昨年の11月にさかのぼる話ですが、ピーター・バラカンさんがメインパーソナリティーをつとめるラジオ番組「Tokyo Midtown presents The Lifestyle MUSEUM」にゲストとして、白鳥建二さんという人が出演しました。
白鳥(しらとり)さんと呼ばれるこの人物は、全盲の美術鑑賞者として活動している人です。この番組が放送される少し前に、『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』(川内有緒 著)という本が出版されていて、けっこう評判になっていました。この日の番組も、白鳥さんの美術鑑賞活動について取り上げたものでした。
その内容は、次のポットキャストで聞くことができます。ピーター・バラカンさんが選曲した音楽などはカットされていますが、30分ほどのトークを聞くことができます。
よかったらお試しください。
https://www.tfm.co.jp/podcasts/museum/month.php?month=202111
さて、もしもあなたがこのポットキャストを聞くよりも先に、この文章を読んでくださっているとしたら、「目の見えない白鳥さん」がどんな方法で美術鑑賞をするとお思いですか?
目の見えない方のための美術展というのは、実際に企画されています。私の知っているそれらの展覧会は、ふだんなら触れることの出来ない彫刻作品やオブジェなどに触ってもいいですよ、という内容のものでした。確かに、彫刻作品なら触れてみることで具体的な形がわかるかもしれませんし、それが現代彫刻なら、素材の質感や表面の肌触りなども手から伝わってくることでしょう。そのことによって、視覚的な情報以上のものが実感できるということもあると思います。例えば、印象派の画家として、そしてデッサンの達人として有名なドガ(Edgar Degas 、1834 - 1917)は、晩年になって視力が衰えて絵が描けなくなって、塑像(粘土で成形する種類の彫刻作品)を制作したという話はよく知られたものです。立体的な作品に手で触れて鑑賞するということは、ドガの制作を追体験するような行為であるとも言えるでしょう。
しかし、このような鑑賞方法では、鑑賞できる作品が限定されてしまいます。このような企画の展覧会が、いつも開催されているわけではないからです。白鳥さんが「全盲の美術鑑賞者」として活動しているのなら、これだけでは十分ではないでしょう。
それでは、白鳥さんが一般的な展覧会に出かけているとしたら、いったいどのような方法で作品を鑑賞しているのでしょうか。
白鳥さんの鑑賞方法は、あっけないほどあたりまえのものです。それは目の見える人を同伴者として、目の前の作品について語ってもらう、というものです。実は『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』の著者である川内有緒さんは、その同伴者の一人なのです。「10歳年下のマイティ、こと佐藤麻衣子」に誘われて美術鑑賞に付き合ったのが、その始まりとなります。そのいきさつは次のようなものです。
目が見えないにもかかわらず、年に何十回も美術館に通うひとがいる。そんな全盲の美術鑑賞者・白鳥健二さんのことを知ったきっかけは、友人が発したこんなひとことだった。
「ねぇ、白鳥さんと作品を見るとほんとに楽しいよ!今度一緒に行こうよ」
10歳年下のマイティ、こと佐藤麻衣子とは20年来の友人で、毎年一緒に『NHK紅白歌合戦』を見ているので、もはや家族なのかもしれない。キューティクルがつやつやしたおかっぱヘアに、好奇心に満ちた瞳。食べることが好きなわりに小柄で、いつも柔らかそうな素材のワンピースを身につけている。美術への偏愛ぶりはなかなかで、地元でも離島でも外国でも美術館やギャラリーをハシゴする。
目が見えないひとが美術作品を「見る」だって?意味はわからなかったが、マイティに「楽しい」と言われたら、一緒にエレベーターに閉じ込められにいこうよ、くらい意味不明な誘いじゃない限り、ノーという選択肢はなかった。
うん、行く行く。なんの展示を見るの?
