(2019.3.30~2019.10.31)
長崎は今日も雨だった! 今まで城巡りの天候は比較的天候にめぐまれていた。しかし、この時ばかりは違っていた。長崎中心地から天草半島の島原城に向かう途中雲行きが怪しくなり、城跡に着いた途端雨の出迎えとなった。よって天守籠城を余儀なくされた。しかし、その分ゆっくりと城内の歴史資料・展示物を見て回ることになった。
その中で特に印象的だったのはキリシタン関連の展示物の多さであった。あの「踏み絵」があった。キリシタン弾圧の物証の数々を目の当たりにすることになった。
雨宿りのつもりであったが、1時間半ほどの在城で外に出るや本降りとなってしまった。
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▲島原城本丸天守(昭和39年・1964復元) 破風がなく威圧感がある
▲巽櫓(たつみやぐら)
島原城跡のこと 長崎県島原市城内
島原城は、雲仙岳の麓の森岳という丘陵に築かれたため森岳城ともよばれた。元和2年(1616)関ヶ原の戦いで功をなした松倉重政が大和五条から有馬晴信の旧領であった肥前日野江に4万3千石を与えられて移封した。重政はしばらくして日野江城から離れ、森岳に新しい居城と城下の建設を計画した。
城郭の建造は元和4年(1618)から7年を費やして完成させたのが、島原城(森岳城)である。『肥前有馬古老物語』城郭はほぼ長方形の連郭式平城で、本丸、二の丸、三の丸(花畠の丸)が連なり、総石垣に堀を巡らしている。城の北側に侍屋敷がおかれ、城東から城南に城下町が建設され、商人・職人の誘致が行われた。寛永4年(1627)には南北13町で1,000軒があり、当時の石高に比べて町の規模は大きかったとされている。こうして島原半島の小さな一集落にすぎなかった島原は、以後江戸時代島原藩の政庁として半島の政治・文化の中心地となった。
明治7年(1874)廃城令により、土地建物などが民間に払い下げとなる。明治9年(1876)5層の天守閣が解体された。
▲古写真昭和初期 (島原市蔵)
その後約1世紀を経て、島原市は昭和35年(1560)西の櫓、同39年天守、同47年巽櫓、同55年丑寅櫓をそれぞれ外観のみ復元した。
▲島原市の俯瞰 by Google Earth
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▲1974 航空写真 (国土交通省 より)
▲島原城図 (江戸中期~後期 国立国会図書館蔵)
※天守の入口に家紋があり、その家紋をチェックすると、高力(こうりき)氏の家紋が抜けているのがわかった。高力忠房は天草・島原の乱で荒廃した南目地域の復興に尽力した人物。
※高力氏の後に入った松平忠房は櫨(はぜ)の木の栽培奨励をすすめた。櫨(はぜ)の実を藩が買取り、木蝋(もくろう)を製造して大阪方面に売りさばき、藩の専売事業として藩財政の重要な柱となった。その他島原酒、蜂蜜、わかめ等の特産品が生まれた。
櫨の実から和ロウソクや白ロウをつくる
▲城内に展示
中世の島原半島 南北朝期(1336~92)は島原半島の一帯は肥後(熊本)の菊池氏の勢力が及んでいたが戦国期に入ると弱体化し、頭角を現したのが有馬氏であった。室町期、有馬貴純は日野江城を根拠に半島の諸豪を支配し、天文年間(1532~55)には晴純が肥前国一帯を支配する戦国大名となった。
▼島原半島周辺の関連諸城位置図@
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しかし、天正年間(1573~1592)に急速に成長した佐賀城主龍造寺隆信が現れたため、有馬晴信は屈服を余儀なくされていた。しかし龍造寺氏から離反し薩摩の島津義久に援助を求め、天正12年(1584)沖田畷の戦いとなった。龍造寺隆信は大軍を率いて海路で半島の神代(こうじろ)に上陸し、三会(みえ)に進出した。軍勢では圧倒的に龍造寺軍が有利であったが、隆信が島津家久軍の急襲によって討ち取られ、龍造寺軍は全軍総退却し、以後没落した。
天草・島原の乱の背景と経過
1.生産力の低い火山灰の畑地と少ない水田
火山灰で形成された島原の土地は、畑地が中心で米作が可能な地域は海岸の一部か谷田しかなくそれも湿田が多く、赤米の作付けの土地柄であったため生産力が低かった。度重なる天災や飢饉で安定した収穫が得られなく季節的変動が大きかったものと推測される。
2.島原半島南部はキリシタン王国
