郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

伯耆 十万寺所在城跡 ~もうひとつの太閤ケ平~

2020-10-30 11:26:58 | 城跡巡り

 鳥取県西部の東伯に南条氏の羽衣石城がある。南条元継は秀吉の中国攻略のとき毛利から織田に寝返えったため、羽衣石城周辺で毛利方と小競り合いが続いていたが、毛利方の吉川元春が馬ノ山へ陣を敷き南条氏の羽衣石城に対陣した。それを知った羽柴秀吉は羽衣石城の南条元継を援護すべく伯耆に向かった。秀吉は、吉川元春の馬ノ山砦への付城(陣城)を築いた。それが十万寺所在城というのだ。 
 それを確かめるべく十万寺に向かった。





▲十万寺所在城跡全景




十万寺所在城跡   鳥取県東伯郡湯梨浜町羽衣石


 十万寺所在城跡は十万寺集落の北に聳える標高423.3mの山に築かれ、羽衣石城からは谷を隔てた南方に位置する。頂上に小さな曲輪を数段有しその北西に堀切を挟んで主郭がある。主郭は北と東の尾根筋を大きな空堀で分断し、広い曲輪(東西約70m、南北約50m)の周囲に土塁を設けている。主郭の南西に鞍部がありその北西に延びる尾根筋に段曲輪が続く。

 令和元年度からの城郭調査により十万寺の城跡の構造の分析より、羽柴秀吉が築いた陣城跡であると判断された。広い土塁囲みの曲輪や空堀、堀切、段曲輪等秀吉が当時築いてきた一連の陣城に酷似し、この周辺の山城には見られない職豊系の城跡をもつ。
 『信長公記』に秀吉が伯耆に出陣した記述がある。毛利方の吉川元春が馬之山に居陣し羽衣石城への攻撃を見せたため、秀吉自ら伯耆に出向き、南条氏の援護に羽衣石への兵量の補充と吉川の陣への陣城を築いた。その陣城がこの十万寺所在城で、「たいこうがなる」と十万寺の村人に伝わっていることもそれを後押ししているようだ。
 従来、秀吉の陣は馬の山(106.9m)(梨浜町大字上橋津)の毛利勢に対して秀吉は御冠山(標高186.4m)(同町大字宇谷)に陣を敷いて対陣したと言われてきたが、御冠山には陣跡の痕跡はなく、江戸時代以降の創作とみなされている。





▲位置図          by Google Earth




▲赤色立体地図  2019羽衣石城シンポジウム冊子より




▲登城イメージ



アクセス  


羽衣石川上流域を進み十万寺の集落の行き止まり近くまで車を進め、空き地に車を止めて歩く。ここからは中国自然歩道となっている。




▲車道の終点近く


▲車道の切れた地点



車道の切れた地点を進む。左上に十万寺の城山が見え始める。




▲城山


 
▲案内標示の羽衣石城跡4.9kmは自然歩道を通る道のりを表す    ▲谷川には頑丈な石積みが敷かれている



1kmほど歩いたところに、ぎゃあーるご水(蛙池)という場所に至る。
案内標示には、ここから200mのところが十万寺(小字)とある。





▲ぎゃあーるご水 ぎゃあーるとは蛙(カエル)のこと




  
▲谷川沿いの道をあるく



 歩きかけて20分ほど進んだところに分岐がある。赤テープを巻いた杭がありここを左に折れる。(この分岐をうっかり見落とすと大変 (^^; )
 ここから城山の急な東斜面を登ることになる。足元がすべりやすいので注意。



    
▲ここを左折する(赤の杭が目印)              ▲急斜面だがもうすぐ



ここを登り切ると、広々とした空間が現れる。尾根筋を切った空堀をぬけ、その先を進むとまた大きな空堀と傾斜のある切岸が見られる。



 
▲登り切ったところ                       ▲空堀



▲主郭北の大きな空堀




▲上に見える場所に主郭がある



上に登ると、土塁に囲まれた広い曲輪がある。これが主郭だ。




▲主郭 土塁に囲まれた広い曲輪 これが地元で「たいこうがなる」と伝わったゆえんだろう。




▲主郭北側 土塁が取り巻く





▲主郭から北を望む 羽衣石城と本郷池、日本海が見える



主郭の南東にはこの城山の頂点(三角点423.3m)がある。その途中に堀切があり、頂上には小さな曲輪が幾つか取り巻いている。





▲堀切 この右上は頂上で曲輪がある



雑 感

 天正9年(1579)6月25日鳥取城攻めに秀吉は3万の兵で姫路より挙兵し、7月25日には鳥取城の包囲網を完成させたという。その戦いに秀吉は鳥取城に対する付城を帝釈山(本陣山)に築いている。それが太閤ケ平(たいこうがなる)という。
 この呼び名と同じものが十万寺集落に伝わっていたという。土塁に囲まれた曲輪は、確かに本陣山の太閤ケ平と規模の差はあってもよく似ている。

