障がいは人それぞれです。重度、軽度、精神、身障、知的障がい、
どの障がいでも、例えば身体障がい一つとっても、腕や脚を事故で無くした人
、脊髄損傷でまったく動けない人、難病を患っている人、
こうして身体障がい一つとってもこれだけ出てくるのです。
キリがありません。そうした中で自分が如何にして輝けるのか。
難しいテーマです。でも、だからこそ「夢」を持つことは大切なのです。
何しかできないではなく、自分はこれも出来る、あれも出来る、と可能性を信じるのです。
難しく考える必要は全くありません。「自分を信じる」この一言に尽きるのではないでしょうか。
具体的には、なりたい職業があるとします。その職業を目指そうにも、
障がいを持っているが所以に難しいかもしれません。ですが、そこで自分の「可能性」を信じ、
その職業になれなくても、同じ業界で補佐的役割はできると思うのです。
どこまでが現実味を帯びるか私には分かりません。ですが、
放棄してしまえば可能性はゼロになってしまいます。
障がい者だから、どうせ私は…、的な考えは自分で自分を否定する、自らを差別しているのと同じです。
私事で申し訳ないのですが、私も色々な沢山の苦汁を舐めてきました。
でも、希望だけは捨てなかったおかげで、今があると思います。障がいを持ったきっかけで、
視野も広がりましたし、いろんな障害を持った方とも交流することができました。
綺麗ごとかもしれませんが、人生を豊かにしてくれたのは、障がいを持ったことがキッカケでした。
私は精神障がいを持っています。何故に他の障がい者、
カテゴリーの違う障がい者の気持ちがわかるのかと問われると、それは分からないです。
当然ですよね。でも、だからこそ私にしかできないアドバイスも、微力ながら送ることはできると思います。
私に言えることはこれくらいですが、どんな境遇であっても、
「希望」と「感謝」と「祈り」この三つは忘れないで欲しいと思うのです。
私は無神論者です。そんな私が何故に「祈る」ことを選んだか、
祈るというのは何も神さまと向き合うためだけの行為ではありません。
勿論神さまとの会話は神を信じる方にとって、最も重要で崇高な行為でしょう。
「祈り」というのは誰かのために祈る、幸福や幸運または、助けを乞うのも「祈り」です。
祈りは「愛」です。人間にしか持っていない感情です。
おそらく、祈ったことがない人はいらっしゃらないのではないでしょうか。
神と対話することと、誰かのために祈ることはイコールだと考えています。
何故なら前述したとおり、同じどちらも「愛」だからです。
次に「感謝」これも「祈り」と同じくらい重要な意味を持ちます。
日々の些細なことにでも料理を食べられる幸せ、争いごとがなかった日には安堵、
よく眠れた日には安らぎ、日常には感謝すべき事に溢れています。
人は一人では生きていけないとよく言われますが、全くその通りで、人に支え、支えられ私たちは生きています。
それも感謝という表現以上に当てはまる言葉は無いのではないでしょうか。