員をしていますから、日本における教育や文化が、いかに産業界の意向に侵されているのか、ということを痛いほど知っています。図書館がすべて民営化されてしまえば、私たちの知る権利が金とひも付きになり、さらには多くの人が借りない専門書などは無用のものだとされてしまいます。
そのようにして生み出された「商品」は、資本主義社会のなかで流れが止まらなくなってしまいます。人間が必要なものだけを欲しがる社会であれば、人は必要最小限のものを「商品」として作り、それを「お金」に変え、その「お金」で必要なものを買います。それをマルクスは「W(商品)-G(お金)-W(商品)」という式で表しました。
しかし資本主義社会では、資本家の下には「お金」があり、それで材料を買い、労働者を使って「商品」を作ります。それに利潤を乗せて売るので「お金」は増えた状態になります。それをマルクスは「G-W-G‘」という式で表しました。G(お金)がG’(利潤が足されたお金)に変わるところがミソです。これを言葉でいえば、「原価値としての自分自身から剰余価値としての自己を突き出して、自己自身を増殖するのである」ということになります。マルクスの言葉より、斎藤幸平の文章の方がわかりやすいです。
お金や商品は「価値」の、いわば仮初(かりそ)めの姿です。次々と姿を変えながらも、自己を貫徹して増大していくのは、「価値」であり、価値が主体となって、その運動が「自動化」されていくとマルクスは指摘しています。
自動化された資本の運動が社会全体を覆うようになると、人間も自然も、その運動に従属して、利用される存在に格下げされてしまう。際限なく価値を増殖して資本を蓄積していく運動に呑み込まれ、人間も自然も、その歯車になっていくのです。こうして「人間と自然の物質代謝」は大きく攪乱(かくらん)されていくことになります。
(『100分de名著 カール・マルクス「資本論」』斎藤幸平著)
この文章のなかで、商品が売られていく運動が「自動化」されている、と書かれていますが、この「自動化」というのはどういう意味でしょうか。例えば資本家がお金の亡者となり、労働者をこき使って「商品」を作り続けるのであれば「自動化」という言葉はそぐわないでしょう。しかし、そうではない、とマルクスは言っているのです。
なぜそうなるのかについて、マルクスは資本家という人種が金の亡者だからというより、それが資本主義に絡めとられた人間の“宿命”だからなのだといいます。資本家が自らの強欲を省み、改心して、儲けたお金で従業員の賃金を上げればいい、という問題ではないのです。
市場では常に競争が行われています。儲けにこだわり、規模を拡大していかなければ、他社とのシェア争いに敗れて淘汰され、従業員の賃金を払うどころではなくなるかもしれない。事業を継続していくには、効率化やコストカットを進め、競争力をつけて、儲け続けなければなりません。
つまり、資本家も、自動化された価値増殖運動の歯車でしかない、ということです。資本家は、資本家であり続けようとするなら、資本の自動運転に従うしかない。労働者は、そんな資本家に従うしかないのです。
(『100分de名著 カール・マルクス「資本論」』斎藤幸平著)
このような資本主義の絶望的な運動について、すでに150年前にマルクスが明らかにしていたことに驚きます。
最近ではさすがに聞かなくなりましたが、日本の為政者は以前、よく「トリクルダウン(trickle down)」ということを言っていました。この「トリクルダウン(trickle down)」というのは、富裕層が豊かになると、その恩恵が一般の人たちにも下りてくる、という理論です。だから富裕層や大企業の課税を増やすよりも、彼らに儲けさせた方がみんな豊かになり、その分だけ税収も増える、というのです。ところが実際には、富裕層や大企業は儲けるだけ儲けて、そのお金がいっこうに私たちのところに下りてきません。それは資本主義社会がそういう構造をしているからなのだと、150年前にマルクスは明らかにしていたのです。ろくに税金も取らずに、大富豪を野放しにしてきたことが悲しくなります。為政者からするとそんなことはどうでもよくて、課税することよりも自分たちに献金してもらうことの方が大事だったのではないか、と最近のニュースを見ると勘繰りたくなります。
この本の中で斎藤幸平は、長時間労働や過労死の問題も、この資本主義の「自動化」された運動の中で考えなければならない、と言っています。ですから、この問題を解決するには、労働者の賃上げよりも長時間労働の解消を目指すべきだと提案しています。