 調査で御冠山の陣の伝承が見直をされ、秀吉の陣城が十万寺所在城であるということが確かめられ、東伯の戦国史が明らかにされたことは、大きな成果だったと思う。ここにも航空レーザーによる赤色立体地図が大いに役立ったようだ。


 

▲秀吉が築いた太閤ケ平 土塁に囲まれた広い曲輪




【関連】
伯耆 羽衣石城跡
伯耆 番城跡

播磨・宍粟の城跡一覧





伯耆 羽衣石城跡 ~ 南条氏の城 ~

2020-10-16 07:16:59 | 城跡巡り

   山陰の東伯耆に羽衣石(うえし)城という城跡があることを知った。地図で見ればけっこう山手に入ったところにあるが、道や駐車場が整備されているようなので、2年前に一人で出かけた。翌年2019年11月に湯梨浜町で羽衣石城のシンポジウムが開催されることを知った。そこで、新しい調査による新発見が報告されるというので、後日その情報をつかみ城郭仲間数人で羽衣石城とその北と南にある城跡を目指した。途中少し道を踏みまちがえた以外は首尾よく目的地に到達することができた。






▲羽衣石城跡 山麓から




▲羽衣石城赤色立体地図  2019羽衣石城シンポジウムパンフより





羽衣石城跡   鳥取県東伯郡東郷町羽衣石(現同郡湯梨浜町)                                                         

 伯耆国の東に位置した羽衣石山の頂上(標高372m)に本丸(東西約70m、南北20mの長方形)を設け、その周辺に帯曲輪を設けている。広範囲にわたって西を意識した多くの曲輪、堀切等を有している。
 築城は14世紀中頃といわれている。城主は南条氏でこの城を拠点に東伯耆地方に勢力を張った国人(国衆)であった。南条氏は守護山名氏に被官し、守護代をつとめている。

 戦国時代には尼子氏の侵入に翻弄され、城を一時追われるが、毛利の勢力が伯耆に及ぶと帰城した。天正7年(1587)秀吉の中国攻めで毛利が不利とみた元継は、秀吉側についたため、毛利方の吉川元春との攻防が続き、同10年(1582)の本能寺変後に、羽衣石城は吉川元春配下の山田重直に占拠され、元続は城を追われ播磨に落ち延びた。
同13年(1585)豊臣氏・毛利氏の領土交渉により帰城する。秀吉の治世には、南条氏は八橋以西を除く三郡を治める近世大名4万石となる。慶長5年(1600)関ケ原の戦いで、元継の跡を継いだ元忠は西軍に属したため改易され、羽衣石城は廃城となった。








羽衣石城の攻防

・貞治5年(1366年)、南条貞宗が築城と伝わる。
・大永4年(1524年)、大永の五月崩れによって羽衣石城落城。尼子領となり、南条宗勝は山名氏に逃れる。(近年の研究ではこの五月崩れの存在自体が否定されている)
・天文15年(1546) 宗勝、武田国信の要請を受けて尼子方を離れると同時に羽衣石城から退去。
・永禄5年(1562)  宗勝、毛利氏の支援を受けて羽衣石城を回復。
・天正7年(1579)  元続、毛利方に背き羽柴秀吉方につく。
・天正9年(1581)  吉川元春・元長、馬野山に布陣。鳥取城を落とした羽柴秀吉軍が馬野山で吉川元春軍と対陣。両者共に退く。
・天正10年(1582) 吉川元春配下の武将山田重直により落城。
・天正13年(1585) 織田氏と毛利氏の領土交渉により元継、帰城。
・慶長5年 (1600) 南条元忠西軍につき敗れ、廃城。
・慶長17年(1612)南条元忠大阪冬の陣で、徳川方の藤堂高虎への寝返り発覚により大阪城内で切腹。


