
その頃、最後の料理が出されたのを見届けた千恵子が厨房に来た。
「皆さん、御苦労様でした……お客様が、とても満足されていましたよ」
満足そうな顔で報告して、料理人の労を労った千恵子……そして、料理を持って来させて食べてみる。
一口食べた千恵子は、その違いを知り、宴会場で主催の社長に言われた言葉を思い出した。
「女将! 味付けが違うが料理人が代わったのかね? 実に美味い料理だ!」
そう言われた千恵子は、事の成り行きを社長に話した。
「そうか! しかし此れだけの人が、この味を知ったからなぁ……」
奥歯に物が挟まった様に言う社長。
思えば自分が和久に手伝いを頼んだ時、和久が少し躊躇した事の意味が分かった。
「女将さん、あの方は何者ですか? あんなに凄い料理人は初めて見ましたよっ!」
副料理長を任されている梅田が、考え込んでいる千恵子に問い掛けた。
「あの方は、大阪の料亭太閤楼の前料理長です!」
「えっ、では、天才料理人! 味の魔術師と言われた伝説の人、霧野 和久さんですか! どうりで……調理も素晴らしいが、何より、褒めながら的確に人を動かす術を心得ている! 女将さん、有難う御座いました! 良い勉強をさせて頂きました……」
梅田の言葉を聞いて、千恵子の不安が更に大きなものに成って来た。
不安の中、礼を言う為に太閤楼の女将麗子に電話をし、事の一部始終を話した千恵子。
「女将さん、お話は良く分かりました。 和久がお世話に成りまして、有難う御座います……ですが、御心配は要らないと思います! 和久がお手伝いを承知したのでしたら、何か考えが有っての事だろうと思います……礼節を弁えた子ですから……和久は元気にして居りましたか? お知らせ頂きまして有難う御座いました! でも、この電話の事は和久には内緒にしておいて下さい」
千恵子を安心させ、電話を切った麗子。
麗子の話を聞いた千恵子は、太閤楼の女将に全幅の信頼を受けている和久を信じて、もう一度だけ嘆願して見ようと決意した。
窓辺の椅子に座って考えていた和久は、決心が付いたのを確信しタオルを取って風呂に行く。
風呂から上がり部屋に帰る途中、玄関近くで宴会客を見送った仲居を見つけて昌孝に伝言を頼んだ。
部屋に帰り着替えた和久は、昼食を食べた定食屋に出掛けて行く……ガラス越しに見える店内は、満席状態だった……引き戸を開けて店内に入ると、昼間の娘が笑みを浮かべながら近付いて来た。
「いらっしゃい! お昼にも来て頂きましたね……此方にどうぞ!」
和久を覚えていた娘は、カウンターの端を空けてくれた。
腰を下ろした和久はビールを頼み、献立表を見て、昼間食べたサバの煮付と煮込みを頼んだ。
店の雰囲気を楽しみながら食べて飲んでいると、隣に居た客が勘定を済ませて出て行った。
時間が経つに連れて客が減り、和久の他に二組だけに成った時に、昌孝が入って来た。
「昌ちゃん、いらっしゃい!」
和久の横に立っていた娘が、大きく叫んで昌孝に近付き、何やら話しながら和久の方を見ている。
娘と一緒に和久の所に来た昌孝。
「すみません! 遅くなりまして……お袋が、宜しくお伝えしてほしいと言っていました! 本当に有難う御座いました」
詫びて礼を言った後、和久の勧めで横に座る昌孝。
昌孝にビールを注ぎ、自分の空いたグラスにもビールを注いだ。
「お疲れさん!」
労ってグラスを合わせた二人。
暫く飲んでいると、調理場に居た女性が二人の前に来た。
「小母さん、ご無沙汰しております」
昌孝は立ち上がって挨拶をした。
「此処の経営者の小母さんと、朱美さんです……幼馴染なんです」
見ていた和久に紹介した昌孝。
和久も立ち上がって挨拶をし、二人を交えて飲み始めた。
暫く飲んでいたら、女将が思い出したように昌孝に問い掛けた。
「昌! 今日、笹の屋で宴会が有ったやろ! 宴会に出た社長が帰りに寄って言っていたわっ……その社長は食通でなっ、笹の家は料理人が代わったって! 先代の後は味が落ちていたから客が減ったけど、今日の料理は凄かったって! 何年か前に食べた大阪の太閤楼に匹敵する味やって、良かったねっ! 私らも心配やったから……」
「はぁ……」
女将の話に生返事をし、困った様子で飲んでいる昌孝。
女将は、昌孝の表情を見詰めている。
「お母さん、社長さんが言っていた太閤楼のお料理って、そんなに美味しいの?」
興味を持った様に問い掛ける朱美。
「私も食べた事は無いけど、日本一の料亭やから美味しいのやろねぇ……」
話を聞きながら、昌孝の様子を見ていた和久。
「朱美ちゃん! 幾ら美味しいと言っても、毎日は食べられへんよねぇ……それに比べて此処の料理は毎日食べても飽きが来ない! 太閤楼のお客の殆どが名前だけで美味しいと思っているのかもねっ……それに小母さんの料理には、客への思いやりが感じられる! 小母さんの料理の方が上だと思いますよ! 此れが料理だと思いますよ」
昌孝に聞かすように話す和久! 和久の言葉を聞いた昌孝は、改めて和久の凄さを感じ取っていた。
女将は、そっと目頭を拭っている。
「ありがとう! 昔、同じ事を言ってくれた人が居ましたよ! 私が大阪の友達と二人で小料理屋を始めた時やった! その太閤楼の近くでなっ……後で知ったのやけど、太閤楼のご主人やったのや! 二人で感激してなぁ……」
女将の話を聞いて、大阪のオバちゃんの味に似ている事の謎が解けた和久。
頃合いを見計らった和久は、昌孝にもサバの煮付を頼んだ……昌孝の前に、サバの煮付が置かれるのを見た和久。
「昌、食べてみぃ……今までの概念を捨てて、煮付のだしに何が使われているか言うてみぃ……」
和久の言葉に従い、サバの煮付を食べる昌孝……神経を集中させて味を探った昌孝。
「んっ蜂蜜? まさか?」
味を確かめた昌孝が、ぼそっと呟いた。
その呟きを聞き取った和久。
「昌、今までして来た概念や、味付けの常識は捨てるのや!」
和久の一言を聞いた昌孝。
「はい! 蜂蜜だと思います……前に、生姜湯を作った時に蜂蜜を使いましたが、その時と同じ味がしました! 間違っていますか?」
和久を見詰めて、自信が無さそうに問い掛ける昌孝。
返答を聞いた和久は、酒を飲みながら微笑んでいる。
「昌、女将さんに聞いてみぃ……」
一言言って、盃を口に運んだ和久。
「小母さん! どうですか?」
女将を見詰め、祈るように聞く昌孝。
「この味付けに蜂蜜を使っていると聞いたのは、太閤楼のご主人とで二人目ですわ! この人には分かっていたようやけど……」
和久を見ながら、昌孝の問い掛けに答えた女将。
そして、昌孝を見た女将。
「昌孝! この人は何者や!」
女将の問い掛けに、全てを話した昌孝。
「そうか! 今日の料理は霧野さんの指示か、どうりで……」
女将は昌孝の心中を察した。
そして先程、和久が昌孝の味覚を試した事も……
時が経ち、浮かぬ顔で店を出掛かる昌孝。
「昌孝、心配は要らんから……」
女将は、安心するように言って二人を見送った。