労働力を売るのは労働者の「自発」的行為ですが、労働は「強制」的なものです。強制的である労働を短縮・制限し、労働以外の自由時間を確保していくべきだとマルクスは『資本論』のなかで繰り返し主張しています。
マルクスが労働日の短縮を重視したのは、それが「富」を取り戻すことに直結するからです。日々の豊かな暮らしという「富」を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければいけない。そのために一番手っ取り早く、かつ効果的なのが、賃上げではなく「労働日の制限」だというわけです(もちろん、労働日を短縮して給料が下がったら意味がないので、時給でみれば、賃上げを伴う時短になるわけですが)。
(『100分de名著 カール・マルクス「資本論」』斎藤幸平著)
この本に書いていることはわかるけれども、日本で働いていると本当に「時短」など可能なのか、と疑いたくなります。フィンランドでは最年少で首相に就任したサンナ・マリン(Sanna Mirella Marin、1985 - )が週三日の勤務を目標としている、とこの本に書かれています。フィンランドは教育においても先進的な国なので、もしかしたら実現できるかもしれません。
それから資本主義社会の労働の問題として、さきほども指摘した「商品価値」の高い「商品」の方が、生活に必要な「商品」よりも重視される、ということがあります。そのことによって、それにともなう労働の価値観も歪んでしまう、ということが発生しています。大手広告代理店などに勤める人の方が、福祉施設や保育園で働く人たちよりも比較にならないほど給料が高い、ということをよく聞きます。企業は「商品」を売るために「広告」に対して高いお金を支払うのでそういう仕組みになってしまうのでしょうが、このコロナ・パンデミックの状況になって、例えば医療に携わる人たちが介護の必要な近親者や小さな子供を世話してくれる人たちがいないと仕事に出られない、ということをよく聞きました。それから看護師の人たちの離職が多いのも給料が安すぎるからではないか、ということも聞きますが、こんな大切な仕事をしている人たちに対してとんでもないことだ、と思います。
そして資本主義における労働の分業化、機械化によって、人間が自分で創意工夫して働く余地が少なくなった、という問題があります。それと関連して、これからAI技術が発達して、人間の労働が楽になるのかと言えばそういうわけではなく、AIが資本家目線で開発される限り、労働者は疎外される一方だということです。著者は、ここで学校給食センターの例をあげています。学校給食は一括して大量に作れば安く済みますが、学校や地域の特色のないメニューになり、せっかくの食事が味気ないものになってしまうのだそうです。それでいまは、学校ごとに給食を作るところが増えてきて、調理をする人たちの意欲も向上し、なかなか評判が良いそうです。人間はロボットではないので、そのような人間らしい職場環境がとても大切だということがわかります。
そして、この『100分de名著』の最後の章(時間)になって、地球全体の環境問題と『資本論』との関係に話が移っていきます。これは資本主義社会を私たちがどのように変えていかなくてはならないのか、という話に繋がります。ここからは『人新世の「資本論」』と内容が重なりますので、そちらに軸足を移しましょう。
『人新世の「資本論」』は、「人新世」という厳しい時代を意識した時に、『資本論』をどのように読むのか、そして私たちは資本主義社会から脱却してどのような社会を作っていけばよいのか、という問題について考える本です。この本の前半は、いかに現在の私たちが危機的な状況にあるのか、そして、その危機に対していかに不十分な対応しかできていないのか、ということをさまざまなデータを駆使して示していきます。
そのひとつひとつを取り上げることは出来ませんので、例えば次のようなタイムリーな話題について考えてみましょう。次のNHKのニュースのページを読んでみてください。
(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201120/k10012722091000.html)
『“デジタル化推進 脱炭素社会目指す” 菅首相 APEC会合で演説』という見出しがついていますが、これは昨年の11月20日の記事で、菅総理大臣がオンライン形式の「APEC=アジア太平洋経済協力会議」のときに演説した内容になります。