『信長公記』巻十四の天正9年10月26日に羽柴秀吉が伯耆へ出陣した記事がある。
 〈現代訳文〉伯耆には織田方に味方する南条元継と小鴨元清の兄弟が居住する城がある。そこに吉川元春が出撃して南条の城をとり囲んだと報告があった。秀吉は南条を見殺しにすることは、物笑いとなり無念であるといい、吉川軍を後方から攻め、東西の軍が接近して一戦に及ぼうと、26日にまず先発隊を遣わした。
28日秀吉が出陣した。因幡と伯耆の境目に織田方の山中鹿助と、弟亀井真矩(茲矩 )が居城していた。秀吉はここまで進軍した。ここから伯耆までは山中谷合いの大変な難所であったが南条の城へ急いだ。南条元継は羽衣石城を守り、小鴨元清は岩倉という所に居城し、両人とも織田方に忠節を貫いていたので、吉川元春が進撃し、羽衣石・岩倉の両城を攻撃するため、羽衣石城から30町ほど離れた馬の山という所に陣を張った。
 そうして、伯耆では秀吉は羽衣石付近に7日在陣し、国中に兵を遣わせて兵糧を取り集め、蜂須賀小六、木下(荒木)平太夫の二人を吉川軍の備えとして馬之山に差し向け、秀吉は羽衣石・岩倉両城に連絡、軍勢と兵糧、弾薬を充分補充し来年の春に決戦することを申し合わせた。11月8日秀吉は播州姫路に帰陣した。吉川元春もなすこともなく軍勢を引き上げた。








▲鳥瞰   by Google Earth




▲縄張り図 2019羽衣石城シンポジウムパンフより



参考文献:『鳥取県史2中世』、『倉吉市史』、『県史 鳥取県の歴史』、『山陰の戦国史跡を歩く』、『信長公記』太田牛一著中川太古訳、「2019羽衣石城シンポジウム資料」



アクセス


東郷湖の南に東西に延びる県道22号線の羽衣石橋より羽衣石川に沿って南の谷を進む。



 
▲県道22号線  交叉点にある羽衣石城跡案内図





 



案内板に従って進むと、駐車場に至る。トイレも用意されている。



 
▲広い駐車場                                                                                  ▲トイレ




▲右の登山道登り口 



ここから山頂まで約15分、左にある登山道は20分程度と案内図にあるが、もう少しかかるようだ。 
登りかけてまもなく、右に八幡神社の案内があり、そこに立寄る。この辺には、数段の曲輪跡があり屋敷跡と推測されている。



  
▲八幡神社              




▲石垣
 


登山道の右に石垣が待ち構えている。





   
▲羽衣の池の案内板                ▲羽衣の池

  
左に羽衣の池と名付けられた水場があり、そこへ入っていくと、幅数mの水たまりがあった。籠城には欠かせない水場で、この水は枯れることはないという。







途中に巨石群があり、圧倒される。



   
▲巨石群▶              



巨石群を抜けると頂上だ。




▲展望台




▲東郷池と日本海が眼下に見える素晴らしい眺め




▲主郭への虎口を登る




▲広い主郭の西端に模擬天守がある 




▲主郭東の下の段



▲下の段からみた主郭(本丸)




雑 感

 初めて城跡に登った時、南条氏の勢力はかなりのものだと思った。城主はこの城を二百数十年間もの間死守してきた。戦国乱世には、尼子の侵入に対し従属、離反のあと、毛利との提携と離反。毛利・織田の両者にとって譲れない山陰の要衝にあり、この地の争奪に巻き込まれ翻弄された武将で、それは備前の宇喜多氏によく似ている。両者とも織田方に寝返ることを決意したのは天正7年(1579)。そうして秀吉の治世に南条氏は東伯耆で4万石の大名となったが、それも長くは続かず16年後、関ケ原の戦いが待ち受けていた。山陰地方のほとんが西軍に属し、消えていった。

 羽衣石城跡の主郭には、昭和の時代に南条氏の末裔によって模擬天守(鉄骨・トタン葺き)が建てられていた。平成になり、「ふるさと創生1億円事業」で新しい模擬天守や道・駐車場等整備された。そのとき建設前の発掘のとき主郭からは瓦は発見されなかった。元々主郭にあった建築物は板葺だったと考えられ、それゆえ中世・戦国期の城跡に瓦を用いた近世様式の創作天守は、ありえない創作物で、来る人に誤った城郭の認識を与えかねない問題を残している。

 一方近年、この羽衣石城跡の北部と南部に2城(番城跡と十万寺所在城跡)が調査報告され注目を浴びています。次回は、その一つ十万寺所在城跡を予定しています。


【関連】
十万寺所在城跡

伯耆 番城跡

城郭アドレス一覧




広瀬宇野氏滅亡後の宍粟

2020-09-13 10:31:12 | 城跡巡り


▲宇野氏が活躍した広瀬(宍粟(しそう)市山崎町)の鳥瞰図 by Google Earth






広瀬宇野氏滅亡後の宍粟               
                

 宇野氏は室町期から中世・戦国時代を通じて赤松氏のナンバー2として宍粟郡広瀬(山崎)にあり約200年余りの間、播磨守護代と西播磨八郡の守護代を勤め宍粟郡を統治している。最後の当主宇野祐清のとき羽柴秀吉軍により、立て籠る長水城を落とされ、千種町で追手の木下平太輔(荒木重堅(しげかた))、蜂須賀小六・家政父子により討ち果たされた。今から440年前の天正8年(1580)5月10日の事である。
 ここでは宇野氏の滅亡後の天正8年から元和元年(1615)の35年間の宍粟郡の戦後処理と新領主とその動き等について郷土資料集第二集をもとに、年次順にとりあげた。


