はじめにお知らせです。3月15日から20日までギャラリー檜で個展を予定しています。
冒頭のblog「はじめに」やギャラリー檜のHP、または石村HPなどご参照ください。なかなか新型コロナウイルスの感染がおさまらず、自粛要請もいつ解除されるのかわかりませんが、とにかく準備だけは進めています。
さて、今月(1月)の中旬に、アメリカの音楽プロデューサー、フィル・スペクター(Harvey Phillip Spector、1939 - 2021)が亡くなりました。スペクターは晩年、殺人犯として刑務所に入っていましたが、新型コロナウイルス感染に伴う合併症により刑務所から移送された病院で息を引き取ったそうです。奇行を伴うエピソードが多く、麻薬や殺人事件といったダークな面も濃厚な人でしたが、音楽プロデューサーとして、とても大きな仕事をしました。
ここから先は、音楽好きの人からするとベタな話なので、飛ばして読んでください。
音楽について私が何かを書く資格があるとも思いませんが、もしもスペクター・サウンドを知らない若い方がらっしゃったら、ぜひこの記事を読んで、参照として掲げたYouTubeやラジオ番組の聞き逃し放送を聴いてみてください。現在のポピュラー音楽はスペクターの存在なしには語ることができませんし、ビートルズ、ビーチボーイズ、ローリングストーンズなどの著名なグループも直接、彼と関連があったり、影響を受けたりしているのです。
そのフィル・スペクターですが、彼の最初の成功は、テディベアーズという高校時代の友達と組んだグループの『To know him is to love him』という曲でした。スペクターは自ら作曲した曲で、全米ナンバー1ヒットとなったのです。この曲はポップソングなのに、どこか讃美歌のような清らかさを感じさせる不思議な曲ですが、日本語のタイトルは何と「逢った途端にひとめぼれ」です。原題にはもう少し普遍的な意味がありそうですが・・・。
その後、スペクターは音楽業界の裏方に回って、プロデューサーとして働き始めます。そして1960年代の前半に女性グループ、クリスタルズ の『He's a Rebel』や、ザ・ロネッツの『Be My Baby』などを大ヒットさせます。
『He's a Rebel』はクリスタルズ名義になっていますが、歌っていたのは歌唱力のあるダーレン・ラヴだった、という逸話があります。ダーレン・ラヴはクリスタルズのメンバーではありませんでしたが、バック・コーラスの歌手をしていたところ、スペクターに実力を見出され、なぜかこのときにメンバーではないのにリード・シンガーとして起用され、そのままクリスタルズのレコードとしてヒットしてしまったのだそうです。
それから『Be My Baby』は印象的なパーカッションの音で始まります。このようなパーカッションの絶妙な使い方は、スペクター・サウンドの特徴のひとつです。さらにコーラスとストリングスを合わせたぶ厚いサウンドが心地よくかぶさってきますが、このようなアレンジはのちに「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれ、スペクター・サウンドの代名詞となります。当時の録音技術では、このような多重録音をするのが大変だったそうですが、スペクターは壁のように立ち上がるサウンドにこだわったのです。まだモノラル録音が主流だったころでしたから、重なり合った音がひとつの大きなかたまりとなって聴く者の耳をとらえたのです。そしてステレオ録音が主流になってからも、スペクターはモノラル録音にこだわりました。それはモノラルの音源の方が、自分のコントロールした音のバランスで聴いてもらえるからだそうです。これは私の素人考えですが、スペクターのアレンジはモノラル録音の時代の、少し不明瞭な音像とぴったりはまったのではないか、と思います。
そして、この時期に録音した『クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィル・スペクター』はクリスマス・アルバムの傑作として有名ですが、スペクターの作ったアルバムとしても一番いい、という評価もあります。スペクターの抱えていたミュージシャンが勢ぞろいした豪華な内容で、ダーレン・ラヴが大活躍しています。
その「ウォール・オブ・サウンド」がソウルフルなボーカルとともにさらに迫力を増したのが、ライチャス・ブラザースの『You've Lost That Loving Feeling(ふられた気持ち)』や、アイク&ティナ・ターナーの『River Deep Mountain High』です。余談ですが、ティナ・ターナーはその後、夫であるアイクの暴力被害にあい、大変な思いをしながら離婚して、みごとにソロ歌手として大成しました。今で言うところのDV被害ですが、1970年代半ばにそのような概念があったのかどうか・・・、そんな中でトラブルと闘って打ち勝ち、なおかつ歌手として活躍したティナ・ターナーは立派です。
