▲右より 久松山(鳥取城)、太閤ケ平、雁金山城、丸山(城)の遠望 千代川西岸より
[写真] 昭和中頃 「鳥取県史2」より
▲秀吉側の大防衛ラインの竪堀跡 ▶
鳥取城の戦い ~兵糧攻め~
鳥取城攻撃以前の因幡と播磨等の情勢
因幡
出雲尼子氏が毛利氏に屈したのが永禄8年(1566)、その後天正3年から4年(1575~1576)にかけて尼子の遺臣、尼子勝久と山中鹿助が尼子再興のために織田方につき、因幡の宮吉城を拠点に毛利勢との攻防を繰り返えしていたが、次第に毛利勢に押されていった。
天正4年2月に宮吉城は落とされ、同年4月・5月にかけ若桜鬼ケ城も攻撃を受け、鹿助は勝久を伴い城を脱出し但馬に逃避した。これにより因幡の尼子勢は一掃され、毛利の支配地となった。
播磨
天正5年(1576)羽柴秀吉は織田信長より播磨の出陣を命じられ、播磨の多くの武将から人質を得ていた。上月城(佐用町)を落とし、尼子勝久、山中鹿助を城に置いた。しかし天正6年2月三木城主別所長治が信長に反旗を翻し、信長の家臣の荒木村重が叛いたため、その戦いに手を焼いた。そのため播磨上月城は毛利方の小早川隆景・吉川元春軍に取り巻かれ落城した。
一方、秀吉は、天正7年(1579)備中の岡山城主宇喜多直家を毛利から離反させることに成功し、毛利軍の山陽道からの東上を防ぐことができた。さらに伯耆の羽衣石城主南条元継を味方につけたことにより山陰道からの吉川軍の東上を阻む手立てができた。
天正8年(1580)5月秀吉は播磨で最後まで抵抗した篠ノ丸城・長水城主宇野氏を滅ぼすや、姫路に戻り、美作の毛利の主力軍の動きを牽制しつつ、つかさず鳥取包囲網に着手にかかる。
鳥取の東方国境の但馬方面には天正5年から攻撃を加えてきたが、同年有子山城(豊岡市出石)を落とし、但馬山名氏を排除し但馬をほぼ支配下におく。同年半ばに八木城主八木豊信を毛利から寝返りさせ、氷ノ山ルートによる因幡侵攻を可能にした。
鳥取城の戦いまでの毛利方(吉川元春)の動き
● 天正7年(1579)11月 伯耆(鳥取西部)の羽衣石城主南条元継が毛利を離反した。それに対し吉川元春は、羽衣石城と岩倉城に対する構えを見せた。
● 天正7年12月 元春は家臣の杉原盛重・重直に南条・小鴨の備えを一任し、自らは備中・美作・備前の山陽方面に南下し、毛利・小早川本体に合流し、羽柴秀吉・宇喜多直家軍の美作から排除に努めた。
● 天正8年(1580)6月 元春は秀吉の因幡攻めの動きを察知したため、備作方面から伯耆の末吉(大山町)、八橋に進み、茶臼山(湯梨浜町)に陣を構えて、秀吉の山陰道の侵攻に対処した。
● 天正9年(1581)9月21日 元春は鳥取城の家宰の森下道誉らと謀って城主山名豊国を城外に追放した『吉川家文書』。
鳥取城の家宰中村春続、森下道誉は、急使を元春に送り、城将の派遣を要請し、元春は牛尾城(島根大原郡)の城主牛尾元貞を入城させた。しかし、但馬諸寄城攻めで負傷したため、居城牛尾城(島根県大原郡)に帰った。次に市川雅楽允・朝枝春元を入城させるも、春続・道誉らはこれから秀吉の大軍から城地を死守すべき大任があることから、吉川氏と同姓で勇敢果断な英傑を派遣されたいと懇請した。
