横須賀美術館で12月25日(金)まで『倉重光則+天野純治展 ミニマリズムのゆくえ』という展覧会が開催されています。
(https://www.yokosuka-moa.jp/index.html)
まずは、美術館広報のコメントを書き写しておきます。
倉重(くらしげ)光則(みつのり)(1946~三浦市在住)は、1960年代よりパフォーマンス、写真、映像など、幅広い表現活動を行っています。なかでも、蛍光管やネオン管の人工的な〈光〉による眩惑的な作品は、倉重の代名詞ともなっています。本展では、この〈光〉を用いたインスタレーション作品のほか、野外展示、新作の映像作品など約10点をご覧いただきます。
天野(あまの)純治(じゅんじ)(1949~葉山町在住)は、常に真摯に平面と絵画表現の臨界に取り組み続けています。近年はアクリルや顔料の層を重ねる技法によって色彩を物質化したような「field of water」シリーズを多く制作しています。本展では、1990年代後半の鉛を用いた代表的な平面作品に、ドローイング、新作をあわせて約30点をご紹介いたします。本展は、ミニマリズムから出発した二人の近作、新作を中心に構成し、作品世界の響きあいに出会う、またとない機会となります。
このように、近隣に在住する優れた作家の展覧会を紹介することが、地方美術館の大きな役割だと思います。作家の二人はもちろんのこと、このような企画を立ち上げた美術館の方々にささやかですがエールをお送りしたいと思います。コロナ禍の状況下での美術館の運営は、ほんとうに大変だと察しますが、どうかこのような良質の企画を、今後とも継続していただきたいと心から願っています。幸いなことに、私が美術館に行った折には絶え間なく来場者が訪れていて、美術館前の芝生では倉重さんの野外作品を前にして家族連れが気持ちよさそうに日向ぼっこをしていました。スペースが広いので、密になる心配もありません。ふだん、画廊で現代美術に触れる機会のない方も、美術館を訪れているのかな、という気がしました。素晴らしいことです。
それから、コンパクトで美しいパンフレットも900円で良心的です。その内容について、あとで少しだけ触れることにします。掲載されたテキストのどれもが興味深いのですが、何よりも二人の作品写真がきれいで、見ていて楽しめるものになっています。
さて、展覧会の内容に入る前に押さえておきたいことがあります。
先の美術館広報のコメントに「ミニマリズムから出発した二人」という一節があります。この「ミニマリズム」という言葉ですが、私のような世代からすると、若い頃からなじみのある概念なので、それぞれの作家、批評家が各自の「ミニマリズム」観のようなものをもっていることと思います。
しかし、いまの若い方からすると、「ミニマリズム」という言葉はもう少し縁の遠いものなのではないでしょうか?例えば、その代表的な作家であるドナルド・ジャッド(Donald Clarence Judd 1928 - 1994)の箱型の作品を見て、何だか面白みの薄い、不自由な表現だな、と思う方もいるでしょうし、その工業製品のような見栄えがスタイリッシュで、インテリアにも使えそうだな、という方もいるでしょう。「ミニマリズム」は、いまから50~60年ほど前に流布された概念なので、その評価も、その後の影響もまだ定まっていませんが、現代美術を見ていくうえでは基礎的な用語でもありますから、ある程度のイメージをつかんでおいた方がよいと思います。そこで今回は、『倉重光則+天野純治展 ミニマリズムのゆくえ』という展覧会を題材にしながら、「ミニマリズム」の表現について、考察を進めることにしましょう。
「ミニマリズム(Minimalism )」とは、芸術表現において表現を最小限にとどめる様式のことです。美術の分野で言えば、色や形を極度に単純化しようとする抽象絵画、および彫刻の運動のことを指します。先に触れたドナルド・ジャッドの作品のように、もっとも単純な形である箱型を単色で塗って工業的に仕上げた作品をイメージすれば、概ね正解だと思います。現代美術の中では、ポロック(Jackson Pollock、1912 - 1956)らの抽象表現主義の作品への反発と継承から生れた動向である、と言われています。抽象表現主義絵画の激しい表現を抑制しつつ、彼らが追究した絵画の平面性や物質性を推し進めた表現だと解釈できるのです。しかし、この説明ではあまりに美術史的な言い方に偏り過ぎて、「ミニマリズム」が生まれた必然性を実感しづらいかもしれません。そこで、他の分野の芸術表現も視野に入れながら、違った角度から考えてみましょう。