▶天正8年(1580)5月12日長水城大手に当たる田恵村に禁制が掲示される

 長水城落城の二日後禁制が掲げられた。その場所は長水城の大手で現在の山崎町宇野字構の伊水小学校の地。禁制(※1)の旧蔵者は山崎町宇野直近の居住者であることから、現在の宇野は田恵村(※2)であったと考えられる。従来はその読みから山崎町田井村と誤認されていた。


 




 なお、平成24年伊水小学校の背後の宇野構の県の発掘調査で、規模の大きな石垣が発見されたが、それは長水城落城後のものとする調査結果が出ている。落城後の秀吉の時代に、長水城の山麓周辺に新しい町場が形成されたようで、上町(かみまち・かんまち)、中町、下町の地名が残され、現在下町が自治会名として継承されている。ちなみに上町が明治になって、長水城主宇野氏にちなんで宇野の地名が生まれている。


※1 禁制は、村落、寺社などが軍隊の乱暴から免れるため、支配者の武将に願い出て金銭等の代価を支払い下付された。
※2 田恵村 このまま「たえむら」と呼ばず、「たいえ」と呼べば和名類聚抄の高家郷に比定できる。もしくは田以恵の以の字の脱落か。長水城の大手には高家荘という中世の公家・万里小路(までのこうじ)家領の館があった。高家とは高家里(郷)のことで、都多(太)川(伊沢川)の河口の庄能(塩村)以北の伊沢川流域を指している。



▶天正11年(1583))宍粟郡広瀬城に神子田半左衛門正治配置

 賤ケ岳(しずがたけ)合戦(※3)の所領配置により、宍粟郡広瀬城(篠ノ丸城カ)に神子田(みこだ)半左衛門正治が配置された。(『秀吉事記』)内容は前代を踏襲しているため、神子田氏は宇野氏のあと天正8年より宍粟領を有していたと考えられる。
※3 賤ケ岳合戦は、天正11年(1583)近江国伊香郡(滋賀県長浜市)の賤ケ岳付近で起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。



天正12年(1584)神子田半左衛門正治改易

「長久手戦話」に、「中国出、太閤黄母衣(きぼろ)衆、後播州広瀬領主 改易 神子田半左衛門」とある。広瀬領主神子田正治は小牧・長久手合戦で無断戦線離脱を咎(とが)められ改易された。
 翌年の天正13年8月13日付「羽柴秀吉朱印状」には秀吉は脇坂安治(※4)に、神子田正治とその妻、縁者を決してかくまうことのないよう厳命している。
※4 脇坂安治は、賤ヶ岳の七本槍の一人。淡路国洲本藩主、伊予国大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代


▶同年7月18日黒田官兵衛孝高、羽柴秀吉より宍粟郡一職を与えられる
 (「黒田家文書」)


▶天正15年(1587)7月3日 黒田勘解由(黒田官兵衛孝高)豊前国へ移封
 (「豊臣秀吉領知朱印状写」『黒田家譜』)


同年木下勝俊が宍粟郡を支配下に置く
 (同年カ)11月16日宍粟郡山崎村に新町を開設す (「木下勝俊書状」)

 このとき、山崎村と山田村を結ぶ一筋の町が生まれた。山崎町の誕生である。
 木下勝俊は龍野城主 天正15年~文禄3年(1598)
 ちなみに、この木下勝俊に典医(医師)として仕えたのが山崎闇斎の祖父浄泉と伝わる。


▶慶長5年(1600)宍粟・佐用・赤穂の三郡が宇喜多氏の支配下となる

 広瀬に宍甘(しじかい)太郎右衛門、牧藤佐衛門家信が在番(「宇喜多秀家書状写」、「沼元文書」、『久世町史』資料編1編年史料)


▶慶長期(1596~1615)宇野祐清の子「山崎基久」黒田家に仕える

  黒田家中には祐清の子山崎基久以下、小林久重・常屋正友・船曵近正・新免宗景とその子宗重等、宇野一族・家臣も仕官している。ちなみに山崎茂右衛門基久150石、新免宗景2,000石、同宗重300石、同右衛門300石とある。(「慶長年中士中寺社知行書附」『黒田三藩分限帳』)