● 天正9年1月 元春は石見国福光城主吉川経家を派遣することを決め、経家には「因幡平定の上は、同国内に料所600石の地を給与する。」ことを約した書状を与えている。
● 同年2月経家は将兵4百余人を連れて出発し、途中出雲郷(島根県出雲町)にて元春に面会し別辞を述べ、揖屋(出雲町)から海路にて賀露港に上陸し。3月に鳥取城に入った。
● 同年5月初め 作戦のため京畿の情報を得るため、密偵として山伏を伊勢に派遣。5月28日帰着し五畿内の状況をつぶさに報告。『吉川文書』
吉川経家 鳥取城の戦備拡充
経家は、籠城中の被官・仲間・人足が病気で役に立たない旨を伝え、兵員は「御加番衆、国方衆」合わせて1,000人余り(あるいは前者が400人後者が1,000人ともいう)、その内800人分が整備された兵で守備にこと欠くことなく、問題は城内の兵糧の補給が急務と考えていた。経家は戦いの期間を7月から冬の大雪まで3・4月を想定しそれに対応した補給を元長に懇請した。
鳥取城の防御陣では、久松山から海に向かって500m~600mのところの雁金山城には塩始高清を置き、さらにこの山から700m~800mのところにある丸山を山城に構築して、但馬の奈佐日本助をはじめ山県左京進・佐々木三郎左衛門・境与右衛門ら五百余人で守らせた。日本海から千代川・袋川を経由して丸山に至り、雁金山を伝って本城に至る経路の厳重な警備と賀露南内に大船を常時待機させ、海路安芸との連絡を保持することとした。
▲鳥取城から北西を望む 雁金山と丸山に山城を築く
鳥取城の戦いまでの秀吉軍の因幡征圧の動き
● 天正8年1月 羽柴秀吉は、天正8年(1580)1月弟羽柴秀長を但馬に出征させ、同年5月16日、出石城主山名氏政を因幡に逃走させた。
● 同年6月 秀吉は因幡に進出し、若桜鬼ケ城・市場(私部)城等を落とし、さらに鹿野城を陥落させ、城番として亀井茲矩を置く。ついで鳥取城を攻め因幡守護山名豊国を屈服させ、城主として留めさせた。
● 天正9年5月 秀吉因幡鹿野城番亀井茲矩(これのり)に書状を送り、来月25日を期して出陣する旨を伝え備えを命じた。
● 同年9年6月 秀吉軍の先陣として木下(荒木)重堅、神子田半左衛門率いる1万騎が姫路を出発。
毛利家臣玉木土佐守吉保は伊勢参宮の途次、姫路在中に秀吉軍の先陣1万余騎が、秀吉の出発数日前に姫路を発つのを目撃した。『玉木土佐守覚書』
● 同年9年6月25日 秀吉は2万余騎を大軍を率いて姫路城を出発。
秀吉軍は因幡街道戸倉峠を越え若桜・通り谷・私都谷・笑谷・三代寺・宮ノ下・岩倉・徳山を経て、小西谷から鳥取城背後の、帝釈山に進出した。
● 同年7月5日 羽柴秀長が但馬海岸から丸山城の東方の東吹海岸に到着
● 同年7月12日 羽柴秀吉は鳥取城より東方1.5kmの帝釈山(太閤ケ平)に本陣を構える
山岳の主な布陣
<本陣の右翼軍>
羽柴秀長 大成
桑山修理守 摺鉢山
垣屋播磨守 城山(五反田の上手)
高野駿河守 昼食山(覚寺の裏山)
青木官兵衛 道場山(代々山)※浜坂にあり千代川河口出入りの船舶の監視
