『雲海』
作……神 一夫
第一章 出会いと安住の地 『回想』
四月に入ったばかりの山麓の朝はまだ寒い。
霧野 和久は、朝の光と小鳥のさえずりで眠りから覚めた。
窓越しに見える木々の葉には、白く霜が付いている……目が覚めた時の光景が好きで、何時もカーテンは開けていた。
ベッドの中で手足を伸ばして、思いっ切り深呼吸をする……大きく吐いた息が白くなり消えた……傍らで寝ていた愛犬のダイスケは、まだ眠り足りないのか、チラッと和久を見て毛布の中に潜り込んだ。
ダイスケはオスのシーズー犬で二歳に成る。
普通のシーズー犬の様に、鼻が引っ込んで無くて口はオチョボで、毛色は薄い茶と白である……この容姿の為に、シーズーの愛好家には敬遠されていたのだが、和久は凄く気に入って譲り受けた。
和久の言葉や手の動きを見て、それなりに理解したような行動を取るし、言葉は結構分かる様だ……独身である和久の良き相棒でもある。
和久は、今日という日を心待ちにしていた……天才演歌歌手『茜 夕子』の復帰公演が放映されるからである。
友人の医師、山野 武夫妻を招いての観賞会を、心待ちしている和久とダイスケ。
和久は天井の節穴を見詰めながら、夕子との出会いを振り返り、朝霧の里に辿り着くまでの日々を思い起こしていた……。
料理人に憧れ、関西の高級料亭『太閤楼』で修業をしていた頃、歌謡界に彗星の如く現れた天才演歌歌手が、五歳年下の茜 夕子である。
卓越した歌唱力と魂に響く天性の声! 人を和ませる笑顔を持つ夕子は、瞬く間に歌謡界の頂点に上り詰めた。
修行が苦しくて辛い時、夕子の歌に励まされ、精進に精進を重ねた和久は、並み居る先輩を差し置いて、二十五歳にして太閤楼の調理場を任された。
関西の天才料理人、味の魔術師と呼ばれ、政財界や芸能界にまで名が知れ渡り、和久の料理を食したいと言う予約が、数カ月先まで入っていた。
一方で、数々のヒット曲を世に送り出していた夕子は、過密スケジュールの中でトップスターの座に君臨している。
戦場のような慌ただしい時が過ぎ、静寂が戻った部屋で酒を飲み、夕子の歌を聞く時が和久にとって、最も安らぎを覚える時である。
夕子は全国公演の最終地である大阪に来ていた……その千秋楽に過労で倒れた夕子は、静養を余儀なくされた。
夕子が入院して数日後、仕入れから帰って来た和久は、女将の麗子に呼ばれて社長室に行く。
「霧野です、失礼します!」
ドアを軽くノックして社長室に入る。
調べ物をしていたらしく、机の書類を整理した麗子は、微笑みながら応接椅子に座る様に勧めた。
女将は『小竹 麗子』と言い、関東の由緒ある料亭の娘で、歳は四十五歳で気品に満ちた美人である。
和久の前に座った麗子は、小さなメモを見ている。
「和さんご苦労さん! じつはなぁ、あんたも知っていると思うけど、歌手の茜 夕子さん……夕子さんの講演会の会長をしている、ホシノ電気の会長さんから電話が有って、3日後に夕子さんの快気祝いを兼ねて、食事がしたいとの事です! 会長さんと夕子さん、それに事務所の社長さんの3人でと言う事です……部屋は離れを使います」
言った後で、麗子は思い出したように付け加えた。
「あぁそれから、夕子さんは余り苦労も無く頂点を極めたものだから、少しわがままな所があり、失礼な事を言うかも知れないが、大目に見てやって欲しいということです」
黙って麗子の話を聞いた和久は、一礼をして社長室をで出る。
部屋に戻り暫く考え込んでいた和久は、調べていた文献を取り出して、時の皇帝しか口に出来なかったと言われる幻のスープを作る為、矢継ぎ早に取引先に電話を入れ食材の注文をした。
全ての仕事が終り、誰も居なくなった調理場で、仕入れた食材を調理して鍋に入れる……火を弱めたり強めたりしながら、数時間掛けて食材の煮出しを始めた和久は、少しの仮眠を取っただけで2日目の夜を迎えた。
明日の夜には、夕子達が来る……皆が帰った後、煮出しをしていたスープに最後の食材を入れた! 弱火で2時間、一時も休まず混ぜ続け火を止める……中の材料を全て取り出し、スープと一緒に陶器の瓶に入れ直し、蓋をして目張りをした。