日本は「2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにする脱炭素社会の実現を目指す」という内容ですが、そのために首相は「グリーン社会の実現に向けて、2050年までに温室効果ガスの排出を実質ゼロにする脱炭素社会の実現を目指す。革新的なイノベーションやエネルギー強じん性の向上を通じ、経済と環境の好循環をつくり出していく」と述べています。
例によって、菅総理大臣はそのためにどうしたらよいのか、具体的なことは何も語っていません。しかし『人新世の「資本論」』を読むと、次のような問題点が直ちに分かります。
まず、「脱炭素社会の実現を目指す」ための「革新的なイノベーション」があてにならないということです。「イノベーション」(innovation)、つまり「新しい発明」や「新しい活用法」などの技術開発によって二酸化炭素を削減する、というようなことは「緑の経済成長」派と呼ばれる人たちが唱えている方法らしいのですが、何の根拠もないそうです。それが2050年という区切りが設定されているとなると、なおさら都合よくはいかないでしょう。
それから「温室効果ガスの排出を実質ゼロ」ということですが、例えば排出ガスを減らすためにガソリン自動車から電気自動車に変換するとしても、その開発段階や製造工程で大量の排出ガスが出たのでは意味がありませんし、そもそも電気自動車の燃料である電気を発電するのに排出ガスが出るようではだめなのです。総理大臣は上げ足を取られないように、心の底ではあてにしているであろう原子力発電について一言も言いませんが、私はそれも論外だと思います。
そして、仮に日本社会において排出ガスがゼロになったとしても、そのつけを「グローバル・サウス」のような第三国に押し付けたのでは、地球全体で考えた場合には、やはり意味がありません。それは、工場を第三国に移転してそこで公害をまき散らす、というわかりやすい話以外にも、例えば開発に必要な貴金属や特殊な物質を海外から取り寄せるために現地の環境を破壊してしまう、というのもまずいのです。ちなみに、「グローバル・サウス」というのは、主に南半球に偏在している発展途上国のことです。
これらの細かい問題点はすぐにわかりますが、おそらく一番肝心な点は「経済と環境の好循環をつくり出していく」というくだりです。これだけを読むと、とくにまずい点はないように思いますが、この「好循環」という言葉のなかには、経済成長と環境改善の両立をはかっていく、もしくは経済を維持しながら環境も守っていく、という意味が含まれているのでしょう。そこには資本主義社会を前提にした発想があるのですが、斎藤幸平はそれではだめなのだ、と言っているのです。
ここでも身近な例として、コロナ・パンデミックの自粛状態を考えてみましょう。いまの自粛は人の動きが緩い、と言われていますが、前回の自粛の時には本当に経済が止まりました。そのときには排気ガスが減ったとか、大気がきれいになった、という話がありましたが、そのときのつらい状況を考えると、自粛をして環境を改善するのはつらいと誰もが感じていると思います。現在の自粛状態は緩すぎて感染状況が止まらない、という意見がありますし、私も同意しますが、現在の人の動きのなかには前回の自粛で経済が止まってしまった時のことが人々の頭から離れない、ということがあると思います。政府の無策を嘆く声もありますし、それも妥当な意見だと思いますが、経済が縮小することによる逼迫を誰も望んでいない、ということが根底にあるのも確かです。
このように考えると、地球の環境を改善していくのは、本当にたいへんなことです。経済を止めてまで地球環境をよくしていこう、というふうには、なかなか考えることが出来ないのです。そこで斎藤幸平は、資本主義社会そのものを見直そう、と提言しています。資本主義社会の仕組みを継続したままでは、どんなに「経済と環境の好循環をつくり出していく」と言ったところで、環境の改善は置き去りにされてしまいます。だからといって、いまのまま無理やりに環境改善を進めようとすると、コロナ・パンデミックによる自粛状態と同じような社会的な矛盾が生じてしまいます。それでは、どうしたらよいのでしょうか。
著者は、次のように呼びかけています。
そもそも歴史を振り返ってみれば、成熟した資本主義が低成長やゼロ成長をすんなりと受け入れ、定常型経済に「自然と」移行していくと、本気で信じることなどできないだろう。むしろ、低成長の時代に待っているのは、帝国的生活様式にしがみつくための生態学的帝国主義や気候ファシズムの激化のはずだ。
