5年の歳月は瞬く間に流れた。
一人息子の小竹 正晴は和久の年季を知って、血の滲むような精進をし、和久もまた労を惜しむ事無く、先代の教えのままに正晴を鍛えた。
先代の血を受け継いだ正晴は、精進のかいも有って瞬く間に先輩達を超え、和久の後を継いで太閤楼の料理長に就任した。
和久が退社する前日、麗子に呼ばれて社長室に行くと、麗子と正晴が応接椅子に座って待っていた! 正晴は立ち上がって和久に頭を下げ、和久に座るよう勧めた……麗子の前に座った和久。
麗子は、寂しそうに和久を見詰めている。
「和さん、いよいよやねぇ……長い間ご苦労さんでした! 正晴の事もありがとう。 それから此れは、あんたが来てからのお給料です! 食を探しての旅に出るのなら、住所が必要になる時が有る! 落ち着く先が見つかるまで、此処の住所を使いなさい! 何か有ったら何時でも戻って来るのやでっ……あんたの家なんやから……」
和久を労った麗子は、通帳と印鑑、それに保険証を手渡した。
「女将さん、何から何までありがとうございます。 何と言って良いのか分かりません……大恩が有るのに、勝手を許して頂いて申し訳ございません」
やっとの思いで、此れだけを言った。
「兄さん、ありがとうございました! まだ自信は有りませんが、親父と兄さんが守って来た太閤楼の調理場を守って行きます」
「正、お前なら大丈夫や! そやけど大任やから精進してなっ。 何か有ったら何時でも知らせてなっ……わしに出来る事なら何でもするからなっ!」
実の弟を励ますように言う和久。
最後の調理が終った後、和久は慣れ親しんだ持ち場を磨き上げ、正晴を誘って居酒屋のオバちゃんを訪ねた……10時過ぎだが、店内に客の姿が無い。
「おおっ和、来たか! 待っていたでっ、此処に座り!」
いかにも待ちかねて居た様な、オバちゃんの笑顔である。
「オバちゃんお客は?」
心配顔をして問い掛ける和久。
「お母ちゃんなぁ、和さんが来るからみんな10時で帰らした……」
笑いながら説明する明美。
「無茶しよるなぁオバちゃんは……」
そう言いながらも、和久はオバちゃんの気持ちが嬉しかった。
「オバちゃん、太閤楼の料理長です!」
椅子から立ち上がり、嬉しそうに正晴を紹介した和久。
「おおっ、あんたが先代の息子さんか! 親父さんより男前や!」
正晴を見詰め、目を細めるオバちゃん。
「小竹 正晴です! 親父や兄さんと同じように、宜しくおねがいします」
立ち上がって頭を下げ、自己紹介をする正晴。
「こっちこそ、よろしゅうなっ……これは娘の明美です」
紹介された明美は、微笑みながら頭を下げた。
「明美、あんたも座りなはれ! 和の門出を祝って宴会や!」
寂しさを隠すように、はしゃいでみせる女将。
出された料理に箸を付けた正晴は、料理を見詰めている。
「美味い! 親父や兄さんが通って来たのが分かります……兄さん、世の中には凄い人が居るものですねっ、良い勉強になります」
正晴の言葉を聞いて、改めて安心した和久。
「正! それ以上言うな、オバちゃんが泣きだすから……」
女将を見ると、下を向いて目を拭っている。
「おおきに正晴! 先代も喜んでいるわ……よう精進したなぁ、和! ようやった! ようやった!」
目頭を拭い、心底から喜ぶオバちゃん。
女将を見た和久は、ゆっくりと立ち上がった。
「オバちゃん、明美ちゃん、長い間ありがとうございました! 明日出掛けます。 正晴の事よろしくおねがいします……正、女将さんにも相談が出来ん事が起こったら、オバちゃんに相談したらええからなっ!」
そう言って、深々と頭を下げた和久。
「はい! 小母さん明美さん、よろしくおねがいします!」
立ち上がった正晴も、深々と頭を下げた。
二人の言葉に感極まった女将。
「うんうん、おおきに……こんなオバはんに、ありがとうなっ……」
女将の言葉に、明美も涙ぐんでいる。
別れの時が来て、二人が出掛かった。
「和、よう精進した! 気を付けて行くのやでっ!」
和久の手を握り締めた女将! 温かい優しい手であった。
「オバちゃんも体を大事になっ! 行って来ます」
握り返した和久の目から、光るものが落ちた。