そして、スペクター・サウンドの影響を受けた最も有名な音楽家と言えば、ビーチボーイズのリーダーのブライアン・ウィルソンです。ブライアンは、自分の最も好きな曲は『Be My Baby』だ、と公言していますし、ビーチボーイズのコーラスを重ねたサウンドと、多様なパーカッションの使い方には、スペクターの影響が窺われます。
それから、ビートルズはアルバム『Let It Be 』(1970)でスペクターにアルバムの仕上げを依頼しています。その中の『The Long And Winding Road』は、スペクターがストリングスやコーラスの音を重ねて、すっかりスペクター・サウンドに仕立て上げてしまいました。シングルとしてナンバー1にもなった曲ですが、スペクターのオーバー・プロデュースだと感じて、歌っていた当のポール・マッカートニーの気に入らなかった、という話が残っています。一方、ジョン・レノンとジョージ・ハリソンはスペクターの手腕を評価して、ともにソロ作の超名盤をスペクターと一緒に作っています。この1970年代の初めのジョンとジョージと成し遂げた仕事は、スペクターの最後の輝きではなかったかと思います。
その後のスペクターは酒と麻薬に溺れ、ジョン・レノンの『Rock 'n' Roll』(1975)の制作時にはスペクターがマスター・テープを持ち逃げしてしまったために、なかなか完成しなかった、というのは有名な話です。その後も散発的に仕事をしますが、1980年代には第一線から退き、2003年に自宅で女優を殺害した容疑者となってしまいます。そして数年後に有罪となり、刑務所に収監され、麻薬中毒の治療も受けていたのだそうです。大きな仕事をした人ですが、その人生はめちゃくちゃだったとも言えますねね。
さて、それからこれはどこにも書いていない話ですが、私は1970年代に人気絶頂だったカーペンターズの『Only Yesterday』を聴くと、イントロのパーカッションの使い方やコーラスのかぶせ方などにスペクター・サウンドの影響をすごく感じるのですが、いかがでしょうか。ちなみにこの曲はリチャード・カーペンターのオリジナル曲(共作)ですが、アメリカのポピュラー音楽においてスペクターの影響の深さと拡がりを感じさせる曲だと私は思っています。
『To know him is to love him』The Teddy Bears
(https://www.youtube.com/watch?v=tIUf6dOGc1c)
『He's a Rebel』The Crystals
(https://www.youtube.com/watch?v=G_SXJ18EkNw)
『Be My Baby』 The Ronettes
(https://www.youtube.com/watch?v=jGS0GAWMXE4)
『You've Lost That Loving Feeling』 Righteous Brothers
(https://www.youtube.com/watch?v=uOnYY9Mw2Fg)
『River Deep Mountain High』Ike & Tina Turner
(https://www.youtube.com/watch?v=uj0wPrN_Y_4)
『Don't Worry Baby』The Beach Boys
(https://www.youtube.com/watch?v=X9E1by7PocE)
『The Long And Winding Road』The Beatles
(https://www.youtube.com/watch?v=fR4HjTH_fTM)
『My Sweet Lord』George Harrison
(https://www.youtube.com/watch?v=e1hfUgxu7Rc)
『LOVE』John Lennon
(https://www.youtube.com/watch?v=TePiAVoqS90)
『Only Yesterday』Carpenters
(https://www.youtube.com/watch?v=evETS8_WFGE)
それから私が毎週、聴いているピーター・バラカン(Peter Barakan, 1951 - )の『ウィークエンド・サンシャイン』というNHK・FMの音楽番組がありますが、1月30日(土)は「フィル・スペクター特集」でした。ピーターさんがどんな選曲をしたのか、興味のある方は番組のホームページを検索してみてください。スペクター関連の代表的な曲を網羅していて、いつも通りの音楽への敬意と愛のある話をはさんだ、すてきな放送でした。
