テレビに映し出された夕子……夕子が歌い出すと、店内は静まり返って夕子の歌に聞き惚れている。
歌を聞きながら、夕子との出会いを思い起こす和久。
番組が終り、客も減り始めた頃に昌孝が来た。
「兄さん! 有難う御座いました……小母さん、朱美ちゃん、お疲れ様です」
和久に頭を下げて横に座る昌孝。
二人の前に女将が来た。
「小母さん、新しい料理長です! 宜しく引き立ててやって下さい!」
立ち上がって、誇らしげに紹介する和久! 昌孝も立ち上がって、ぺこりと頭を下げた。
「そうですか! 昌、おめでとう……それでは煮込みは出来たのですねっ?」
目を細めて聞く女将。
「小母さん、残念ながら出来ませんでした! あの煮込みは誰にも出来ないそうです! 兄さんにも……」
自信を持って経過を話す昌孝。
「出来なかったのに料理長になれたの? 昌ちゃん、どうして?」
不思議そうに問い質す朱美。
「うん、兄さんに言われた言葉の意味が分かったから……(味に対して謙虚に成れ)と言う……」
昌孝の話に半信半疑の朱美だったが、全てを理解した女将。
「そうか昌、よう精進した! おめでとう!」
女将は自分の事の様に喜び祝ってくれた。
翌日から、笹の家の厨房には、料理長として指揮を取る昌孝の姿が有り、何も言わずに、昌孝を見守る和久の姿が有った。
昌孝が料理長として指揮を取り、一ヶ月が経とうとしていたが、依然として客足の絶える事は無く、予約で埋まっている。
約束の期日まで3日に迫った日、千恵子が昌孝と一緒に部屋に来た。
「霧野様、お願いが有って来ました! お部屋を移って頂きたいと思います! 此れだけは、是非にもお聞き入れ下さいませ!」
断り切れない千恵子の眼差しを見て、言葉に従う和久。
千恵子に案内された部屋は、露天風呂付きの特別室であり、夕食は一晩だけの約束で甘える事にした。
部屋を移り、露天風呂で体を癒した和久は、昌孝の指揮する料理に満喫していた……旅立ちの前日、厨房から帰って来た和久は、風呂から出て朱美の店に行く。
客が居なくなった所へ昌孝が来た。
女将と朱美に頭を下げて、和久の横に座った昌孝。
「兄さん、いよいよですか! 寂しくなりますが、有難う御座いました」
それだけ言うのが精一杯で、寂しさを隠すようにビールを飲み干した。
「霧野さん、どちらに行かれますか?」
前に座って、話を聞いていた女将が問い掛けた。
「はい、朝霧の里に行こうと思っております! 猪鍋とソバが美味いと聞いたものですから……」
和久の言葉に頷く女将。
「ああ、源さんの所ですか……」
懐かしそうに言った女将。
「小母さんは朝霧と言う店を御存じなのですか?」
驚いたように女将を見詰めて問い掛けた。
「その、源さんと言う人とは幼馴染でねえ……大谷 源三と言って、代々の大地主ですよ! 色々と失敗して、殆どの土地は手放したと言って笑っていましたがねっ、今住んでいる所を除いてね! 観光客を目当てに『朝霧』と言う店で、猪鍋とソバを出しているらしいがねっ! 変り者だが良い人ですよ!」
女将の話を聞いた和久は、直ぐにも出掛けたい衝動に駆られていた。
別れの時が来て、椅子から立ち上がった和久と昌孝。
「小母さん、朱美ちゃん! お世話に成りまして有難う御座いました。 昌の事を宜しくお願いします! 体に気を付けられて下さい……お元気で!」
気持ちを伝え、昌孝の事を頼んで頭を下げる和久! 涙ぐんでいる朱美と女将に別れを告げ、二人は笹の家に帰って行く。
翌日、朝食を済ませ旅の支度を終えた所へ、千恵子と昌孝が入って来た。
千恵子は袱紗の掛かった盆を持ち、昌孝は紙袋を持っている。
二人は和久の前で正座をし、両手を付いて頭を下げた。
「霧野様、この度は何とお礼を申し上げれば良いのか分かりません! 本当に有難うございました。 付きましては誠に失礼とは存じますが、何とぞご笑納頂ければと思います……」
千恵子は持って来た盆をテーブルに置いた! 置かれた盆の袱紗を取ると、盆の上には大金が置かれている。
千恵子を見詰めた和久。
「女将さん、有り難く頂きます!」
千恵子の決意を汲み取った和久は、いとも簡単に大金を受け取った。
そして、従業員の人数を聞き、その分の金額を取って昌孝に渡した。
「昌、此れを封筒に入れて、お世話に成りましたと言って渡してくれないか! 其れから、お前の料理長の就任祝いをして無かった! 此れは就任祝いや! 受け取って欲しい……」
貰った全額を渡した和久。
黙って和久の言動を見ていた千恵子。
「霧野様! 其れでは……」
言いかかった千恵子の言葉を制した和久。
「女将さん、女将さんの誠意は確かに受け取らせて頂きました! 有難う御座いました……楽しかったです。 昌、料理に限界は無い! 精進してなっ! ところで其れは何や?」
昌孝が持って来た紙袋を見て、問い掛けた和久。
「あっ兄さん! 此れは、お袋が作った握り飯です……お口には合わないかも知れませんが、昼飯にと……」
昌孝の返答を聞いた和久。
「アホか昌、其れを先に言わんかい! 女将さん、昌、此れは頂いて行きます」
嬉しそうに、握り飯が入った紙袋を受け取った和久……子供の様に喜んだ和久を見詰めて、目頭を拭う千恵子。
和久の荷物を持って、一足先に昌孝が部屋を出た。
和久が千恵子と共に部屋を出掛かった時。
「和さん、本当に有難うございました……でも、どうして助けて頂けたのかと、ご迷惑をお掛けしたのではと考えていました」
見知らぬ自分達を助けてくれた事が理解出来ずに、尋ねる千恵子。
千恵子の問い掛けに、少し間を置いた和久。
「境遇が太閤楼と似ていたのと、太閤楼の母さんの面影に、女将さんが似て居られたので、何とかお手伝いが出来ればと思いまして……お陰で楽しい時を過ごす事が出来ました! 有難う御座いました……」
千恵子の真剣な問い掛けに答えた和久。
「和さん……」
謙虚な和久の言葉を聞いて言葉に詰まった千恵子は、綺麗な目に涙を溜めて和久の胸に顔を埋めた。
「和さん、必ず帰って来て下さいねっ!」
やっとの思いで其れだけを言った千恵子。
和久は、女手一つで笹の家を守って来た千恵子の小さな背を、そっと抱き締めた。
少しの時が流れ、部屋を出た二人は玄関に向かって歩き出す……長い廊下の途中、そっと和久の手を握り締める千恵子。
玄関に着くと、泊り客が帰ったロビーに全従業員が集まっている……和久は礼を言い、昌孝の事を頼んで車を出した。
四月の爽やかな風が、笹の家に福を残して駆け抜けて行った。