それは気候危機から生じる混乱に乗じた惨事便乗型資本主義とともにやってくる。だが、そのまま突き進めば、地球環境はますます悪化し、ついには人間には制御できなくなり、社会は野蛮状態へ退行する。低成長時代に「ハード・ランディング」である。もちろん、これこを、最も避けたい事態にほかならない。「人新世」の時代のハード・ランディングを避けるためには、資本主義を明確に批判し、脱成長社会への自発的意向を明示的に要求する、理論と実践が求められている。中途半端な解決策で、対策を先延ばしにする猶予はもうないのだ。それゆえ、新世代の脱成長論は、もっとラディカルな資本主義批判を摂取する必要がある。そう、「コミュニズム」だ。
こうして、ついにカール・マルクスと脱成長を統合する必然性が浮かび上がってきた。
ここでマルクスを持ち出すだけでなく、それを脱成長と統合しようとすることに、強い違和感をもつ読者も多いに違いない。マルクス主義は、階級闘争ばかり扱って、環境問題を扱えないのではないか。実際、ソ連も経済成長にこだわって環境破壊を引き起こしたし、マルクス主義と脱成長は、水と油の関係にあるのではないかと。
だが、次章で明らかにするように、それは違うのだ。
さあ、眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼なら、きっと「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ。
(『人新世の「資本論」』斎藤幸平著)
少し解説をしておきましょう。
「定常型経済」というのは、今以上の発展や成長を目指さない経済のことです。本当に必要なものだけを作り、必要な分だけを消費する、という経済活動のことで、広く農業に目をやれば、その土地が育てられる作物だけを作り、化学的な肥料に頼らずに土壌を育てながら農業を行う、という経済、あるいは社会のことです。
「帝国的生活様式」、「生態学的帝国主義」というのは、経済的に豊かな国が、自国の利益を守るために周辺国へとそのひずみを押し付けるような生活様式、考え方のことです。自国の森林を守りつつ、第三国から大量に伐採した木材を購入したり、汚染物質をまき散らす工場を他国に移転したり、というようなことが「帝国的」な振る舞いということになります。
「気候ファシズム」というのは、気候変動による被害よりも自分たちの経済成長にしがみつくような考え方のことです。そして「惨事便乗型資本主義」というのは、そういう気候被害を作り出しておきながら、それを商売に変えてしまうような考え方です。例えば「定常型経済」で暮らしていた人たちの土地から農作物を搾取し、化学肥料を買わないと農業が成り立っていかないように仕向けてしまうとか、あるいは温暖化でそれまでの生活が維持できないようにしておきながら、その人たちを自国のための労働力として安く雇う、などというところでしょうか。
「社会は野蛮状態へ退行する」というのは、それらの先進国による帝国主義的な振る舞いに耐えられなくなり、搾取されていた人たちが反乱を起こすような状態です。それを抑えるために強権的な政府が出現し、その圧政のためにまた反乱がおこり、という繰り返しになります。すでにそういう国がたくさんあるように思いますが、日本にいると遠い出来事なので、私たちは罪悪感もなく平気で暮らしています。
その先に来るであろう「ハード・ランディング」の時代、これは環境のために無理やり自粛しなければならない状態、あるいはそういう時代のことです。コロナ・パンデミックの自粛状態のような時間が延々と続く社会、ということですが、これはぜひとも避けたいものです。
何だか八方ふさがりで、書いていてつらくなります。それでは「資本主義」ではなくて「社会主義」に乗り換えてはどうか、などと言ったら冗談だと思いますよね。1986年のソビエト連邦・チェルノブイリ原子力発電所の事故にさかのぼるまでもなく、中国・北京の大気汚染のことを思えば「社会主義」が環境に良いなどということはとても信じられません。
そこで著者はマルクスを呼び起こそう、というのです。これには当然、違和感がありますが、ちゃんと理由があります。
若い頃のマルクスは「ヨーロッパ中心主義」の「進歩史観」をもった思想家でした。そのことが後の学者たちに批判されてもいます。しかし、晩年のマルクスはその考え方を改めていたというのです。その晩年のマルクスの思想は、『資本論』からもれたたくさんのメモ書きから知ることができ、それを収めた新しい『MEGA(マルクス・エンゲルス全集)』というプロジェクトが進行しているのだそうです。
そこで著者が提示するのが、「コモン」という概念です。