(https://www4.nhk.or.jp/sunshine/)
この番組の聞き逃し配信もあります。2月6日(土)9:00までだそうです。フィル・スペクターを知らない方は必聴です。これを聴けばスペクター・サウンドの概要と、人となりがわかります。音楽好きでなくても、何かを表現することに興味がある人は、ぜひ聴いてみてください。
(https://www.nhk.or.jp/radio/ondemand/detail.html?p=0029_01)
さて、素人の音楽談義はこれくらいにして、本題に入ります。
今回は、前々回でも取り上げた松宮秀治(1941 - )という研究者の著作『芸術崇拝の思想』です。
この著者の『文明と文化の思想』(blog 146)と同様に、これまでの私たちの芸術観を問い直す本です。その要点が端的に書かれているのが「あとがき」の次の一節なので、順番が逆になりますが、まずは「あとがき」から見ていきましょう。
この本は「芸術」否定の書である。しかし、個々に存在している作品を否定する書ではない。むしろ、あまりにも高みに押し上げられ、崇拝され、礼拝される西欧近代の芸術思想が、いうなれば人類史のなかでみればほんの短期的な現象にすぎない「芸術崇拝の制度」が、芸術を思いあがらせ、逸脱させ、暴走化の方向へと導いてきたことを自覚し、作品をもっと等身大のものとして見る方向で、個々の作品のあるべき価値をもう一度確認する手がかりを見出そうとする書である。
芸術でも人間でもあまりに偉くなり、立派になりすぎると、それをさらに神話化しようとする動きがでてきて、それをより確実なものにする「礼拝システム」「検証システム」をつくりあげていこうとする。すると皮肉にも、それは確実に衰退の方向に向かい、その衰退が場合によっては崩壊に至ることにもなる。
現在の西欧における「芸術」の傲慢で不遜なまでの思いあがりと、分不相応な栄光と光輝は、その光を遮断し、もっと広い視野のなかで、もっと適正な光量調節のもとで、そしてもっと公正な見方のもとで再検討され、再評価されるべきである。本書は西欧中心に組み立てられてきている「芸術」の概念を一度でもよいから白紙に戻し、非西欧圏の芸術も西欧の「周縁」芸術としてではなく、それぞれが「中心」を構成しうる芸術作品の新しい評価体系を再構築すること、そしてそのような思考を育てあげていくべき時期にきていることを提唱する書である。
(『芸術崇拝の思想』「あとがき」松宮秀治著)
『文明と文化の思想』と同様に、おおむね著者の趣旨には同意しますが、私自身があまりにも「栄光と光輝」からほど遠い場所にいるので、「芸術」が「傲慢で不遜なまでの思いあがり」のなかにある、という点について、にわかに実感できません。ただし、西欧の有名な美術品が来日すると列をなして観衆が集まることや、たかが美術品に気の遠くなるような値段が付けられて取り引きされている現状などを見ると、この著者の言っていることも、ある程度わかります。しかし私からすると、それは「芸術」そのものの思い上がりというよりは、芸術的な価値観が一部の著名な作品や作家に偏在していることの弊害であって、「芸術」全体のことを考えると、もっと社会的に敬意をはらわれてもよいのではないか、と思います。もしかすると、ある一定のインテリジェンスのある集団の中にいると、芸術が傲慢だと感じることが多いのかもしれませんが、少なくとも私の暮らしている社会においては、「もっと芸術を見ろ!(読め! 聞け! 味わえ!)」と言いたくなることの方が、圧倒的に多いです。
それから、この本が書かれたのが2008年ですが、すでにその当時においてさえ、この著者が言うように「芸術作品の新しい評価体系を再構築」するべき時期に来ていたのではないか、と私は思います。したがってさらに期待されるのは「再構築」の内容なのですが、残念ながらこの本にはそこまでのことは書いてありません。著者は今年で80歳になられるようですが、そこまで踏み込んだ本を期待するのは難しいでしょうか。こういう広い知識と深い見識を持った方は、研究者のなかでもそうそういないと思うので、こういう方にしか出来ない仕事をもっと進めていただければ、と思ってしまいます。お元気でしたら、次の機会にぜひ書いていただきたいです。
結論を先に書いてしまって申し訳なかったのですが、この詳細な論述の本の要旨をあらかじめ頭に入れておくことが、その内容の理解するためには肝要であると考えました。先ほどから書いているように、この本と同様の趣旨の『文明と文化の思想』をすでに前々回に読んでいるので、なるべく簡潔にこの本の内容に分け入り、提起されている問題をあぶりだしたいと思います。
