つい最近のことだ。バスの車窓から夕暮れの路上に座り込む一人の男を見た。上半身は裸だった。よく見かける路上生活者が持ち歩いている、バッグも見当たらなかった。家族が居るようでもなかった。やることもなくただ視点の移動だけを続けていたので、とても不安そうに見えた。この国の路上生活者からは活力を感じることが多いが、この男の姿は無気力を象徴しているようだった。
この男の状態は何も所有しない生活を理想と仰いでいた私にとって、その境地に到達した姿を見たような気になってもいいはずなのだが、全くそうならなかったばかりではなく、ああいう風にはなりたくないと心の底から思ってしまった。危険、不衛生、孤独、連想される印象が全てネガティブなものばかりだった。結局、何も持たない生活が理想といっても、それはある種の安全と快適性が保たれるという大前提が存在していたのだ。無所有が理想という概念は、自己の都合で現実を湾曲させただけの似非理想だったことを痛感した。
何も持たない理想的な生活は結局のことろ空想の世界にだけ許されるということなのだろうか。
続く
この男の状態は何も所有しない生活を理想と仰いでいた私にとって、その境地に到達した姿を見たような気になってもいいはずなのだが、全くそうならなかったばかりではなく、ああいう風にはなりたくないと心の底から思ってしまった。危険、不衛生、孤独、連想される印象が全てネガティブなものばかりだった。結局、何も持たない生活が理想といっても、それはある種の安全と快適性が保たれるという大前提が存在していたのだ。無所有が理想という概念は、自己の都合で現実を湾曲させただけの似非理想だったことを痛感した。
何も持たない理想的な生活は結局のことろ空想の世界にだけ許されるということなのだろうか。
続く