キリシタン大名有馬晴信の支配が長く続いた島原半島南部はキリシタンが根付いていた。晴信の父もキリシタンであり、長崎港を開いた大村純忠(すみただ)の勧めもあり、晴信は熱心な信者となり島原南部はキリスト教の一大布教地となった。この時領内にあった多くの神社仏跡が破壊され、かわりにセミナリヨ(有馬・有家)やコレジオ(加津佐)の聖職者養成学校が建てられ、天正派遣欧少年使節(1582~90)ではローマ教皇のもとへ4人の少年が派遣された。しかし8年後その少年使節が帰国したときは豊臣秀吉による伴天連(ばてれん)追放令(1587)が発令されていたため、殉教や国外追放となった。
さらに徳川の時代に入って元和2年(1616年)に秀忠は最初の鎖国令を出し、キリスト教の禁止を厳格に示した。家光は長崎奉行にキリスト教徒の捜索・逮捕を指示している。
3.松倉重政の城の建設と重税
慶長19年(1614)有田晴信の子直純が日向に転封されたあと、松倉重政が入封した。松倉氏は島原城と城下町建設に7年に及ぶ年月をかけたが、その建設に伴う使役と重税が重く農民かけられ、キリシタンの取り締まりが行われた。松倉重政は入封当初はキリシタンには比較的穏健であったが、幕府の取り締まりの強化を受けて、きびしい弾圧を行った。2代藩主となった重政の子勝家は、さらなる容赦のない年貢の取立てと税の新設、そしてキリシタンに徹底した弾圧をすすめた。
寛永11年(1634年)の飢饉にも救済どころか非情な取立てを強要したため、農民の窮乏と藩政への怒りが限界に近づいていったと考えられる。
4.一揆勃発、天草・島原の乱へ
ついに寛永14年(1637)島原の南目一帯の大半その数3万8、000人に及ぶ農民が一揆に参加し、武器を持ち、代官を襲い、島原城下になだれ込み島原城を攻めた。この動きは南の天草島にも呼応し富岡城が襲撃された。(当時天草地方は肥前唐津藩2代藩主寺沢堅高の領地でキリシタンの弾圧があった。富岡城には城代として三宅重利がいた。)
一揆軍は島原城と富岡城を落とすところまで至らず、廃城になっていた旧有馬氏の古城「原城」に籠城した。九州の諸藩の討伐軍の攻撃を撃退し、さらに幕府から派遣された板倉重昌を戦死させたが、援軍の松平信綱率いる大軍12万による3ヶ月に及ぶ兵糧攻めのあとの総攻撃で、一人残らず討ち取られ落城した。
原城にたてこもった農民を指揮したのが旧有馬氏や小西行長の家臣の浪人、庄屋以下の村役人等と考えられている。そのとき一揆軍の結束の中心人物天草四郎(16歳程度の少年。本名益田、父はキリシタン大名の小西行長の家臣)がカリスマ的シンボルとして生み出されたのではないだろうか。
5.乱後の幕府の処置
幕府はこの乱を農民一揆とはせず、キリシタン一揆と見解を示し、これを契機に鎖国体制、禁教の強化をすすめていった。
乱の責任を問われた藩主松倉勝家は寛永15年(1638)改易され、斬首に処せられた。そのあと譜代大名の高力忠房が入部し、農民の年貢免除、荒廃した領土への移民奨励などの政策をとり藩政の再建をすすめた。
「島原大変肥後迷惑」(しまばらたいへんひごめいわく)▼眉山
(びざん)崩壊による地形変化 資料館展示より
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平成2年(1990)に普賢岳の噴火による大災害が起き、映像に映し出された生々しい火砕流の光景はまだ記憶に新しい。しかしその200年前に日本最大の火山災害があったのだ。
それは慶長4年(1792)に雲仙岳が大爆発を起こし、眉山の南半分が亀裂し有明海に崩れ落ちた。そのため大津波が発生し、対岸の肥後国(熊本県)まで押し寄せ、島原と肥後の村人死者推定約1万5千人と多くの住居が失われた。その大災害が「島原大変肥後迷惑」とよばれてきた。
雑 感
時間の制約と降りしきる雨のため、城の周辺や城下の名残りを見て回ることができなかったのは残念だったが、「天草・島原の乱」を考えさせる多くの資料を見ることができたのはよかった。いつか機会があれば、一揆軍が立てこもった原城跡と有馬氏の日野江城跡等を見てみたいと思っている。
一揆の起きた南有馬町には日本百選の棚田(白木野谷水地区)があることも知った。耕地面積の少ないこの地ならではの傾斜地を利用した耕作地の確保だったのだろう。今はじゃがいもと米の二期作が行われているという。
参考:『日本城郭大系』『角川地名辞典』『島原城・原城 小学館』『戦国 武家家伝』他