さて、それではこの本の具体的な内容を見ていきますが、この本の副題が「政教分離とヨーロッパの新しい神」というものであることに注目しましょう。そして本の表紙には、「芸術はいかにして<神>となったのか」と書かれています。つまり西欧においては、「芸術」がいつしか「神」に代わる存在となったのだということなのですが、それはいつのことなのか、どうしてそうなったのか、ということが当然のことながら気になります。いったいいつ「芸術」は西欧思想において「神」に代わる存在となったのか、そしてそれはどのような理由でそうなったのか、この本の中でそれが書かれている部分を見ていきましょう。
それは『文明と文化の思想』でも重要な時代として取り上げられた、「啓蒙主義」の時代がその時期にあたり、そのカギとなる人物が、またしても哲学者のカント(Immanuel Kant、1724 - 1804)であることがわかります。次の抜き書きを読んでみてください。
カント哲学が偉大であり、また偉大といわれたのは「自由」と「道徳」の規準を個々人間の「人格」のなかに求めうる論理体系を創り出したことである。「自由」がはじめて道徳的観点から明らかにされ、「道徳」が人間の先験的理性と経験的な悟性のなかで、人間の人格性と人間性(パーソナリティとヒューマニティ)のなかで成立可能な基盤を求められる論理を構築しえたということである。これがどれほど革命的なことであったかは、このカントの論理によって人類ははじめて「神」を必要としなくてもよい思想を持ちえたのだということを考えればおのずと明らかになるであろう。
人間はもはや「宗教」を必要としない社会をつくることが可能となったのである。政治も社会も個人も倫理的基盤を神という超越者や王や皇帝という絶対者を媒介としないで創り出すことができるのである。
カントやヴィンケルマン、レッシングやヘルダーやゲーテが、「美」と「自由」のなかに芸術のあるべき姿を求めたのはまさしく右(上)のような理由による。ヨーロッパの伝統的な芸術観においては、「美」は神によってすでに創り出されていたものであるがゆえに、人間の芸術制作活動は単なる神の被造物をなぞるだけのことであるというキリスト教の考え方が不動の位置を占めていたのであった。またギリシア哲学が主張するように、「イデア」の模倣である自然、さらには自然の再模倣である芸術活動は「創造」という概念の範疇に組み入れることができるはずもなく、さらには人間の「自由」なる活動という思想にとり込むこともできなかった。
カントによって真と善が、人間の「理性」と「悟性」のなかにその成立基盤が見出されたように、「美」も人間の「感性」のなかにその基盤が求められうるようになった。「感性」が最も自己の領域を拡大できるのは、「芸術」活動のなかにおいてであり、芸術が最も純粋な美を創り出しうるのは、「自由な遊び」のなかにおいてである。「感性」を自由な遊びのなかに解き放しうる芸術家は「天才」と呼ばれうる。天才とは神の能力を人間のなかにもち込み、神に代わる「新しい価値」を「創造」しうる者をいうことになる。このようにして西欧の近代は「芸術」活動のなかに「創造」を発見したのである。
(『芸術崇拝の思想』「第三章 芸術神学の誕生」松宮秀治著)
名前の出てくる人物について、すこし説明をつけましょう。
ヴィンケルマン(Johann Joachim Winckelmann, 1717 - 1768)は、18世紀ドイツの美術史家です。この著書でもヴィンケルマンの考え方が取り上げられていますが、『ギリシア芸術模倣論』(1755年)や『古代美術史』(1764年)を著すなど、古代ギリシア美術を称揚した人です。この後にも出てきます。
レッシング(Gotthold Ephraim Lessing, 1729 - 1781)は、ドイツの詩人、劇作家、思想家、批評家です。ヴィンケルマンとの間でギリシア彫刻のラオコーンをめぐって論争をしたことなども有名です。
ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744 - 1803)は、ドイツの哲学者・文学者、詩人、神学者です。
ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749 - 1832)は、ドイツの偉大な詩人、劇作家、小説家ですが、自然科学者でもあり、政治家でもありました。美術の世界では独自の「色彩論」が有名です。