<本陣左翼軍>
南山麓の芳心寺に至るまでの一帯に各陣を配置
▲芳心寺から見た鳥取城 右(北西)に延びる尾根筋上一帯に陣跡(左翼軍)が残る
<平地軍>
鳥取城の久松山西麓を包囲し三軍の連携包囲網は三里(約12km)に及ぶ。
10町(約1100m)ごとに三層の櫓を設置、5町ごとに見張りの兵を置き、袋川に乱杭を打ち、逆茂木を設け、水底に網縄を張り、夜間は1~2間(2m~4m)ごとにかがり火をたき警備を厳重にした。
「因幡の国鳥取から高山右近が帰り、鳥取の布陣を図に示し詳しく報告があり、信長は大いに喜ぶ」とある。『信長公記』
▲因幡民談記・秀吉公鳥取城攻陣取図 鳥取県立博物館
※鳥取城を包囲する秀吉の武将たちの配置の状況が描かれている。雁金山には宮部善祥坊(継潤)と名が記されているので、塩谷周防が守っていた雁金城が落城して間もない時点のものと思われる。
※秀吉軍の平地軍は、千代川とその支流袋川周辺の村々(図の右下から左にかけて吉方村、行徳村、品治(ほんじ)村、田嶋村、秋里村)の近くに陣を置いたので、これらの村人達が直接的に戦いに巻き込まれた可能性が高い。(これらの村名は、町名・字名として現在も使われている。)
▲鳥取城攻めの秀吉軍包囲網イメージ (by Google Earth)
戦いの記録
『因幡民談記』によれば「秋里新左衛門、他徳丸美濃、岡垣丸山等百余が小寺官兵衛、木村隼人両陣に討て入る」とある。秋里新左衛門書上によれば、「鳥取、羽柴殿御懸候時、7月13日黒田官兵衛(小寺孝高)陣所夜討ちを、式部殿様(鳥取城主吉川経家)仰せ付けられ候」とあり、寄せ手が日々きびしく城を取り囲み、陣容が次第に盛んになるにつれ、城中は人の心疲れ、勇気日々衰える。よって秀吉の陣営に夜討を計画し、吉川・森下が秋里左衛門、徳丸美濃、岡垣丸山等、百余人を選び小寺(黒田)官兵衛と木村隼人両陣に討ち入り気勢を上げた。
天正8月9年8月 長岡(細川)藤孝は家臣の松井康之等1500余りの兵を率いて、大船数隻で兵糧を攻囲陣に供給し、同時に毛利の糧道を断つことに成功した。松井は、千代川河口で毛利水軍の将の鹿足元忠と衝突し、それを討ち果たして穀物輸送船5隻を奪った。さらに伯耆の泊城を攻め、毛利船65隻を奪取し、大崎城下(気高町)を焼き払い、信長より9月16日その功を賞されている。
その後、宮部継潤が雁金山の将塩谷高清を攻め、久松山と雁金山との連絡道を断ち切った。高清は丸山城に逃亡した。これによって鳥取城と丸山城は孤立し、兵糧道が遮断された。これが鳥取城落城の決め手となった。戦後宮部は殊勲者として5万9百70石鳥取城主となった。「宮部文書」
兵糧がつき、草根・木皮を食べ、死人の肉までも奪い食するに至ったと伝わる。『信長公記』、『因幡民談記』
10月下旬開城への談判 経家は家臣の野田春実に堀尾吉晴・一柳直末と開城の規約について談判をさせた。
10月24日 森下道誉、中村春続切腹
丸山城の塩谷高清、佐々木三郎左衛門、奈佐日本助切腹
10月25日 吉川経家切腹
同日開城 その他兵の退城・帰国、立てこもった者に粥が用意された。
鳥取城の戦いについての疑問?