近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、「コモン」あるいは「共」と呼ばれる考えだ。「コモン」とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。20世紀最後の年にアントニオ・ネグリとマイケル・ハートというふたりのマルクス主義者が、共著『帝国』のなかで提起して、一躍有名になった概念である。
「コモン」は、アメリカ型自由主義とソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」を切り拓く鍵だといっていい。つまり、市場原理主義のように、あらゆるものを商品化するのでもなく、かといって、ソ連型社会主義のように、あらゆるものを商品化するのでもない。第三の道としての「コモン」は、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主主義的に管理することを目指す。
より一般的に馴染みがある概念としては、ひとまず、宇沢弘文の「社会的共通資本」を思い浮かべてもらってもいい。つまり、人々が「豊かな社会」で暮らし、繫栄するためには、一定の条件が満たされなくてはならない。そうした条件が、水や土壌のような自然環境、電力や交通機関といった社会インフラ、教育や医療といった社会制度である。これらを、社会全体にとって共通の財産として、国家のルールや市場的基準に任せずに、社会的に管理・運営していこうと宇沢は考えたのである。「コモン」の発想と同じだ。
ただし、「社会的共通資本」と比較すると、「コモン」は専門家任せではなく、市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する。そして最終的には、この「コモン」の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克を目指すという決定的な違いがある。
(『人新世の「資本論」』斎藤幸平著)
恥ずかしながら、私はアントニオ・ネグリ(Antonio “Toni” Negri、1933 - )とマイケル・ハート(Michael Hardt、1960 - )の『帝国』も、宇沢弘文(1928 - 2014)の著作も読んでいません。宇沢弘文については、すごい学者が日本にいる、という話を生前から聞いていましたが、なにせ経済学の人なので読む機会がありませんでした。それから『帝国』はたいへんな話題になった本ですが、その当時はたぶん、難しすぎると思ったのでしょう、未読です。いま気がついたのですが、マイケル・ハートは私と同じ年齢なのですね、まいりました。『帝国』を書いたのは、まだ30歳代だったことになります、今度は読んでみることにしましょう。
さて、気になるのは最終的な結論です。斎藤幸平は資本主義社会から脱却するために、どうしたらよいというのでしょうか。彼の考える具体的な項目を抜き書きしてみましょう。
▼脱成長コミュニズムの柱①―使用価値経済への転換
「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する
▼脱成長コミュニズムの柱②―労働時間の短縮
労働時間を削減して、生活の質を向上させる
▼脱成長コミュニズムの柱③―画一的な分業の廃止
画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる
▼脱成長コミュニズムの柱④―生産過程の民主化
生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる
▼脱成長コミュニズムの柱⑤―エッセンシャル・ワークの重視
使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視を
一つ一つの項目にそれぞれ解説があるのですが、こうして見ると『100分de名著』で提起された問題とリンクしているので、だいたい内容が分かると思います。そして、これらについて個人として問題意識を持つことは十分に可能です。しかし問題なのは、これらの課題をどのようにして国や自治体のなかで具体化していくか、ということです。この『人新世の「資本論」』の最後には、いくつかの具体的な国や都市の名前があげられていますが、その中でもスペインのバルセロナの事例がとくに取り上げられています。
先に指摘したように、バルセロナの気候非常事態宣言は、先進国が排出する二酸化炭素による気候変動のせいで、途上国の、社会的に立場の弱い人々が大きな被害を受けることの不公正さをはっきりと認めている。そのうえで、先進国の大都市の責任を明示し、自国民だけでなく、真の意味で、「誰も取り残されない」という気象正義の目標を掲げている。