そしてこの部分の内容を押さえておきましょう。かつて人間は「神」という絶対者を崇拝し、神をまつるための神殿や偶像を作りました。しかし人間はいつしか「神」の庇護から解き放たれて、「自由」に活動する存在となりました。この流れのなかで、カントの果たした役割は重要です。そして、人間は生きていく上での価値観を自らの「理性」と「悟性」によって判断するようになりました。そのような人間の「感性」がもっとも「自由」に活動できる領域が「芸術」活動であり、その「芸術」活動の領域において新たな創造ができる人間のことを「天才」と呼ぶようになりました。ですから、「天才」はいわば「神」に代わる存在なのです。このことから、著者は「芸術」を傲慢だと言うのでしょうが、それはあとに引用する部分で見ていくことにします。
このように、人間が「神」という絶対者から解き放たれて「自由」を獲得すること、そして美しい作品を「神」の模倣としてではなく、自らの価値観で創造しえるようになった、というのは、私たちにとっては当たり前のことですが、実はそうではなかったのです。そしてそのこと自体はすばらしいことだと思うのですが、ことはそう簡単に運ばないのです。この本の著者は、それをいささか否定的に評価しています。
啓蒙主義は芸術を宗教と政治への隷属から解放した。そればかりではなく、「技術」と「科学(学問)」からも分離、解放した。芸術はもはや「職能」にも「知識」にも隷従しない。いいかえれば、みずからの伝統的な制約からも解放された。芸術家はもはや職人的な徒弟制度にもギルド的制度にも縛り付けられない自由を獲得し、さらにはイタリア・ルネサンス期のブルネレスキ、アルベルティ、レオナルド、ミケランジェロといった万能の知識人のように多面的な学識をめざさなければならないという重圧からも解放された。このことは今日まで芸術家のあり方を決定してしまうほどの大きな芸術観の変化をもたらした思想であり、それが芸術を衰退させる原因となった思想とはいえ、近代芸術観の成立に決定的な方向づけを与えたものであった。
啓蒙主義とは解放と自由の思想である。解放され、自由を手に入れた芸術は、みずからを神の領域にまで高める力を獲得し、人間の活動領域に新しい価値を提供しうる能力をもちうるという信仰体系を創りあげていくことに成功する。この解放と自由とは芸術の解放と自由だけではなく、原理的には同時進行的な、現実的には順次的な「科学」と「技術」の解放と自由であり、究極的には人間の解放と自由をめざすものである。つまり最終的に人間が神となるための思想であり、そのための解放と自由の要求なのである。これは人間の思いあがりの思想である。啓蒙の使命は人間を神話と呪術から解放することであったが、解放された人間はみずからの自由と責任に圧倒され、その責任の軽減と自由への障壁を自分から創り出そうとする。
(『芸術崇拝の思想』「第四章 「民族」「歴史」と一体化」松宮秀治著)
「解放と自由」を目指す考え方が、著者の言うような「人間の思い上がり」であるのかどうか、私にはよくわかりませんが、近代という時代がそれまでの時代とは異なる困難と苦悩を抱えてしまったことは間違いないでしょう。私の個人的な考え方を言えば、それは人間という存在にとって不可避なことであったのだと思います。それを「思い上がり」という否定的な言葉で表現しても仕方がないのですが、おそらく著者にとっては、現状肯定的な、無反省な人たちに向けて言っている面もあるでしょう。
このあたりは、前回取り上げた斎藤幸平(1987 - )の『人新世の「資本論」』の考え方にもつながっているように思います。この本が書かれた2008年からすでに10年以上経っていますが、人間中心主義、人類の進歩史観はますます悪い方向に進んでいます。様々な分野から、私たちは生きていくうえでの態度の変更を迫られているのです。「芸術」はさらにその先を考えて行きたいものです。
さて、このようにこの『芸術崇拝の思想』は、「芸術」が「神」に代わって崇拝される、という言わば過剰な価値を担わされてしまっていること、そしてそれが私たちのなかで常態化されていることの危機を告発した本です。その趣旨を知ることも重要ですが、それと同時に、人文系の研究として緻密な事実を積み上げていく過程が魅力的な本でもあります。そのなかで目から鱗が落ちるような発見が数多くあるのですが、ここでは二つだけ、私が注目した部分をあげておきたいと思います。
まず、そのひとつめは「美学」という学問の成立と現状、ならびに日本における「美学」の受容の事情について書かれた部分です。この著者らしい、歯に衣着せぬ物言いが痛快な部分なので、少し長くなりますが書き写しておきましょう。
「芸術」がその大いなる価値を発見されることは、それはかならずしも芸術そのものの本来的な価値とはいいがたく、西欧の近代思想が虚構としてつくりあげてきた壮大な「虚像」という部分があることも認めておかなければならないのである。それはまた後ほど考えていくべきものとしてここでは留保しておきたいのだが、この壮大な虚構(フィクション)としての「芸術」の観念とこの観念信奉の出発点にあるのは、「美学」の成立と「美術史研究」の成立という二つの契機である。
