スポーツとは体罰あって成り立つものなのだろうか?
部活の顧問による体罰で生徒が自殺した。
この種の事件があるとかならずこのような意見が聞かれる。
今時の子供は弱い。
自分たちの時は体罰なんて当たり前だった。
たしかに私たちの頃は体罰が当たり前だった。
特に学校が荒れているという時代背景もあっただろう。
じつに私たちは簡単に教師に殴られたもんだ。
そして私たちの親もそれを容認していた。
しかしそれを当たり前として、
はたして良いものだろうか?
体罰を受けて成長した私たち親の年代、
そして受けた体罰をまるで武勇伝の如く語り、
今の子供を軟弱だとかたずける。
はたして我々は体罰によってそんなに強く成長したのだろうか?
私たちは戦後生まれだが、
果てしなく遠い戦後の生まれという訳ではない。
せいぜい戦後20~30年そこらである。
という事は私たちを教えていた教師たちは、
戦中あるいは戦後間もなくの生まれであり、
その者たちが受けた教育は、
軍国主義が色濃い時代の者たちによる教育だ。
だから人を殴るという事は当たり前だったかもしれない。
暴力は連鎖をするという。
殴っている者はかって殴られた者だが、
何故だか殴られた痛さをすっかり忘れてしまっている。
今時の子供は殴り合いをしないから加減を知らないという。
たしかにそれは一理あるけれども、
殴られた者が殴る立場になったとしても、
殴られた痛さを覚えていなければ加減が解らない。
殴る者、殴る事を容認する者は、
愛の鞭という言葉を好む。
だが本当の愛の鞭というのは頻繁には振るわない。
強くなる為には厳しさはたしかに必要である。
人よりも上に行く為には強靭な精神力が必要だ。
だが頻繁に行われる無意味な体罰では、
強靭な精神は養われない。
何故なら殴られて学ぶのは痛いという苦痛だけ、
いかに殴られないように振舞うかである。
根底に恐怖がある強さは本当の強さではない。
弱い犬ほどよく吠えるというあれだ。
精神力を鍛えて身に付けた技を100とすれば、
恐怖で教え込まれた技は半分にも満たないであろう。
だが恐怖はいとも簡単に相手を殺す事ができる。
だから軍隊は殴って精神的恐怖を植え込むのだ。
今時の子供は弱い…?
殴られる事を当たり前とする我々の年代と、
今の若者がスポーツで残す成績の違い。
これを単純に見ただけでも、
スポーツに体罰が必要という公式は成り立たない。