
「和さん、あんた何者だ! この寿司の酢飯と言い、此のつゆと言い、並みの料理人に出来る代物ではない!」
真顔で言い、武夫妻に同意を求める様に視線を送った源三。
「味の魔術師か! 和さんは、大阪太閤楼の前料理長! 霧野 和久さんでしょう……」
武は風呂で名前を聞き、集めていた雑誌や新聞の切り抜きを調べたと言う。
武の問い掛けに、武を見て笑みを浮かべ、目を閉じて頷いた和久。
「そうだったのか! もう少し早くに会いたかったのう……」
二人の会話を聞いていた源三は溜め息混じりに言い、朝霧を手放して、娘夫婦の所に行く事を話した……そして朝霧が、源三の思惑通りの金額では買い手が付かない事も……此の朝霧を開店した時に、描いた夢が実現していない事も話した源三。
源三の話が終り、少しの沈黙が流れた。
「源三さん其れまでには、まだ半年以上ある……此れから観光シーズンに入り観光客が来る! これ程美味い猪鍋と押し寿司が有るのだから、朝霧を再開してはどうですか?」
武の提案を聞いて頷いている加代。
「私もそう思います! 此れほど美味しいお料理は初めて頂きました! 源三さん、そうされては?」
二人の話に、暫く考え込んだ源三。
「うん! だがのう、此の味は和さんが作った物だから……それに、わし一人では如何にもならんよ……」
源三は、ちらっと和久を見て武と加代に言った。
「大丈夫だと思いますよ! 其のつもりで私達に、御馳走してくれたのだと思いますよ、ねっ和さん!」
和久に確かめる様に問い掛ける武。
「流石は武さんですねっ、何もかもお見通しか! 小父さん、出来るか出来ないか分かりませんが、遣るだけ遣って見ませんか? お手伝いさせて頂けませんか……」
負担の掛からない言い回しで、源三に頼む和久。
話が決まり、山女の塩焼きを食べながら、再開店の計画を話し合う四人……尽きぬ話の中、加代には和久の部屋で寝て貰い、三人は飲み明かした。
翌日から数日間掛けて、源三の幼馴染である女性数人に手伝いを頼み、店や周りの掃除をして看板も書き直した……また、村長や里の人を招待しての試食会も済まし、朝霧は再開店をした。
湖の側に有る広大な駐車場の一角に、農産物の販売所も立てられ、観光シーズンに備えての準備が整った朝霧の里。
そして、源三達の思惑も当たり、桜が開花し始めた頃から来店客が増え出し、紅葉の季節が終わりを告げるまで、朝霧は大繁盛の日々を送ったのである。
最後の日を終えた和久と源三は風呂から帰り、囲炉裏の側で飲みながら、お互いを労った。
「和さん、有難う! あんたのお陰で長年の夢が叶ったよ……和さん、わしの願いを聞いてくれんか?」
立ち上がった源三は自分の部屋に行き、大きめの封筒を持って来て和久に渡した。
「朝霧の権利書じゃ! 何も言わずに受け取ってくれんか! それから利益の半分を……」
渡された権利書を見ると、名義が和久に変えられている。
礼を尽くしてくれる源三に感謝する和久。
「小父さん、有難う御座います……お言葉に甘えさせて頂き、権利書だけ頂きます」
和久は源三の礼に答えて、権利書だけを受け取った……それでも執拗に、利益を渡そうとした源三だったが、最後には和久の説得に従った。
診療が終って武夫妻が来たのは、それから間もなくしてだった……四人は思い出話に花を咲かせ、別れの前夜を語り明かした。