この二つの契機とは、教科書的な解説になるが1750年のバウムガルテンの『美学』と1755年のヴィンケルマンの『ギリシア美術模倣論』の出版である。この二つの契機がはっきりとした実体をそなえてくるのは1764年のヴィンケルマンの『古代美術史』と1790年のカントの「美的判断力の批判」という論文が発表されたときである(これを完成させたのが『判断力批判』である)。
美学と美術史学の出現が西欧における「芸術」価値の底上げの役割を果たしただけでなく、「芸術」の神聖価値の布教と芸術崇拝の思想を生み出すさまざまの観念装置の基礎を創りだしたのであるが、そもそも美学と美術史とはなんなのだろうか。美術史についてはごく表層的に考えても、それがどのような学であるかは理解されうる。またその学の存在と輪郭を知ることはそれほど難しいことではない。ところが「美学」とは何か、それはどんな学問なのかは専門家さえ答えられないであろう。なぜなら、「美学」の専門家が今日存在すること自体がとてつもないアナクロニズムで、それは完全に歴史的な役割を果たし終えており、没落し、無用で無意義な学問になりさがってしまっているからである。たとえば今日、美学者といわれている人たちの仕事を見ると、シェリングの美学とかヘーゲルの美学とか、一部は哲学史によりかかり、一部は歴史学に依存しているだけで、「美学」としての新しい課題の提出は何ひとつおこなっていない。また日本でも美学・美術史学会という学会が存在はしているが、それは芸術史学に居候するか、森鴎外のハルトマン美学の歴史的意義とか中江兆民の『維氏美学』における西欧美学移入の問題点とか、大塚保治博士の美学理論の研究など、本質的に居候学問であって、なんら独立的な学的領域も方法論ももたないものである。―そしてそれは文学史学研究であれ、「美学史学」的な研究であれ、所詮歴史研究の一部をなすものであって、独立した美学の存在証明とはならないものである。たしかに深田康算(やすかず)だけは西欧美学の思想の紹介者として、今日なお読むに値するすぐれた仕事を残しているが、明治以降の西欧美学の受容とは、フェノロサひとりにうまい汁を吸わせただけに終わってしまい、その後は芸術の理解にも芸術の実践的推進にもなんの役割も果たすことなく終わってしまった。わずか百ページに満たない英文のヘーゲル哲学要約書だけで「美学」論を講じたわずか20歳をすこし出ただけのフェノロサの浅学ぶりは、英語にもドイツ語にも長じた、さらにフェノロサよりも四、五歳年長の聴講生、三宅雄二郎(雪嶺)がただちに見抜くところとなり、絶望的な失望を与えたものであった。日本に流入した西欧の「美学」とは所詮その程度のものにすぎないものであったが、哲学の近辺につきまとうことでなんとか官学アカデミーのなかに潜り込みを果たし、なにか深遠な学という印象を与えることだけで生きのびてきた学問にすぎなかった。
それにもかかわらず「美学」が日本の国立大学に麗々しくも講座を開設維持できたのもドイツ観念論の威光と日本の知識人の深淵、難解崇拝のなせるわざである。だが、今の実態はそんなものであっても18世紀後半から1830年代までは、美学は「芸術」価値の発見に決定的な役割を果たしたのである。なぜそのような役割を果しえたのかといえば、きわめて逆説的であるが、美学が「芸術」の研究ではなく、いわゆるバウムガルテンの『美学』本義がそうであり、カントの『判断力批判』がそうであるように、人間の「感性的認識」の特性を探究する学であったからである。
(『芸術崇拝の思想』「第三章 芸術神学の誕生」松宮秀治著)
「美学」の現状に関する手厳しい評価と、フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853 - 1908)に関するくだりが気になるところです。
たしかにフェノロサが来日したのは25歳ごろで、美術の専門家ではなかったようです。フェノロサと岡倉天心(1863 - 1913)によって明治以降の日本の美術は、その方向性が決まっていったのだと私たちは教わりました。彼らの功績は偉大なものだった、と言われる一方で、その後の日本の美術の発展は、かなりいびつなものであったと言わざるを得ません。ですから、この引用部分のフェノロサの評価は合点がいくものです。私はとくに日本画と言われる分野の絵画がそうとうの被害にあった、とつねづね気になっていました。せめてもう少し上手に、それまでの日本の絵画の伝統が継承できなかったのか、と残念でなりません。文明開化の荒波の中でどうしようもなかった、と言われればそれまでですが、私たちは洋画とか日本画とかいうジャンル分けを越えて、そして彼らの成した不始末を乗り越えて、これからの美術と向き合っていかなくてはなりません。