芸術表現における「ミニマリズム」は美術ばかりでなく、音楽や文学にも「ミニマリズム」と呼ばれるような表現があります。
音楽では、同じ旋律の繰り返しを多用したシンプルな楽曲と、それをシンセサイザーのような無機質な音色の楽器で演奏した音楽をイメージしていただければ、「ミニマリズム」の感触がつかめると思います。ポピュラー音楽の中にもテクノ・ミュージックとか環境音楽と言われるものの中に、その影響を見出すことができます。有名な日本のテクノ・ミュージックのバンド、YMOの楽曲の中にも「ミニマリズム」の概念を反映しているものがありますし、ロック・ミュージシャンのブライアン・イーノ(Brian Eno、1948 - )が、1970年代から80年代にかけてさかんに発表したアンビエント・ミュージック(環境音楽)などは、「ミニマリズム」を発展させたものだと言ってよいと思います。
文学では、村上春樹(1949 - )が翻訳したことでも知られているアメリカの作家、レイモンド・カーヴァー(Raymond Clevie Carver Jr.、1938 - 1988)の小説などがミニマルな小説だと言われています。カーヴァ―が書くのは、日常の何気ない出来事です。それを淡々と、冷静に語っていくような小説なのですが、そこには大きな物語が徹底的に排除されています。ロマンチックな恋愛もなければ、ドラマチックな展開もない小説ですが、それだけに日常的な人間の心理の機微が浮かび上がります。おおむねカーヴァ―の小説を読むと、人生のやるせなさが冷静な描写の中でもしみじみと伝わってきます。
このように、音楽の中でもポピュラー音楽と呼ばれるもの、あるいは文学における小説などは、大衆的に受け入れられている表現なので、私たちの感覚に直接、響いてくるものがあります。そして、そのなかの「ミニマリズム」と呼ばれる表現の特徴は何かといえば、ドラマチックな、つまり劇的な表現や、大げさなものの言い方をしないもの、だと言えると思います。
それにしても、このような表現がどうして一般的に受け入れられたのでしょうか?私にもよくわかりませんが、例えば音楽で言えば、感情表現が激しくて、サビの部分で聴衆を泣かせることを狙ったような楽曲や、小説で言えば勧善懲悪の物語とか、美男美女の恋愛ストーリーなどが巷にあふれているわけですが、そんなものばかりだと、ときにうんざりしてしまうことが、誰にでもあると思うのです。私たちの生きている現実はもっと淡々としたものであり、それでいて複雑な人間関係や困難な仕事が入り組んでいて、小説のような大がかりな物語とは別な意味で、つねに緊張を強いられて生きていかなければなりません。そんな張りつめた生活の中で、すでにパターン化されている大仰な音楽や物語ではあまりにも絵空事じみていて、そんなものばかりを聞いていられない、あるいは読んでいられない、というふうな気持ちになることがあります。「ミニマリズム」という芸術表現の理論的な背景はともかくとして、1960年代から80年代ぐらいにかけて「ミニマリズム」がある程度の広がりを持ったのは、そんな私たちの日常を反映したもの、日々の生活に寄りそったもの、というニーズがあって、そこに「ミニマリズム」があてはまったのだろうと、私は思います。
そしてこれは定かでない思い出話になりますが、1980年代にブライアン・イーノが環境音楽の展覧会のために来日した時、わたしは展覧会場で彼のレクチャーやニューヨークでの暮らしぶりを映したビデオを見ました。そこには摩天楼のビルの屋上で、家庭菜園のようなことをしながら、ささやかな癒しを得ているイーノの姿が紹介されていたと思います。そして私は、イーノの作るアンビエント・ミュージック(環境音楽)が彼にとっての疑似自然なのではないか、と思い、ちょっと哀れな感じがしましたが、先進的な思考のイーノにとって、田舎暮らしへの回帰など考えられなかったのでしょう。時代的にも、まだインターネットが現在ほど普及していない中で、先進的なものにむかってイケイケの雰囲気がありました。ですから、心のひだに溶け込むような癒しの音でさえ、最先端のテクノロジーで作ってみせる、というモダニズムの最後の輝きのようなものが「ミニマリズム」の中に含まれていたのだろう、と私は感じます。
だいぶ話が美術からそれてしまいました。