マルクスが非西欧・前資本主義社会から「脱成長」の理念を取り入れたように、バルセロナはグローバル・サウスから気候正義を取り入れたのだ。それが、あの革新的な気候非常事態へとつながったのである。いわば、バルセロナは気候正義を革命の「梃子(てこ)」にしようとしている。
<中略>
もちろん、バルセロナも、太陽光発電や電気バスの導入など、大胆なインフラ改革を掲げている。反緊縮政策による財政出動も必要となる。だが、気候正義という観点を踏まえれば、この大改革は、グローバル・サウスの人々や自然環境を犠牲にするものであってはならない。そして、犠牲を生まないためには、資本主義の経済成長に終止符を打つ必要がある。
だからこそ、「緑の経済成長」を掲げる代わりに、バルセロナの宣言は「恒常的な成長と利潤獲得のための終わりなき競争」をはっきりと批判したのである。
要するに、フリードマンらの「グリーン・ニューディール」とバルセロナの「気候非常事態宣言」の違いは、究極的には、「経済成長型」と「脱成長型」の違いである。グローバル・サウスから学ぶ姿勢を取り入れることによってこそ、持続可能な将来社会のビジョンはまったく違ったものになるのだ。
このバルセロナのやり方こそ、晩期マルクスと同じ歩みではないか。グローバル・サウスから学びながら、新しい国際連帯の可能性を切り拓く。そうすることで、経済成長という生産力至上主義を捨て、「使用価値」を重視する社会のビジョンが生まれてくるのである。
(『人新世の「資本論」』斎藤幸平著)
自国がクリーンであるために他国(グローバル・サウス)に負担をかけてはならない、むしろ地球全体で連帯する意識を持たなければならない、というのがバルセロナの考え方のようです。
また、文中のトーマス・フリードマン(Thomas Loren Friedman、1953 - )らの「グリーン・ニューディール(GND)」政策ですが、これは温暖化防止と経済格差の是正を両立させる経済政策でした。したがってはじめのうちは「持続可能な経済への転換を訴えかけていた」のですが、「最終的には、経済成長を優先することで、周辺部からの収奪を強化することになってしまっている」ということです。「経済発展」ということからはっきりと意識を転換しなければ「気候正義」は貫けない、というのが著者の明確な見解なのです。
私は言うまでもなく、経済政策についてまったくの素人ですが、これまでの経済発展と温暖化防止の両立というようなあいまいなやり方では、もうどうしようもないところまで世界は来ている、ということがよくわかりました。
それから、この本の序文のタイトルが「はじめに―SDGsは「大衆のアヘン」である!」というものなのですが、なかなか刺激的です。「レジ袋削減」、「エコバッグ」、「マイボトル」、「ハイブリッド・カー」などに象徴されるような意識では、気候の温暖化は止められない、それどころか、むしろそれで善意を表しているつもりならアヘンのように有害でさえある、というのが文章の趣旨です。著者が訴えたいのは「SDGs(持続可能な開発目標)」ではなくて、「開発」を目指さない社会にしていかなくてはならない、ということなのです。
それはとてもよくわかりますが、経済成長を目指さない決意をした人ならば、おそらく「レジ袋」を使うことはないでしょう。ですから、「SDGs」を有害だ、と言ってしまうのはどうなのかな、という気がします。著者は私たちに、その世界観を変換しなさい、と言っているわけですが、結局のところ一発逆転の方法があるわけではなく、著者のあげている五つの方法を地道にやっていくしかないわけですから、むしろ「SDGs」派の人たちも取り込んで地道に実践していく必要があるのだと思いますが・・・。
それから、このような意識の転換後の世界があるとしたら、文化や芸術はもう少し大切に扱われるのだろう、と思います。とにかく、いまの日本はそういう面では最低の国です。総理大臣の答弁の語彙の乏しさを聞いていると、絶望的な気持ちになるのは私だけでしょうか。
ところで、カール・マルクスという思想家は、やはり面白そうですね。こういうふうに一生懸命に生きた結果、その思想が時代を越えて意味を持っていく、ということは素晴らしいことですし、魅力的なことです。私のように難解な本を敬遠してばかりでは、そういう素晴らしい人との出会いを見過ごしてしまいます。それにゴリゴリの唯物史観の人、というイメージも少し変わりました。反省して、マルクスについて、もう少し勉強してみます。
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