「これで出来た!」
満足してコップの水を飲み干した和久。
数日間の緊張から解放され、転寝をした和久が目を覚ますと、毛布が掛けられていた。
「んっ誰だろう?」
考える間もなく、次の調理に掛かる。
頃合いを見て瓶の目張りを取り、スープだけを鉄鍋に移して弱火で煮出す! 何とも言えない香りが漂い、空腹に沁み渡る……味を確かめた和久が思わず唸った。
「美味い! 良く出来ている……先人の知恵は大したものだ! だが、二度とご免だ!」
ファンである夕子の為に、全身全霊を掛けて調理したスープである。
その時、調理場の戸が開き、麗子が心配そうな顔をして入って来た。
「お早うございます……」
麗子に心配を掛けまいと、笑顔で挨拶をする和久。
「和さん、お早うさん……何や知りませんけど、一生懸命に作っていましたなぁ、ご苦労さん!」
麗子の一言で、毛布を掛けてくれたのが麗子だと知った和久は、出来たばかりのスープの味見を頼んだ。
「女将さん、和食の太閤楼には合わないと思いますが、茜さんの健康を思って調理してみました……」
そう言って出された器のスープを見る麗子。
「綺麗な色やねぇ、それに良い香り……」
一口飲んだ麗子は、何も言わずに残りを飲み干した。
「如何でしょうか?」
麗子を見て、心配そうに問い掛ける和久。
和久を見詰めた麗子の目に、涙が滲んで来た。
「和さん、亡くなった主人を超えましたなぁ……あの人が言っていた通りやった。(和久は、食の街大阪の宝や! あいつの味覚は天性のものや! 数年後には越されるでっ、楽しみやなぁ……そやから和には厳しゅうするのや! 後は宜しゅう頼むでっ)それが口癖やった! あの人の目に狂いは無かったなぁ、それにしても和さん、こんなに美味しいスープは初めて頂きましたわ! 何かしら大きな温かいものに抱かれているようで、言いようの無い優しさを感じますなぁ……何と言うスープです?」
和久は厳しかった先代の話を聞かされて、胸に込み上げて来るものを感じていた。
「はい、皇帝料理の文献に書かれていた物です……材料は多少違いますが、それなりに調理してみました! 如何いたしましょう?」
調理場の全権を任されている和久ではあるが、和食とは釣り合わないスープを出す為に、麗子の気持ちを問い掛け見詰める和久。
「太閤楼の調理場は和さんの物です! あんたの思うようにしたらええ、全ての責任は私が持ちます。 和さん、先代の遺志を受け継いでくれましたなぁ、おおきに……(料理は心や、小細工したらあかん! 客の気持ちに成って調理せんとあかん!)そう言われて怒られていたのに、よう精進しましたなぁ……」
麗子はそっと目頭を拭った。
「女将さん、ありがとうございます」
礼を言うのが精一杯の和久である。
「和さん、お腹が空いてしませんか? ご飯を食べて風呂にでも行って来なはれ……夕子さん達が来るまで休みなはれ……」
麗子は和久を労い、自宅で朝食を食べさせる……食事が終った和久はサウナに行き、仮眠を取って営業前の太閤楼に戻って来た。
献立を矢継ぎ早に指示して、自分は夕子達の献立に取り掛かった。
今日の離れの接客は、麗子と仲居頭の春子である……春子は麗子の右腕として太閤楼を守り立てている! 見習いの時から何かに付けて、面倒を見てくれた人でもあった。
6時、夕子達を乗せた車が離れの玄関に横付けされ、麗子と春子が出迎えて離れの部屋に案内する。
離れの部屋は孤立した造りで、部屋からは照明がされた庭が見え、特別な客にしか使用する事が無かった。
案内を終えた春子が、調理場に居る和久の所に来た。
「和さん、会長さん達がお着きになられました……お庭を見て夕子さんが喜んでいましたよ、会長さんが和さんに宜しくとの事です」
春子の報告を聞き、用意していたスープを出すように言う。
3人の前に出されたスープを見ている夕子。
「何これ? コンソメスープ? 会長さん、此処は日本食の老舗ですよねぇ、私は和食を頂きに来たのに……」
夕子は不機嫌に成り、不服そうに言った。