美術の世界、つまりファイン・アートの文脈では「ミニマリズム」はどのように定義されていたのか、本格的な美術評論を参照してみましょう。美術の文脈における「ミニマリズム」の表現ですから、すなわち「ミニマル・アート」ということになりますので、美術評論家の千葉成夫(1946 - )が著した『ミニマル・アート』(1987)という本を開いてみましょう。これはまるごと一冊が「ミニマリズム」に関する本なので、つまみ食い的な紹介でたいへん申し訳ないのですが、例えば「ミニマル・アート」の定義について、千葉は欧米の美術評論家、リチャード・ウォルハイム(Richard Wollheim,1923 – 2003)とバーバラ・ローズ(Barbara Rose, 1938 - )の解釈を引きながら、次のように書いています。
ウォルハイムについては、当時最新の動向にいちばん早く「ミニマル・アート」のラヴェルを貼った人とする。ウォルハイムによれば、その最新動向の共通点は「芸術的内容が最小限である」(have a minimal art content)点にある。すなわち、ラインハートのように画面じたいが極端なまでに無差別に均質である(undifferentiated)か、ラウシェンバーグやデュシャンのように、作品を作品として他から区別するもの(differentiation)が、芸術家自身に由来するのではなくて、自然物とか工場生産品のような、非芸術的な源からやってくるか、いずれにしても芸術の度合いがミニマルだというのである。
バーバラ・ローズについても、内的な内容を感じさせる(internal differentiation)いかなるものも回避するようなミニマル・アートを主に取上げて、その、一見どんな感情も内容も欠如していることに観客が寒気をおぼえるような、無味乾燥で、中性的で、機械的な非人間性、先行するロマンティックな抽象表現主義とはきわだった対照をしめす非人間性をもつ、1950年代に起った新しい感性について語ったものだとする。
(『ミニマル・アート』「2. 定義をめぐって」千葉成夫著)
このように、千葉は「ミニマル・アート」の定義の原点にあたるものを参照して、その内容を紹介していますが、これはここまで私たちが確認してきたことと、あまり変わらないものなのではないでしょうか。「芸術の度合いがミニマルだ」とか、「先行するロマンティックな抽象表現主義とはきわだった対照をしめす非人間性をもつ」などという説明がありますが、私たちがつかんできた方向性と比べて、そのあいまいさの加減も含めてあまり差がないような気がします。それは、そもそも「ミニマル・アート」と呼ばれるものが、かっちりとした定義をしづらいものであることを示しています。解釈の仕方によって、かなり広い範囲の美術表現がそこに含まれることになるでしょう。
千葉はこのような形式的な「ミニマル・アート」の定義に限界を感じながら、このような見方はそもそも「近視眼的になっている」のだ、とか、「もともと度が合っていない」のだ、という自分の意見を加えています。彼はこのような様式的な解釈のやり方を否定したうえで、次のように独自の見方で「ミニマル・アート」を解釈しています。
つまり、美術をあくまでも美術として遇し、かつ様式の解説に逃げないところで、本質をつかまえることが求められている。そして僕の考えでは、ミニマル・アートについては、1960年代に侵攻した「美術の極限化」を体現した典型としてとらえるのが、全体の流れのなかで核をつかみだすのに最も適した視点だと思う。
1960年代に、アメリカを中心にして、美術は「極限化」と名付けることのできる展開の仕方を示す。つまり、一方で絵画や彫刻におけるミニマル・アートによって、他方でコンセプチュアル・アートによってである。ただ、この両者は別のものとみるべきではなく、同一の「極限化」の二つのあらわれかたとみるべきだろう。前者は、絵画や彫刻という形式はいちおう踏襲しながら、そのなかで限りなく「形体」や「物質」に近づこうとしているために、「形体」や「物質」のレヴェルにおいての極限化を体現し、それにたいして後者は「形体」や「物質」の束縛から離脱したところで「アート」を問題にしたために、「概念」のレヴェルでの極限化を体現したようになっていて、両極端にもみえる。しかしこれは、ある意味では同じことなのだ。ミニマル・アートの「形体」や「物質」にコンセプチュアリズムを強く感じるように、コンセプチュアル・アートの「概念」性はべつのかたちで「形体」や「物質」を登場させている。現実に、ジャッドのように、どちらにも分類可能な作家がいる。
