
久し振りにソバと押し寿司を作った和久は、武夫妻を昼食に招いた……だが夕子が二人に見せた笑顔に変わりは無かった。
食事が済み、夕子と加代は外でダイスケと遊んでいる。
「夕子君が来てから一週間か! 先程見せた笑顔ではなぁ……まあ、難しいのは初めから分かってはいたが……」
武は気長に遣れよ! と言いたかったのだろう。
此れまでの経過をつたえる和久……聞いている武に同情の色が見て取れる。
「だがなぁ武さん、毎晩夢を見て泣き叫ぶ夕子が哀れでなぁ……見守る事しか出来ん自分が情けのうてなぁ、出来る事なら代わって遣りたいと思うでっ!」
辛い身の内を明かす和久である。
「うん、しかしなあ和さん……あんたとダイスケにだけでも、昔の笑顔が戻って来たのなら、少しは希望が出て来たという事だ! 希望は有る!」
武に励まされたが、自信が無さそうに頷く和久。
翌日、夕子とダイスケが小川沿いの探索に出掛けている時に、待っていたスープの食材が正晴から届いた。
早速調理に掛かる和久……二日後、出来上がったスープの味見をした和久は大きく頷いた。
「美味い! 太閤楼で作った味と同じやっ!」
和久は外で遊んでいる夕子とダイスケに留守を任せて、診療所にスープを持って出掛けた。
診療所の横に在る武の家に上がり、台所を借りてスープに火を通した和久。
「此れが皇帝料理のスープや! 太閤楼で一回だけ作ったスープや、武さん、加代さん、飲んで見てくれや!」
台所の椅子に座って、調理を見ていた二人に勧める和久。
「綺麗な色、それに良い香り……」
呟きながら、一口飲んだ加代。
「美味しい……」
放心したように言って飲み干し、和久を見た加代。
「美味い! 此れが味の魔術師と言われる所以か! こんなに美味いスープは初めてだ! 料理とは凄いものだなぁ……たった一杯のスープが、こんなにも人の心を和ませるとはなあ……」
武は感動して褒めた。
「おおきに!……此のスープは、夕子が太閤楼に来た時に始めて作ったのや! 後で女将さんに聞いたのやが、涙を流していたと言うてた……此のスープを覚えてくれていたら良いけどなぁ……」
藁にもすがる思いで、調理した事を話した和久。
「大丈夫ですよ和さん! 和さんの気持ちは、きっと伝わりますよ!」
加代は微笑みながら言い切った。
和久が席を立って帰り掛けた時。
「和さん、そんな大切なスープを如何して飲ませてくれたのだ?」
和久の後ろ姿に声を掛けた武。
「わしにとって、大事な人やからや!」
和久は振り返らずに言い、手を上げて挨拶をした。
家に帰ると、山女が泳ぐ小川の側に夕子とダイスケが見えた……ダイスケは何時もの様に、泳ぎ回る山女に吠えている。
荷物を置き、タオルと水を入れた竹の水筒を持って夕子達の所へ行くと、ダイスケの仕草が面白いのか、夕子が大笑いをしている。
「夕子、夕日を見に行こうや! 夕焼けも綺麗やでっ!」
夢中でダイスケの仕草を見ていた夕子は、和久の声にちょっと驚いたが、素直に頷いて山頂への階段を上がって行く。
山女と遊んでいたダイスケは、二人の姿が遠くなるのを見て、慌てて追い掛けて来た。
山頂に着いた二人を金色に輝く茜雲が迎えてくれ、夕子の額に流れる汗が、夕日に照らされて宝石の様に輝いている。
汗を拭き、水を飲んだ夕子は、沈む夕日に手を合わせている。
「またお願いしたのか? 太閤楼の和さんの事を……」
和久の問い掛けに、恥ずかしそうに微笑んで頷いた夕子。
「そうか、優しいのやなぁ夕子は……」
「それとねっ、此処で何時までも暮らせますようにって……」
蚊の鳴くような声で言い、ダイスケを抱き上げた夕子。
「うん、夕子がそうしたのなら、此処に居ったらええ……」
複雑に揺れ動く夕子の気持ちを察した和久は、安心するように言った。
「本当、和さん! 此処に居ても良いの?」
子供の様に目を輝かせて確かめる夕子……夕子の嬉しそうな顔を見て、毎夜魘される現実が恨めしく感じる和久である。
和久は夕子の問い掛けに、優しく夕子を見詰めて大きく頷いた。