 ここで特筆すべきことは、宇野当主祐清の血を引いた末裔の存在が確かめられたことである。山崎家が所持する系図に、宇野家臣小林氏に守られて筑前に行く途中、祐清の妻が男子を生んだとあり、それが山崎茂右衛門基久とある。
 さらに系図には祐清の妻は高砂城主梶原駿河守景則ノ女とあり、黒田分限帳には梶原弥次兵衛 景鎮、駿河守景則孫と記されている。
 ただし、三木城合戦のとき、三木城への兵糧の供給基地であった高砂城の城主は梶原平三郎景行とされ(『高砂町史』)、系図内容については検討を要する。
 次に三男宗貫は、美作(美作市大原町)竹山城主であり、宇喜多秀家の没落後、黒田家に仕えている。
 さらに、四男正友は、播磨(香寺町)恒屋城主で、秀吉軍に落とされたものの、これもまた黒田家に名を連ねている。

 戦いにからくも生き延びた宇野一族が、筑前の黒田家に仕え、その末裔が今に続いていることは驚きであり、敵味方に関わらず被官を許した黒田家の懐の深さも知ることになった。







宍粟の武将宇野氏を語り継ぐために

 江戸時代の町年寄であった片岡醇徳(じゅんとく)が記した名著『播州宍粟郡守礼交代記』元禄12年(1699)には、宇野氏をして「或る人の曰く、(中略)固滞にして変通の機を知らざりし将と聞こえし。」と記す。片岡醇徳は、「或る人」の弁として宇野氏は播磨西部の山間僻地にして世の変化に適応できなかった残念な武将であると、辛辣な評価をしている。本当にそうであったのだろうか。

 宇野一族は、室町期以来戦国期末期まで赤松一門として二百余年にわたる宍粟郡の領民統治能力や功績を問わずして、敗戦・没落の因となった二大勢力の毛利方につくか織田方につくかの選択能力の無さで烙印を押されたのでは浮かばれない。

 従来中世・戦国期における宍粟の武将宇野氏の歴史は、長水城・篠ノ丸城の落城ですべてが闇に葬られ、空白の中世・戦国史を思わせていたが、近年編集された郷土資料集には宇野氏に関する史料が余すところなく収集されており、これを元に宇野氏が激動の世に宍粟に根を張って生きた証を知り、新しい人物像として広く語り継がれることを願うばかりである。


参考図書
(『播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究』宍粟市教育委員会平成26年発行)

※山崎郷土研究会発行 会報NO.135 令和2.8.30より転載




◆ 宇野構の石垣  

 
  




▲発掘遺物 一部



【関連】
播磨 長水城 ~宇野氏の最期~
播磨 長水城 
播磨 篠ノ丸城
播磨 恒屋城
播磨 松山城
美作 竹山城

 
城郭アドレス一覧

丹波 周山城跡 ~ 明智光秀の城 ~

2020-09-02 10:18:11 | 城跡巡り
周山城は明智光秀の城として知られるようになり、遠方であるが一度は見てみたい衝動にかられ京北に向かった。
        

     
▲東からの鳥瞰   by Google Earth
    

                 

▲弓削(ゆげ)川東岸から 





周山城跡   北桑田郡京北町周山(現京都市右京区京北周山町)
        
 明智光秀が丹波平定の大詰めを迎えた頃であった。天正7年(1579)7月丹後出陣で京北町下宇津の宇津城(城主宇津頼重)を落とした。その後宇津城の近くの同町周山に築いた城が周山城である。標高480m、比高220mの山頂に総石垣で本丸に天守台を設け、東西南北に延びる尾根上に曲輪・堀切等を配置した。さらに西峯には土造りの城郭群を配置している。 

 明智光秀は宇津氏を滅ぼし長年横領されていた禁裏御料所を回復したことにより、皇室より褒賞を賜り面目躍如の中、城の建設が進められた。総石垣に構えたのは、北桑田郡一帯の支配を強固にするためと考えられる。
 
 かつて周山城は一部の人しか知られていなかったが、近年京都市の航空レーザー測量による調査でその全容が浮かび上がり、丹波屈指の規模を誇る城跡であることがあらためてわかった。





▲航空レーザー測量図



光秀の宇津城攻めの記録

『信長公記』巻12に天正7年(1579)7月19日 惟任日向守(※1)丹後へ出勢の處に 宇津構明退候を付追悼に數多討捕顎を安土へ進上それより 鬼か城(※2)へ相働近邊放火候て鬼か城へ付城の要害を構惟任人数入置」 