そして、ミニマル・アートとコンセプチュアル・アートをワン・セットとみたうえでなら、ミニマル・アートはそのうちの「形体」や「物質」の側面の「極限化」、すなわち「フォーマルな(形体上の)極限化」を体現しているということができる。そしておそらく、この「極限化」こそがミニマル・アートの核である。
(『ミニマル・アート』「2. 定義をめぐって」千葉成夫著)
この一節は、この『ミニマル・アート』という本の結論にあたるものであり、千葉成夫がどのように「ミニマル・アート」を見なしているのか、ということを示していると思います。これは言ってみれば、1960年代以降のストイックな美術の流れを総括したような見方だと思うのですが、このような見方をするのであれば、そもそも「ミニマル・アート」という分類わけは必要なかった、ということにならないのか、ちょっと心配になります。実際に千葉はこの本のなかで、コンセプチュアル・アートも含めた大きな美術の流れについて論じていますし、その終わりの方では「思想としてのミニマリズム」ということも書いています。千葉が問題にしているのは、「ミニマリズム」の精神的な核となったものであり、それは美術というものの極限を追究し続けるアメリカ美術の核心のようなものだと思います。
この本が書かれた1980年代の後半には、すでにアメリカ美術は渾沌としており、世界的に見ても「〇〇主義(イズム)」という精神性を失った、商業主義的な美術界の混迷のような状況がありました。そのなかで、千葉は「ミニマリズム」に立ち返ることで、美術の世界の核となるものを取り戻そうと試みていたのだと思います。この『ミニマル・アート』という本は、「ミニマル・アート」にかこつけた、現代美術の精神的な核を辿った本であり、そこには現代美術がもう一度、本気で論じるに値するものに立ち返ってほしい、という千葉の願いが形になったもののように私には見えるのです。
そういえば、この『ミニマル・アート』が書かれた1987年からさらに15年近く前に、かつて構造主義や記号論の知見を駆使して高度な美術批評を書いた宮川淳(1933 – 1977)が、その代表的な著作である『紙片と眼差とのあいだに』(1974)において、「ミニマル・アート」を「それ自体以外のなにものも意味しないもの」、「表現のゼロ度」を体現した美術表現である、というふうに書きました。宮川は記号論者らしく、「ミニマル・アート」に「美術」という「制度」の問題の核心を見ようとしていました。このことについて書き出すときりがありませんが、彼らに共通するのは、「ミニマリズム」をたんに表現の「最小限(ミニマル)」である、という解釈にとどまらず、その先に見えて来るはずの世界を論じようとする問題意識でした。しかし残念ながら、その後の世界で「〇〇主義」にあたるような新たな美術の動向はいまだに見られませんし、宮川はその後の世界を見ることもなく、若くして亡くなってしまいました。
私たちは美術表現における「ミニマリズム」が様式的にはとらえがたく、また、その「極限化」された表現が、少なくとも日本の二人の優れた美術評論家によって、さらに先鋭的な美術表現の問題として探究されていたことを、知っておいた方がよいと思います。というのは、とくに千葉のこの探究が、今回の展覧会の天野純治の表現と重なって見える面があるからです。
さて、今回の『倉重光則+天野純治展 ミニマリズムのゆくえ』という展覧会ですが、美術館の広報コメントにもあったように、美術の世界における「ミニマル・アート」のその後を考えるうえで、参照すべき展覧会であると言えると思います。私は正直に言って、倉重光則が「ミニマリズム」から発した作家だと言えるのかどうかよくわかりませんが、天野純治の作品は文字通りに千葉が問題提起した表現の「極限化」のその後を展開したものだと言えると思います。
それでは天野純治の作品から見ていきましょう。
天野は自身の仕事について、シルクスクリーンとペインティング、つまり版画と絵画の二つの技法を並行して制作している、とパンフレットに書いています。まずはシルクスクリーンについての彼の言葉を聞いてみましょう。
今回の8点は現在進行形の作品で、透明で光沢のあるシルクスクリーン絵具(メデューム)を用い、何度も大量の絵具を刷り落とすことで水のような表面張力を感じさせる透明な液体、様々な色彩を持った水という物質性を表現しています。