それから、「美学」という学問が「人間の「感性的認識」の特性を探究する学であった」という最後の部分についても頷けるところです。私はかねてから書いてきたように、カントには美術作品の良しあしを判断する能力はなかったと思っています。ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770 - 1831)も同様です。バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten、1714 - 1762)は勉強不足のためその著作を読んでいませんし、断言することはできませんが、たぶん似たようなものでしょう。彼らから学ぶべきことは、彼らの時代に人間の「感性的認識」がどのように考えられていたのか、そしてそのことがどのように現在の私たちの美的判断の基礎になっているのか、ということです。決して彼らの本を読んで、その同時代の美術作品について学ぼう、などと考えてはいけません。
思い出してみると、私の大学で「美学」を担当されていた川上先生は、そういう趣旨のことを言っていたと思います。ただ、私にはその真意がわからず、川上先生が皮肉交じりに、あるいは自虐的に「美学」はつまらない、とおっしゃっているのだな、と考えていました。その真意がわかるのに40年もかかったのですから、自分自身の愚鈍さが嫌になります。
そしてもうひとつ、私が注目したいところをあげておきます。それは美術作品の「展示」にからんだ問題です。「美術館」と「博物館」は近代になって、「神」を崇拝する「神殿」の役割を代替するようになったわけですが、そのことについてはこの著者の『ミュージアムの思想』という本がありますので、別の機会にくわしく考えることにします。ただ、美術館などの公的な展示場所が拡大していく中で、「展示」そのものの意味が変わり、そのことがドイツの文芸批評家で、哲学者、思想家、翻訳家、社会批評家でもあるベンヤミン(Walter Bendix Schoenflies Benjamin、1892 - 1940)が提起した、芸術における「アウラ」の問題と関わってくる、という指摘をしている部分があります。そのことについて、すこし考えてみましょう。それでは、そのことに関する部分を書き写しておきます。
展示の暴走化とは、芸術作品の展示が国家の統制を離れ、芸術家やその集団の参入を招き、また展示が民主化されるなかで、展示の国家特権が侵蝕され、非政府組織や団体の参入を拡大させていくことであり、展示がますますゲリラ化、スキャンダリズム化していくことである。これは西欧近代の芸術思想の展開から見ると、その思想の内在的要因から考えて必然のプロセスであるといえる。またそれを歴史的に規定すると、西欧の芸術が「近代」から「現代」へ移行したことを意味する。このことをすでに論じてきた文脈に戻していうなら、芸術が「礼拝価値」から「展示価値」に移行したということであるが、芸術が「展示価値」に移行したということは、それは芸術が理想の追求、人間の教化、精神の豊穣化よりも「現代」という時代の社会的課題の設定、集団的要求の明確化、歴史的使命の認識、いうなれば「今日」の同時代における問題意識の確認を第一義的な目標に設定してくるようになったことを意味する。
その意味ではベンヤミンの「複製技術の出現によって芸術は展示価値が礼拝価値を全面的に押しのけはじめる」というテーゼは深く再考されるべきといえる。芸術の礼拝価値が押しのけられるということは、礼拝価値のなかにその存立基盤を求めていた、唯一無二の真正にして、代わるもののなきアウラを放出していた芸術の「儀式性」という神聖価値をなにかの状況の変化や思想の変化で失いはじめていくことである。そのプロセスと帰結をベンヤミンは次のようにいう。「だが芸術の生産において真正さという基準が無効になる瞬間には、芸術の社会的機能全体が大きく変化をとげてしまう。芸術は儀式に基づくかわりに、必然的にある別の実践、すなわち政治に基づくことになる」(久保哲司訳)。この引用文は先の、西欧の芸術の「近代(モダン)」が「現代(モデルニテ)」に変化していくべき運命にあったという指摘と深くかかわっている。
(『芸術崇拝の思想』「終章 芸術崇拝の行方」松宮秀治著)
ベンヤミンの『複製技術の時代における芸術作品』というベンヤミンの論文は、複雑な意味を含んでいる一方で、字義どおりに写真などの複製技術の発達によって芸術作品の希少性、一回性が失われてしまう、と単純に読みとってしまいがちです。つまり絵画でいえばタブローが一枚しか存在しないような、その一回性が醸し出す雰囲気のようなものが「アウラ」であるとしたら、それが写真技術によって複製可能になってしまったことで芸術作品の「アウラ」が失われてしまう、と理解しがちなのです。