彼女はすぐさまいくつかの展覧会の名前をあげた。時間だけはたっぷりあったわたしは、なんでもいいよと答え、マイティは、じゃあ白鳥さんと相談して連絡するね、と言った。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒)
この文章を読むと、そこらにいそうな時間を持て余しているご年配の人たちの話かと思いますが、実は川内さんも佐藤さんもなかなかの経歴の人たちです。
川内有緒さんは日大芸術学部を卒業、その後渡米してジョージタウン大学で修士号を取得します。そして米国企業、フランスのユネスコ本部などに勤務して、2010年以降、東京でノンフィクション作家として活躍しているということです。バングラデッシュで取材した『バウルを探して 地球の片隅に伝わる秘密の歌』という本で新田次郎文学賞、『空をゆく巨人』で開高健ノンフィクション賞を受賞しています。私は川内さんの本を読んだことがありませんが、『空をゆく巨人』は現代美術家の蔡國強の話のようです。しかし、インターネットの本の紹介を読む限りでは、『バウルを探して』の方が面白そうだと思いました。
一方の佐藤麻衣子さんは女子美術大学芸術学部を卒業、水戸芸術館現代美術センターの教育プログラムコーディネーターを経て、現在フリーランスで活躍している、とのことです。彼女は日本臨床美術協会認定の「臨床美術士」の資格を持っているそうです。この「臨床美術士」というのは、いったいどのようなものなのでしょうか。佐藤さんのホームページには、臨床美術という言葉を次のように説明しています。
臨床美術(クリニカルアート)は、独自のアートプログラムに沿って創作活動を行うことにより脳が活性化し、認知症の症状を改善させることを目的として開発されました。
先進国でも例をみない医療・美術・福祉の壁を越えたアプローチが特徴です。
臨床美術士が一人ひとりの参加者にそった働きかけをすることで、その人の意欲と潜在能力を引き出していきます。
現在では多方面で取り入れられ、子供から社会人、高齢者まで健康で豊かな社会の創出を目的としています。
(https://aoironoryu.com/about/より)
なるほど、美術に関してはいろいろなアプローチがありますね。私のような世代の人間だと、眉間にシワを寄せて難しい言葉で現代美術を語る評論家や美術家のおじさんたちがすごく偉そうに見えましたけど、今は多角的な見方があって、その意味では美術の世界も多少、健全になりつつあるのかな、と思います。
さて、そんな人たちの話ですから、「今度一緒にいこうよ!」というマイティのお誘いは、ただの気まぐれではありません。この三人が揃って美術展に行ったのは、三菱一号館美術館で2018年10月から開催された『フィリップス・コレクション展』でした。川内さんが『空をゆく巨人』を出版したのがちょうどその頃ですが、その取材を始めたのは2015年からです。ですから臨床美術士の佐藤さんはもちろんのこと、誘われた川内さんも美術について私たちよりもよほど詳しかったはずです。その片鱗がこの本のあちこちに現れますが、とにかく二人は、あくまで素人の目線で美術作品に触れていきます。
例えば、この本の中で取り上げられている作品の中でも、私が最も好きなボナール(Pierre Bonnard, 1867 - 1947)の『棕櫚の木』に関する二人の会話を見ていきましょう。
https://www.musey.net/29115
あれやこれやとひと通りの描写を終えると、わたしは「この村はきっと南フランスだね」と断言した。
「えー、そうかな?ヤシの木の葉っぱがあるから、もっと暖かいところじゃないの?」
マイティは首をひねる。うん、簡単にひとに流されないのが、キミのよいところだよね。
「いや、たぶん南フランスだと思うんだよね。キラキラした光の感じがそんな気がして。とても気持ちがいい絵だね。いいなあ、この村に行ってみたい」
私は30代のころ、パリのユネスコ本部に勤め、5年半にわたりパリに住んでいた。その間に南フランスの小さな村を何度となく訪れた。輝くような強い太陽、丘にはりつくような石造りの家。色とりどりの野菜にハーブが香る食事。年がら年じゅうグレーな雲が立ち込めるパリから行くと、色彩溢れる南フランスはこの世の楽園のごとく見えた。まるでこの絵のようにー。
しかしマイティは「えー、気持ちいいかなあ?わたしにはなんかこの絵は気持ちが悪いな」と首を傾げた。
絵、気持ち悪い?どうして、こんなに明るい色使いなのに?