(『天野純治パンフレット』「モノとしての絵画」天野純治)
『field of water』と名付けられたこのシルクスクリーンのシリーズは、白い台座の上に水平に作品が置かれています。その上には透明なアクリル板で、厳重にカバーがされています。それはまるで、科学者が実験した後の標本を見るような、デリケートな緊張感が漂う作品です。鮮やかではっきりとした色彩を持ちながらも、不思議な透明性をたたえた表面は、天野自身の言葉にあるように「水のような表面張力」を感じさせます。おそらくそれが、いまにも零れ落ちそうな緊張感を作品に与えているのだと思います。天野はその表面を「水という物質性を表現しています」と書いていますが、私の見た限りではそれは「水」だと明確にはわからない、何か不思議なものとなっています。それは「もの」としての「物質性」すら透けてしまって、「透明」と「色彩」という概念だけが形になって表れたような、この世ならざる「もの」、どこにも存在しないし、見たこともない「物質性」を感じさせるのです。
また、ペインティングについて天野はこう書いています。
プロセスの中で特に大切なことは支持体を物質化することです。地塗りにはモデリングペースト(大理石を含む)とジェッソ(地塗り剤)、ジェルメデューム、水をブレンドしたものを用います。その地塗り剤を乾かしては塗ることで50回以上を繰り返すことで乾燥した後の表面には白亜地のような物質感のある硬質な画面が出来上がります。そこから鉄錆や緑青などをイメージした色を目指し、過程の最後に鉛を象嵌することでモノとモノの関係やそこに生じる緊張感を表現しています。
(『天野純治パンフレット』「モノとしての絵画」天野純治)
ペインティングの作品は『voice of wind』、あるいは『warm snow』と名付けられています。それらはまるで、金属板を貼り付けたかと思われるような表面をしていて、そこに鉛の小さな矩形が規則的に並んでいる、という作品です。一見したところでは、どうやって作られたものなのか、まったくわかりません。これがよくありがちな「ミニマル・アート」の作品だとするならば、美しく錆びた金属をそのまま作品に用いても何ら不思議はありません。しかし、金属板に鉛を貼り付けただけの作品ならば、「最小限の表現」そのものであり、そこには何の驚きも感動もないでしょう。
ところが天野の作品の表面は、何とも言いようのない肌触りをしています。そこには「50回以上」という具体的な手数はわからないものの、何だかわからない人為的な行為を感じさせるのですが、それにも関わらず作品そのものは金属的な感触の表面になっているので、私たちの視線は心地よい戸惑いを感じながら作品の上をさ迷うことになります。そして見ているうちに、徐々に視覚の中でペインティングされた表面と金属である鉛との微妙な差異が増幅され、その違和感が不可思議な表面を際立たせていることに気がつくのです。
天野の作品は、シルクスクリーンにせよ、ペインティングにせよ、版画や絵画の既成概念を超えた「物質性」をたたえながら、その「物質性」が単純にはわからない、という構造をしています。これは一見すると「ミニマリズム」の最小限の表現を指向しているように見えますが、その逆に微細な差異を増幅することによって表現の最大値を引き出しているのです。これは千葉が言うところの、「ミニマリズム」の「極限化」された表現が乗り越えられて、「ミニマリズム」の向こう側に見える新たな表現の領域を獲得しているのです。そんな天野の作品は、「ミニマリズム」の未来を具現化した作品だとは言えないでしょうか。天野はまるで、科学者のような厳密な手つきで、表現の未来を見ようとしているのだと私は思います。
一方の倉重光則ですが、私は倉重について何度か文章を書いています。その度に書いていることなのですが、倉重の作品は「ミニマル・アート」とは言い難いし、また、よくある「ライト・アート」と呼ばれるものとも違っています。千葉が「ミニマル・アートとコンセプチュアル・アートをワン・セットとみたうえで」と自身の作品の見方について書いていますが、そこに「ライト・アート」を加えたものが、強いて言えば倉重の作品の様態に近いものなのかもしれません。