〈訳〉明智光秀が丹後へ出陣すると、宇津(城主頼重)は城を捨て退くが、光秀はこれを追討し多くを打ち取り首を安土の織田信長に差し出した。次に、鬼ケ城攻めに周辺を焼き払い、付城(陣城)を築き光秀は兵を配置した。

※1 惟任日向守(これとうひゅうがのかみ):天正3年(1575)7月明智光秀は朝廷(天皇)より惟任の名字と日向守の受領名を賜る。
※2 鬼か城:丹波鬼ケ城(福知山市) 丹波・丹後の国境にあった要害の城


                          
宇津城主宇津氏のこと
 
 室町中期に美濃守護土岐氏の一党が宇津郷に入部し、地名の宇津を姓名にした。宇津頼顕(よりあき)は宇津獄山(うつたけやま)城に拠って宇津一円を攻めとり、頼夏、頼高、頼重と父子三代にわたって天竜寺領弓削、朝廷御料地山国、建仁寺領の野々村の庄まで併合して室町末期から北桑田郡に勢力を張っていた。

宇津氏の主な動き
 天文4年(1535)4月には禁裏領小野郷を横領(『後奈良院宸記』)、同15年(1546)には、船井郡桐野・河内両村に侵入(『古文書集』)、永禄6年(1563)2月には今日の町家に放火するなどしており(『御湯殿上日記』)、幕府も何度もその違乱を停止せんとし、天文11年(1542)4月に宇津城を攻撃している(『蜷川親俊日記』)。永禄7年(1564)宇津氏は山国荘公文鳥居氏と婚姻関係を結ぶなど(「丹波国山国荘史料」)、幕府の停止をよそに着々と勢力を拡大、保持した。
 永禄12年(1569)4月に、足利義昭を奉じた織田信長が山国荘の返還を命じるも無視した。元亀4年(1573)2月足利義昭と織田との戦いには義昭側に付き御供衆に加えられた。天正5年(1577)には、明智光秀と滝川一益と戦い負傷した(『市原文書』)。



光秀の丹波・丹後平定、そして本能寺の変へ

 光秀は天正3年(1575)から始まった丹波国攻略が同年7年8月に八上城、黒井城を落として完了し、つづいて丹後国も平定に成功する。
 この功績により翌年の同年8年(1580)信長から絶賛され、感状をもらい丹波・丹後合わせて34万石を領している。

 翌年の天正9年(1581)6月「明智家法」の後書きに光秀が信長に感謝の気持ちを表した文を書いている。8月光秀は周山城で茶人津田宗久と月見を楽しんでいる。「本能寺の変」の1年前のことである。




▲登り口の説明板



 周山城址の説明の後半に天正9年8月光秀と宗久の月見の記事及び秀吉の入城の記事がある。調べて見ると『津田宗久茶湯日記』に次のように記録されていた。そこに光秀と宗久は14日二人はこの城で句を詠み、終夜月見を楽しんだようすが伺える。
 ただ秀吉の周山城入城については、宗久の日記には天正12年2月付で坂本城の茶会参加の記録はあるものの周山に記録はない。秀吉入城の記録は別の記録によるものだろう。






名は世にも たかみ山路の 秋の月

この光秀が詠んだ2つ目の句が興味深い。
光秀は昨年丹波・丹後の平定の立役者として主君信長から絶賛され、一昨年皇室から禁裏御料所の回復で褒賞を賜り、この上ない地位と名誉を同時に手に入れている。光秀は自らの満たされた心情をストレートに詠んだのではないかと思う。

(私の)名声は世に高まり、
         高みのやま路で見る秋の名月は格別だ 



参考
『信長公記』、『角川日本地名大辞典』、『戦国合戦大辞典(六)』




アクセス





まずは道の駅 「ウッディー 京北」を目指した。ここから登城口までは北に歩いてすぐだ。



 
▲街道筋にある羽田酒造の建物の右に曲がる


 
▲山裾に近づく                  ▲説明板あり



   
▲谷あいの道に砂利が引かれていた     ▲ここが登城口



 
▲上を見上げるとかなり急だ      ▲登山道として作られた道のようだ




▲尾根筋に至る



このあたりは木々が伐採されており、眼下が一望できる。もう少し上に登れば麓がよく見えるのだろう。



▲東部の展望  




▲ズーム




標識を頼りに左に回り込んで、南斜面の道を行く





  
▲南斜面の道をゆく                        ▲木々の間からの展望



南斜面の細い道を登りきると、二の丸辺りに出る。ここまでくれば本丸がすぐである。




 
▲石垣の一部             ▲二の丸



 
▲この奥が本丸





▲本丸入口 左右に石垣(門跡か)が残る 





▲本丸跡  広い本丸の南面に天守台跡が残る




▲天守台の跡 石垣の下の部分と盛り土だけが残る




 
▲周山城主要見取り図                       ▲見取り図





▲本丸近くの井戸跡(場所は案内図参照)