「女性の表情がぼんやりと曖昧に描かれているでしょ、なんか亡霊みたいで怖い。バックの風景と女性が繋がっていないようで違和感がある」
んんと、女性がなんだって?
わたしはそう言われるまで、人物にはまるで注意を払っていなかった。そのひとは、なるほど、顔がぼやーっと曖昧に描かれており、表情がわからないからか、亡霊と言われれば確かに亡霊っぽかった。
「そうか、マイティって極度の心霊恐怖症だったもんねー」とわたしはからかいながら不思議に思った。わたしたちはまるで違う絵を見ているかのようだった。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒)
二人は目の見えない白鳥さんと同伴することで、自分がその絵をどのように見ているのかを言葉にしていきます。そこで現れてくるのは、いかに二人が違った絵の見方をしているのか、という事実です。この見解の相違を、いったいどのように考えたら良いのでしょうか。上記の会話のすぐ後で、川内さんはこう書いています。
同じ絵を見ているのに、なぜここまで印象が異なるのか、ちょっとここで考察してみたい。
それは、どうも「見る」ことの科学と関係があるようだ。視覚とは「目」や視力の問題だと考えられがちだが、実際は脳の問題だということである。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒)
ごくあっさりと、大きな謎解きがされてしまいました。
そう、私たちは他人と同じ絵を見ていると思いがちですが、私たちの脳が見ている絵は違っているのかもしれません。少なくとも、私たちの脳が記憶している絵ということで言えば、それは確実に違う絵となるでしょう。それは二人の人間の間のことだけではなくて、一人の人間であってもその絵を見た時期や見た時の状態によって、同じ絵がまるで違って見えるのです。
これは以前にも書いたことがある話ですが、私も初めてボナールの絵を見たときに、マイティと同じように「気持ち悪い絵」だと思いました。それは小学生のときに母親に連れられて見た『ヴェルノンのテラス』という作品でした。
https://www.musey.net/29084
これも明るい陽光の射す屋外の絵です。背景の農園風の自然に囲まれたテラスですから、見るからにうらやましい光景のはずですが、こういう色彩の絵を見慣れていなかった私は、まさにマイティのように気持ち悪い絵だと思うと同時に、ちょっと怖い絵だと思いました。たぶん理由はふたつあって、逆光気味の人物が妙に赤茶色に見えたことと、背景の緑であるはずの木の葉が青や紫で表現されていたことが気になったのです。それに子供の私から見ても、描かれた人物たちのデッサンが下手くそで、特に中央のカゴを持った女性らしき人の描写が稚拙だと感じました。
しかしその後、絵を勉強するにつれて私のボナールへの評価はみるみると上がりました。はじめはその自由な色彩表現の素晴らしさに気づき、美大生になった頃には彼のデッサンが画面構成を考えた上で決定されたものであることに気がつきました。今では『ヴェルノンのテラス』は、ボナールの表現の大胆さを見ることができる傑作だと思っています。その自分自身の変化を考えると、はたして私の記憶の中にある『ヴェルノンのテラス』がこの50年ぐらいの間で同じ絵であったのかどうか・・・。
そうすると私たちは目の見えない白鳥さんに対して、見えるがままの絵を伝えているつもりが、その時の自分の見方で感受できた絵を伝えているに過ぎないことになります。そのことを白鳥さんは、どう感じているのでしょうか。
例えばこの『フィリップス・コレクション展』で展示されていたピカソ(Pablo Ruiz Picasso, 1881 - 1973)の『闘牛』という作品を見て、二人は描かれていた牛や馬が何頭いたのか、という基本的な情報ですら意見が一致せず、混乱してしまいます。その時の白鳥さんの反応が、次のように書かれています。
ひどい説明ですみませんね、トホホ・・・と白鳥さんのほうを見ると、「面白いね!」とこれまで以上に喜んでいる様子だ。え、どういうこと?