例えば彼の作品のタイトルに「不確定性正方形」という不思議な言葉が頻繁に使われていますが、それはまさに「正方形」という概念を具現化したような、それでいて現実に表現されている「正方形」は正方形ならざるものとなっている、という倉重独特の表現なのです。この点について、もう少し説明しておきましょう。
あなたが誰かに、「正方形」というものについて、それがどんなものなのか、図に描いて説明したいと仮定します。あなたは紙の上に、正方形の図を描いて、これが正方形なのだと言うでしょう。相手が理屈っぽい人ならば、あなたの描いた図形のずれや、不ぞろいな線の太さなどをあげつらって、これは「正方形」ではない、と言うかもしれません。いやいや、そうではない、私が描いたのは正方形の概念を図として表したもので、多少の不正確さは大目に見てほしい、とあなたは説明するでしょう。完全な正方形を描いて説明したつもりが、かえって話がややこしくなってしまったのです。要は「正方形」のイメージ、概念を相手に伝えればよかったのです。そうだとするならば、場合によっては一部の線を欠落させ、相手に完璧な正方形をイメージさせる余地を残しておいた方が、「正方形」という概念をより強く伝えられるのかもしれない、とあなたは気がつくでしょう。
実は倉重の「不確定性正方形」という作品は、そういう正方形なのではないか、と私は思っています。線の一部が欠落して、そこにネオン管による光が用いられていたり、線の一部の外側にネオン管が仕込まれていて、それが膨張した線のように見えていたり、というふうに、光が眼をくらませる効果を巧みに利用して正方形を不確定なものにするのです。それにもかかわらず、そこに現れるのは「正方形」という概念、イデアのようなものなのですが、現実には欠落した正方形があるだけ・・・、という特殊な構造を倉重の作品は持っています。
倉重の作品を成立させるには、描かれた図形や形が誰にでもわかるシンプルなもの、あるいは誰にでもイメージできるものでなければなりません。だからそれは「正方形」というシンプルな形状が選ばれ、そのことがあたかも倉重の作品を「ミニマル・アート」のように見せているのです。しかし、それはシンプルであること、つまり「ミニマル」であることが絶対的な条件ではありません。誰もが概念的に共有できるものであればよいのであって、それは例えば人の形でもよいのです。そして「正方形」と同じように、人の形を用いる時でもそこに光による余剰、もしくは明確な輪郭の欠落が生じることが重要です。そのことによって、私たちのイメージの中では、人の形がより濃厚な状態で現れるのです。
倉重自身は、私がここで書いたような作品の作用を、「ファンタジー」という言葉で語っているようです。誰もが倉重の作品を見ることで、その表しているものの欠落、もしくは余剰を補って見てしまう・・・、つまり作品に参加することになるのです。そこには、どこかに倉重の遊び心、ユーモアが潜んでいて、私たちは倉重のイメージの世界を遊びまわるような感覚になります。そのことについて、美術家の吉岡まさみが今回のパンフレットのなかで、とても興味深いことを書いています。その象徴的な一節を引用しておきましょう。
倉重は、光と幾何学を使ってファンタジーを紡ぎだす。ファンタジーとはわれわれが参加することのできる物語のことである。彼が表現方法としてインスタレーションという方法を採用したのも、作者と作品(物語)が一体となることを目指したからなのである。彼自身が作品の中に居て、それを見るわれわれも参加し、その中で憩うことができるのである。インスタレーションのなかで、われわれはその一部となるのだ。
(『倉重光則パンフレット』「倉重光則のファンタジー」吉岡まさみ)
これはまさに、倉重の作品を楽しみながら見ている人にしか書けない文章です。私たちは倉重の作品を見ることで、倉重のファンタジーの中で遊ぶ人になってしまうのです。これは「ミニマリズム」の対極にある世界ではないでしょうか。仮に倉重の作品の入り口が「ミニマリズム」であったとしても、私たちはいつの間にか、その裏側に顔を出してしまった、という感じでしょうか。
ここで最後になりますが、そんな二人の作品に関連するような事例を紹介しておきましょう。それは「ミニマリズム」の文学作品として例示した、レイモンド・カーヴァ―の作品についてです。
といっても、肝心なカーヴァ―の本がどこかに行ってしまって、ここから先はまったくの私の記憶で書きますので、不正確であったり、間違いがあったりしたらご容赦ください。それはカーヴァ―の小説『ささやかだけれど役に立つこと』という作品に関することなのです。