一、秀吉の米の買い占めについて
一、鳥取城の家宰中村春続、森下道誉両氏は愚行の者か
鳥取城攻めにおいて羽柴秀吉が下工作として、米の買い占めを行ったとされている。これが何に基づいて語られているかということが気になり探ってみると『陰徳太平記』に書かれていることがわかった。
その書物の「牛尾春重鳥取城入城の事」の欄に「商買船数艘若狭ヨリ因州と差下シ五穀ノ類ヲ買求ムル事、ソノ値倍徒セリ。森下、中村等浅智、ニシテ是ヲ謀トハ夢ニモ知ラズ眼前ノ利欲ニ心耽テ備蓄置タル兵糧共悉く取出シ糶トナスコト方便ケレ・・・」とある。
要約
若狭より因州へ商人が船数隻でやって来て五穀の類を買い求め、市場の値が倍になった。それを森下、中村が羽柴秀吉の計略とは知らず眼前の利益に心を奪われて、備蓄の兵糧ことごとく取り出し売りに出した。鳥取城は名城にして矢石の力をもって争うことには容易に落ちることはないけれど兵糧の絶たたれること備えの知恵がない。
▲「牛尾春重鳥取城入城の事」 『陰徳太平記』より抜粋
森下と中村は織田方に翻った山名豊国を城外に追放したあと、吉川元春が派遣した城主牛尾氏が丹後の諸寄城の攻撃で負傷したことにより新たな城主を要請し、次に送り込まれたのが市川雅楽允・朝枝春元の二名。しかし、森下、中村等は不服で秀吉の大軍からこの地を守るには、吉川姓を持つ英傑を懇望した。この森下と中村は従来家宰という立場で主君を補佐し、家政を取りしきるという職責を持っていた。織田方についた優柔不断の山名豊国を排除した時から、自らの人質を捨て城を守るための覚悟はできていたはずで、その彼らをこの書では、毛利の支援の不備を語らず森下、中村を利欲と知恵浅きゆえに兵糧を無くし名城の鳥取城を失ったと責任転嫁しているのである。敵方の羽柴筑前守秀吉は計策の知恵古今に傑出した大将と称したあと、この二人の愚行をなじっている。軍記物を鵜呑みにすると、真実が見えなくなるように思える。ゆえに、米の買い占めがあったかどうかについて、他に裏付けがないのであれば一考を要すべきではないだろうか。
※『陰徳太平記』: 岩国領吉川家家臣香川 正矩が編纂した毛利元就を讃える軍記物語(享保2年・1717年・発刊 81巻)で、史実としては信頼性がないとされる。
鳥取城落城の最大要因とは
毛利は三木城の戦いで、後方支援に失敗した経験をもつ。秀吉軍が三木城攻めの途中に宇喜多直家を毛利から離反させたため、毛利の山陽道による東上を遮断することにより三木城は孤立化しついに兵糧がつき敗北を余儀なくされた。山陰においても、秀吉は鳥取西の伯耆羽衣石城城主南条元継を味方につけたことにより、因幡鹿野城(城代亀井茲矩)とともに山陰道に立ちふさがり毛利の東上を封鎖した。毛利はまたしても、同じ轍を踏むことになった。
吉川経家が鳥取城に入り再軍備を固めたのは、秀吉にが因幡に入る4ケ月前に迫っていた。鳥取城内の指揮系統と戦闘体制の遅れが表面化した。
当時山陰を守備する元春は、寝返った南条・小鴨両氏の征伐に着手したものの、美作の祝山(医王山)城主湯原春綱の要請による救援、さらに美作・備前内の毛利軍と宇喜多・秀吉軍の衝突に奔走し多忙を極めており、伯耆・因幡の防御に専念できないというジレンマに陥っていたのである。
参考:『鳥取県史 2 中世』、『鳥取県の歴史』、『天正九年鳥取城をめぐる戦い』
雑 感
開城の談判のとき、秀吉側の開城条件には経家や芸州よりの加番の者は助けるということであったが、経家は加番の者でもひとたび鳥取城主となった以上は全責任を負い自害する意思を堅く貫き、死を選んだ。
経家は秀吉の森下、中村氏の処置について、先の城主山名豊国には不忠義でも毛利家に対しては人質を捨ててまで忠義を尽くした忠臣なので命を助け、元春公の陣所まで護送したいことを主張したが、受け入れられなかった。『鳥取県史』
吉川経家の潔い身の処し方は、吉川元春の城主としての派遣の要請を受諾したときすでに覚悟はできていたと思われる。
このように武士たちの戦いは決着したものの、その争いに巻き込まれた因幡の村人の多くが城に追い込まれ籠城戦の犠牲となった。開城時になんとか命のあった者も、用意された粥ですら胃が受け付けず死んでいった。このような飢えによる悲劇は史上類をみないものだった。
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因幡 太閤ケ平
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