「ふたりが混乱している様子が面白い」
どうやら彼は、作品に関する正しい知識やオフィシャルな解説は求めておらず、「目の前にあるもの」という限られた情報の中で行われる筋書きのない会話こそ興味があるようだった。逆に、作品の背景に精通しているひとが披露する解説は、「一直線に正解にたどり着いてしまってつまらない」と言う。ひとつの作品でもその解釈や見方にはいろんなものがあり、その余白こそがいいらしい。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒)
え、そうなのか、と思いつつ、わかる気がします。
私も展覧会場で用意されている、音声ガイドのオフィシャルな解説を聞いたことがありません。もちろん、展示されている作品に添えられているキャプションの説明書きを読むことはありますが、音声ガイドまで聞くと鑑賞する自由を奪われるような気がするのです。そのあたりの感覚は、白鳥さんと共通するものがあるのだと思います。結局、白鳥さんと私たちとでは、視覚的な情報があるかのかどうか、という以外には、あまり違いがないのかもしれません。私には全盲の方の気持ちや感覚を推しはかることができませんが、この本を読む限りでは、白鳥さんは目が見えないということを、ごく自然なこととして受け止めているようなのです。
そういえば、ピーター・バラカンさんのラジオ放送の中で、進行役の柴田幸子さんが白鳥さんのことを「目の不自由な方」というふうに目が見えないことを間接的に表現しようとしたところ、「不自由だと思っていないので、目の不自由な、と言わないでください」と白鳥さんがたしなめる場面がありました。この本の表記も「目の見えない白鳥さん」と書かれているのは、そのためだと思います。繰り返しになりますが、白鳥さんは目が見えないことを「不自由」なことだと考えておらず、たんなる事実だというふうに考えているのです。
私はものを見ることに関しては、近眼、老眼などの問題はあるものの健常者の部類に入る人間です。そのために、視覚による一次的な情報があるという点で、白鳥さんとは違っています。しかし、その情報が脳に達した後では、目の見えない方とどれほどの違いがあるのか、考えてみなくてはなりません。
このことは、美術について勉強して、知識量が増えれば増えるほど、余計な先入観が邪魔をして、視覚情報にヴィヴィッドに反応できなくなる可能性があることを示唆してもいると思います。言ってみれば、それは偏った思い込み情報しか囁かない同伴者と一緒に絵を鑑賞する全盲の人と同じ状態なのです。「どうやら白鳥さんとの美術鑑賞には、適度に無知であることが不可欠のようだった」とこの本にも書かれていますが、私たちは自分自身の中に偏った見方しかできない同伴者がいないかどうか、注意してみる必要があります。
このように、白鳥さんの美術鑑賞の方法は、全盲の人に対する健常者のサービスのように見えながら、実は美術鑑賞の方法そのものを向上させるという点で、相互的な利点があるのでした。この本の中でも紹介されていることですが、この対話型の鑑賞方法はニューヨーク近代美術館の美術鑑賞メソッドと酷似していたのだそうです。
さて、このように白鳥さんとの美術鑑賞が続いていくのですが、いつしかその行為が特別なことではなく、読み進むにつれて自然なことのように感じられてきます。白鳥さんがどう感じているのか、どう考えているのか、そのことが鑑賞仲間にとって美術鑑賞の一部分になっていく様子がよくわかるのです。
そして、つい先ほど書いたような、美術鑑賞の方法の向上とか、特別な気づきがあるとか、というような理屈っぽい話を超えて、お互いの楽しい時間としてシェアされていればいいじゃないか、というところにまでいくのです。その体験を本にしよう、とか映画にしようという話にもなりますが、その映画制作を通じて、白鳥さんとの美術鑑賞について、著者はさらに考えを深めていきます。
わたしは、なぜ白鳥さんやマイティと一緒に作品を見続けてきたのか。この二年間を振り返ってみると、一緒に作品を見る行為の先にあるものは、作品がよく見えるとか、発見があるとか、目が見えないひとの感覚や頭の中を想像したいからではなかった。
ただ一緒にいて、笑っていられればそれでよかった。