しかし、例えばここで提示されているように、芸術が「礼拝価値」から「展示価値」に移行したということ、つまり一般大衆の誰もがその気になれば芸術作品を見ることが出来るようになったことが、芸術作品の価値を変えてしまう、としたらそのことは芸術作品の「アウラ」の喪失の問題でもあるのです。実際にベンヤミンは『複製技術の時代における芸術作品』のなかで、新しい芸術形態である「映画」とそれまでの芸術作品を比較して、例えばチャップリンとピカソを比較してその芸術的な価値の変異について書いていますし、映画と演劇の違いについても言及しています。そして芸術が大衆化されると、それは政治にもかかわるようになるのだ、と示唆しています。これはまたどこかで考えておきたいことですが、とりあえず今回はここまでにしておきます。
そしてこの本の中で著者は、ベンヤミンの時代の「万国博覧会」の展示において、西欧芸術が異なる文化的な価値を持つ展示品と並列されることにより、その「展示の特権性」も失われるのだ、と書いています。「アウラ」の喪失した空間に展示された芸術作品は、作品のスキャンダリズム、つまり話題性へとその価値観を移していきます。さらにそれが芸術家本人のスキャンダリズムへと繋がってしまうのだ、と著者は指摘しています。例えば自死を遂げた芸術家の作品が話題になり、若くして成熟した作品を制作した作家を「天才」として称揚し、その作家の容貌が麗しければ、あるいはそれ以外の話題性があれば言うことなし、というようなことでしょう。こういう下世話な話は低俗なジャーナリズムに任せておけばよい、というわけにはいきません。なぜなら、それが「芸術崇拝」の時代の最終的な行方だからです。そしてさらに、この本の最後は絶望的です。それは次のような文章で終ります。
しかし、このような芸術家の生き方にも変化が現れてきている。それは芸術家が自己自身の存在を「作品化」する方向を拒否しだしたことである。自己を作品化しなくとも、授賞制度や栄典顕彰制度がほぼ社会的に完備され、死を賭してまでの存在の作品化も無駄な努力といわざるをえないが、授賞制度や栄典顕彰制度のなかで自己高揚を図らねばならない「近代芸術」も虚しいものである。西欧近代の芸術の思想に対しては、最後にゲーテの言葉を贈りたい。「死して成れ」と。
(『芸術崇拝の思想』「終章 芸術崇拝の行方」松宮秀治著)
これを読んですぐに思いつくのが、コンクール展を定期的に開催して、次々と受賞者を美術市場に送り出すこと、あるいは公募展において毎年、いくつかの賞を設けて順番に受賞者を出していくこと、などでしょうか。私は若い頃には、そういう美術の制度に反発を感じましたが、いまの芸術界の八方ふさがりの状況を考えると、そういう制度も悪くないな、と思っています。著者が言うように、「近代芸術」は虚しい、というのは真実なのかもしれませんし、それを打破するには「死して成れ」という絶望を経験するしかないのかもしれません。
そして文頭でも紹介したように、この著者は「あとがき」で「現在の西欧における「芸術」の傲慢で不遜なまでの思いあがりと、分不相応な栄光と光輝は、その光を遮断し、もっと広い視野のなかで、もっと適正な光量調節のもとで、そしてもっと公正な見方のもとで再検討され、再評価されるべきである」と書いています。これもその通りですが、それならば、現在の芸術作品に「適正な光量」を当て、「公正な見方のもとで再検討され、再評価」する、ということを、いま、ここでやりませんか。この本が書かれてから10年以上が経ちますが、私の知るかぎり、いっこうにそのような方向性は見えません。
ささやかですけど、私はこのblogにおいて、まさにそのことを試みています。「傲慢」な作品を貶めるよりも、光量の足りない作品や資料をとりあげて、「適正な光量」が当たるように拙い論理を重ねています。しかしいかんせん、私には知識も力もありません。どうか力のある人もない人も、一緒に「再検討」、「再評価」を進め、「芸術」の世界が良い方向に向かうように、「再構築」していきませんか。
個人的な感想を言えば、現状否定はもう十分ですし、いやでも袋小路のような現実と、毎日向き合うことになります。文頭にも書きましたが、いま必要なのは「再検討」の先の「再構築」です。「芸術」の世界で起こった肯定的な出来事は、必ず社会全体を改善していきます。大げさですが、それは命がけでやるに値することだと、私は思っています。
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