この『ささやかだけれど役に立つこと』という小説は、交通事故に遭ってしまった男の子とその両親、それとその男の子の誕生祝のケーキを焼いたパン屋の話です。男の子は自動車と接触事故に遭うのですが、その場では外傷がなかったので、そのまま家に帰ります。しかし、男の子は帰ってから倒れてしまい、病院に運ばれます。両親は仕事で忙しいなかですが、連絡を取り合いながら病院で子どもに寄り添い、回復を願います。しかし結局、男の子は死んでしまうのです。その間、二人はパン屋で予約したケーキのことをすっかり忘れてしまいます。一方のちょっと偏屈なパン屋の親爺は、せっかく作ったケーキをいっこうに取りに来ないので、男の子の家へ「お誕生日ですよ!」といったふうな、なぞかけのような電話をかけ続けます。母親からすれば、子供の事故で混乱しているのに、それに拍車をかけるような不気味な電話がかかってくるわけです。男の子が亡くなった直後、その電話がパン屋の仕業であることに気付き、夜更けに一人でパンの仕込みをしているパン屋を夫婦が訪れます。お互いに思うところをぶつけ合った後で、パン屋は両親の苦しみを知らずに自分がやってしまったことを悔い、両親はパン屋の誇りを傷つけてしまったことを知るのです。夜明けになり、悲しみに暮れた両親が空腹であることを思いやり、パン屋は焼き立てのパンを二人にふるまいます。こういう時には空腹を満たさなければならない、それは「ささやかだけれど役に立つこと」だと、パン屋は両親に語りかけます。
この明け方の両者の和解に、一抹の救いがあるのですが、私の記憶では、カーヴァ―はこの結末の手前までのところで、つまり男の子が死んでしまい、パン屋と両親が誤解したままのところで、一度作品を仕上げていたのだと思います(その小説のタイトルは忘れました。記憶違いでなければよいのですが・・・)。その作品に、後になって手を入れたのが『ささやかだけれど役に立つこと』という小説なのです。パン屋と両親が誤解したままの作品も、それはそれで「ミニマリズム」の小説としてみごとなものだと思います。実際に私たちの生活では、和解よりも誤解の方が多いのかもしれませんし、そこで潔く筆をおいた方が、リアリティーがあると感じる人もいると思います。しかし『ささやかだけれど役に立つこと』を読んでしまうと、どうしてもそこに救いが欲しい気がしてしまいます。「ミニマリズム」という表現は、いったい何なのか、人間にとってリアルな表現というのは何なのか、と考えさせられるような二編の作品ですが、最終的に『ささやかだけれど役に立つこと』として仕上げたことで、カーヴァ―は「ミニマリズム」を超えたのだと私は思うのですが、みなさんはどのように感じられるでしょうか。
そして、アメリカの文学について私はほとんど何も知らないのですが、そんななかで自分の解釈を書かせていただくと、カーヴァ―のようなミニマルな小説の後で、ジョン・アーヴィング(John Winslow Irving、1942 - )の『ガープの世界』(1978)に象徴されるような、大きな物語が再び書かれるようになった、というふうに私は感じています。ただし、その物語はナンセンスであったり、ちょっと不思議なプロットであったり、あるいは小説の中に小説が入れ子細工のように仕込まれていたり、というふうに一筋縄では行かない構造になっています。相変わらずの勧善懲悪の物語、恋愛ストーリーも大量に消費されていますが、アーヴィングのようにそれまでの世界観をのり越えるような、そんな物語の創作が着実になされているようで、私はそのことをたのもしく感じています。
美術の世界においても、今回の『倉重光則+天野純治展 ミニマリズムのゆくえ』に見られるように、「ミニマリズム」の「極限化」の世界を突き抜けた作品が、着実に生み出されています。その一方で、大衆文学の勧善懲悪やラブストーリーにあたるような安易な作品が売れている現実もありますが、そんなことに絶望していても仕方ありません。
芸術の世界では、限界だと思われるようなことがあれば、必ずそれをのり越えるような、あるいはそれを相対化して別な地平を切り開くような表現が現れます。私たちも、そのような作品を丹念に見ていくことで、その場に参加することができるのです。それは素晴らしいことではないでしょうか。
ということで、まずは横須賀美術館に行ってみませんか?
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