本丸から西の尾根筋を降りていくと、小姓丸という曲輪に残された石垣が圧巻であった。主郭はほとんど破壊されているが、この場所は破壊が免れ原型をとどめている。




▲苔むした高石垣  440年の月日を経ている




 
            ▲高い石垣の下に続く石垣▶    



雑 感

 周山城については、時間の都合上本丸とその周辺を見て回ったのみで、北尾根筋や西曲輪群も見ていない。規模の大きさを感じるにはその尾根筋の曲輪や堀切を確認できればと思うが、もう一度行きたい。さらに光秀がこの城を築く前に、攻め落とし改修したという宇津城跡をも見てみたいと思っている。
 
 

【関連】
明智光秀ゆかりの城跡
・福知山城 
・黒井城


城郭アドレス一覧


美作 林野城・倉敷城跡

2020-08-09 09:11:27 | 城跡巡り


  今回は林野(はやしの)城と倉敷城の二つの名をもった中世・戦国期の城跡です。林野・倉敷の城名は、双方とも古文書に表記されているため、今では二つの名が並記されています。(林野城は鎌倉期より、倉敷城は戦国期に表記されている)
    この城は梶並川を挟んで三星城と向かい合い、出雲街道と梶並川・吉野川を眼下に見通す要衝の地であり、中世・戦国期そして近世初頭まで使われた城跡です。





▲南からの鳥瞰  登城コースはイメージ by Google Earth


 
美作 林野城・倉敷城跡   英田郡美作町林野(美作市林野)
 

 梶並川と吉井川支流吉野川の合流点の北側の位置にあり、対岸の梶並川の北西約700m地点に三星城がある。城山(標高249m)の頂上までの尾根筋に連郭式の曲輪を配し、堀切・土塁、西向きに物見櫓を配する中世戦国の特徴を有する城跡である。

 鎌倉期に林野城の名があり、後藤良猶の弟後藤良兼が在城したと伝える。
康安元年(1361)山名時氏が美作国を侵攻したときに落とされた林野の城と見える。(『太平記』)。

 天文13年(1544)尼子晴久は美作に勢力を広げ、倉敷城には尼子家臣川副久盛と東作の江見久蔵を置き、三星城主の後藤氏と共に東作地域を守らした。

 しかし、しばらくして三星城の後藤氏は反尼子に翻ったようで、天文23年(1554)は浦上宗景と通じてこの林野城を攻略しようとしたが、川副氏、江見氏は迎え撃った。
 永禄3年(1560)と見られる5月朔日に、倉敷城の江見氏は三星城主の後藤氏と三星城の山下の入田で合戦をしている。(「美作江見文書」、「美作国諸家感状記」、『東作誌』)。
 永禄8年(1565)尼子氏が本拠地の月山富田城を毛利氏に包囲されたため、川福氏は出雲に引き上げ、翌年尼子氏が毛利に敗れた
 永禄12年(1569))尼子勝久を擁して山中鹿助等が出雲に挙兵すると、これに江見氏も加わり戦っている。
 天正7年(1579)宇喜多直家が東作地域に侵攻し、城番の江見市之丞は矢櫃城主江見次郎と共に勝田郡鷹巣城で宇喜軍と戦い敗れた。その後、倉敷城には宇喜多直家の家臣戸川秀安、岡市丞などを配した。

 慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで宇喜多秀家が没落し、同年12月から小早川秀秋が木下勝助、萩原龍浦らが城に置かれたとも。秀秋の年寄稲葉道政が代官になったとも記す「武家聞伝記」、「江見家記」)。




▲林野城跡縄張図 (『美作国の山城』津山市教育委員会)より




▲城山全景



アクセス



城山の山肌に安養寺の墓地があり、美作ハローワークの裏手に城址の案内板がある。そこから斜め左に登っていく。所要時間は約30分程度。




▲登城口の説明板



    
▲登山                                                          ▲整備された登山道


 
                   ▲三の丸に至る



尾根筋にある曲輪跡の途中(三の丸)に至る。左には二段の曲輪跡がある。ここよりゆるやかな尾根筋上の曲輪跡を登っていくと山肌が露出したあたりから、眼下が望める。



 