ものすごく突き詰めれば、それだけに集約された。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒)
この本の中でもなお、目の見えない人と、どのようにお互いの世界を共有したら良いのか、人によって意見が異なります。例えば、アイマスクをつけて疑似的な全盲体験をすることが、お互いの理解に有効なのかどうか、本の中でも意見が分かれます。しかし、楽しい時間を共有したい、という気持ちは、白鳥さんと接した人たちに共通している思いのようです。やはり楽しくないと、どんなに善いことであっても続かないですね。
ところで、最後にひとつ、この本が美術関連の本として侮れないことについて、触れておきます。先ほど、マイティがボナールの絵について「女性の表情がぼんやりと曖昧に描かれているでしょ」と言っていたことを覚えていますか?そのことについて、次のような解説が書かれています。
ちなみに、この絵の女性の顔がぼやっと描かれているのは、亡霊を描いたわけでもなければ、未完成というわけでもなく、ボナールなりの意図があるらしい。ボナールは、自分の視覚が捉えた通りに絵を描こう(「視神経の冒険」と彼は呼んだ)と努力をし、絵の奥の風景にピントを合わせるために、手前の女性を故意にぼやけさせた。わたしたちの視覚で、ピントが合った部分以外はぼやけて見えるのと同じだ。「視神経の冒険」は、大変に意欲的な試みだったにもかかわらず、当時はあまり評価されなかったそうである。
パブロ・ピカソは、ぼんやりと、色もまばらなボナールの絵を「不決断の寄せ集め」と強烈に批判し、多くの美術批評家たちもそろってボナールの作品を無視した。
(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』川内有緒)
この最後の一文は、『画家ピエール・ボナールが挑んだ「視神経の冒険」としての絵画』(BY MASANOBU MATSUMOTO OCTOBER 26, 2018)という「 The New York Times Style Magazine,Japan」に掲載された記事の引用になります。この記事の全文を次のインターネットのページから見ることができます。
https://www.tjapan.jp/art/17214362
「視神経の冒険」という言葉は、川内さんの書いている通り「ボナールが手帳に残した『絵画、すなわち視神経の冒険の転写』というメモから取られており、1984年、フランスの美術批評家ジャン・クレールは、この『視神経の冒険』をタイトルにボナールの回顧展のためのエッセイを残した」のだそうです。
ボナールは、人間の視覚を追究していく中で、意図的にピントの合った部分とぼやけた部分とを描き分けていた、ということですが、それが「現代の知覚生理学が指し示しているものからハズレていない」というのは、驚きです。私はボナールが画面構成の必要性から集中的に描くところとそうでないところを分けているのだと思っていたのですが、それだけではないのでしょうか。ボナールは、それほど科学的な知性の人には見えないのですが、これは見方を変えなくてはなりませんね。
さて、このところ本を読んでいて気がついたことですが、このblogでも何回か取り上げた伊藤亜紗さんの著作といい、この川内有緒さんの本といい、人間の感覚に関する考察が、いよいよスリリングになってきましたね。それも小難しい専門書ではなく、このような一般的な読み物としてその知識がシェアされている、というところがうれしいです。それは二人とも、障害のある方との触れ合いによって、体験的に学んだことを書いているからだと思います。これは障害者というカテゴリーの中で考えられてきたことが、少しずつ広い視野で見られるようになったことに起因するものでしょう。
人として互いを尊重することが、結局のところ健常者と呼ばれる人にとっても有意義な結果を生む、というのは、当然のこととはいえ、覚えておくべきことだと思います。私たちはやっと、その学びの端緒についたところなのだと思います。私自身、さまざまな先入観や偏見に満ちた人間ですが、自分のためにも少しずつ賢明になれるように努めていきたいものです
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