 
▲尾根筋上の曲輪跡



▲露出した山肌に階段が敷かれている




▲南方の展望


山肌を登りきるとヒトツバ(シダの一種)の群生が曲輪一面を覆っている。
ここを抜けると、切岸と堀切が待ち受けている。





    
▲ヒトツバの群生                           



  
▲上部の階段の左右が堀切(通路確保のため一部破壊)▲堀切




主郭の前に大きな堀切があるため、通路確保のため堀切を埋め、主郭右端の切岸の一部を削りとったことがわかる。
上に上がると主郭部である。



▲主郭に立てられた林野城想像復元図


▲復元図の拡大   傷んでいたので見やすく修正を加えた



※大手道が曲輪の先に描かれている。ということは、現在の登山道は廃城のあと造られた登山道ということのようだ。
※大手の入り口には根小屋が描かれ、東麓の朽木にある荒木田大明神の社も城の一部として描かれている。
※二の丸の左奥(城山の西側)に物見台(櫓)が描かれている。(これは気が付かなかったため次回確認したい。)



▲主郭  主郭よりコビキB類の瓦が採集されている。
※鉄線引きの痕を残すコビキB類の瓦の出土は、宇喜多氏から小早川氏の時代の瓦葺きの建物と判断されている。



▲井戸跡



▲主郭 北側



主郭は幅が10~40m、長さが200m弱ある。北端には肌が露出した土塁がみられる。
その一段下の曲輪跡に倉敷城の看板が置かれている。




 
▲主郭北詰  土塁跡




▲主郭の一段下 窪みは井戸跡、石の散乱が見られる



   
▲搦手の道                            ▲北の尾根筋の堀切




林野・倉敷の地名

 林野:吉野川と梶並川の合流点付近の谷底平地に位置する。古代の平安期に林野郷と見え、中世の鎌倉期から戦国期には林野保と見える。

 倉敷:蔵敷ともいい中世・戦国期に見える。鎌倉期以降に河川交通の途が開けた頃から河岸に立ち並ぶ蔵屋敷を呼称したと伝わる。
江戸期~明治29年まで倉敷村、明治29年~大正7年まで倉敷町、大正7年に林野と改称。

倉敷を林野と改称した理由
 備中の高梁川河口の倉敷と混同されるようになり、美作の倉敷は林野と改称した。※荷物や郵便に住所に郡名の記載がない場合、備中の倉敷に誤配されるということが頻繁に起きたようです。

ちなみに改正前の住所は
美作の倉敷は 英田郡倉敷町
備中の倉敷は 窪屋(くぼや)郡倉敷町





雑 


二つの城名

 城山登城口の説明板、主郭の説明板には林野城跡としているのに、主郭の北側に倉敷城と書かれた看板を見たとき、あれっと思った。後日、地域の歴史を知り、先にこしらえ傷みかけた城看板の倉敷という城名(地名)に設置者の愛着、こだわりのようなものを感じた。
 林野、倉敷の二つの城名の並記もされている。古代より林野郷の中心にあった倉敷村の城と私は理解している。


江見氏の尼子氏に対する忠誠心は本物

 尼子氏が美作に侵攻し、後藤氏や江見氏を従属させた。倉敷城には尼子家臣川副久盛と江見久盛を入れ、守らしている。偶然にも二人の武将の名が久盛である。しかも、このあと江見氏は後藤氏とは違って、尼子氏のために最後まで忠誠の行動をとっている。尼子氏の月山富田城が開城となった後山中鹿助等が尼子勝久を擁して出雲に挙兵すると、これに江見氏も加わり戦っているのである。
 この一連の動きは尼子氏が備州、作州、播州の雄となることを信じ、その暁に美作の江見となることを夢見て江見家の命運を尼子氏に賭けたとしか思えない。
 しかし、出雲の雄尼子氏は毛利に屈し、滅亡した。後ろ盾を無くした江見氏は毛利方の宇喜多氏に攻められ敗北するも、宇喜多氏家臣戸川秀安の配下となり滅亡は免れている。
 東作の有力者の後藤氏も江見氏も戦国の世に翻弄され、最終的には両者とも宇喜多氏の手にかかるも、後藤氏は滅び、江見氏は江戸時代庄屋として生き延びることができた。
 東作ののどかな温泉地近くの二つの城跡探索によって、覇権争いに翻弄された戦国武将たちのサバイバルの戦いがこの地で繰り返された、そんな歴史を知ることができた。



参考
『美作国の山城』、『角川日本地名辞典』、『江見久盛 ウィキペディア」
 


【関連】
美作 三星城跡
出雲 月山富田城跡
 
城郭アドレス一覧