地名由来「西大畠・小日山」 上月町(現佐用町)
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名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)
■西大畠(にしおおばたけ)
佐用川支流大日山川の下流域。上月村の西、宇根村・須安村の南に位置し、大畑とも記した。佐用町の大畠村に対して西庄大畠村とも称した。大日山川沿いに西進し、万能峠を越えて美作国に入る道に沿って樫ケ淵(かしがぶち)・越田和(こしだわ)・判官(ほうがん)・稗田(ひえだ)の集落があり、標高300mの南部山地の高位谷地に久木原(しゃきはら)の集落がある。寛文10年(1670)の池田検地の時に、当村から目高・力万・寄延・小日山の4か村が分かれたという。
越田和の大避(おおざけ)神社は天正2年(1574)に赤穂の坂越(さこし)の同名社を樫ケ淵の下原に勧請したという。村人は美作蓮花寺(れんげじ)の檀徒。判官在所には、昔判官太郎助安が居住したという。元禄年間(1688~1704)から副業に紙すきを行い、大畠紙として近郷で愛用され、三日月藩にも定期的に納入した。文化2年(1805)庄屋吉田源三郎は奉行に願い出て石灰の株を許され、万能峠下の山中の石灰岩を用いて石灰を製造し、肥料・紙すきなどに利用。年額30石、1か月銀1匁上納。1駄4俵で6,000駄を産出。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から畜産・養蚕に従事するものが多くなり、冬季は製炭業にも従事、また婦女子は冬季にわら芯切りを営み、昭和25年ころまで行われた。紙すきは西洋紙に圧倒され、大正末期には12戸、春秋の生産高は2000束程、木炭出荷8000俵、石灰もふるわなくなった。大正12年電灯架設。昭和11年姫新線が開通。
■小日山(こびやま)
佐用川支流大日山川流域。地名の由来は、大日山川沿いの日のよく当たる所で大日山より戸数が少ないことによるか。字宮前の平治畠は平治年間の開拓で兵衛という人が居住したという。寛文10年(1670)の池田検地の時に西大畠村から分村という。
八代荒神社が氏神であった。薬師を祀っていたという四ツ堂跡がある。昔60歳になるとここに捨てたといい、冥福を祈るための薬師という。嘉永元年(1848)には紙屋11人で年間264束をすく。当村の紙は良質で三日月藩の御用紙として納め、1束あたりの値段も他村より高値で取引されている。
村人は美作国土居蓮花寺の檀徒。交通の便悪く西大畠まで12町、道幅3尺、川に6か所の飛び所があり、運搬は大日山を経て赤穂郡岩木へ出る方が得策という。寛政12年(1800)の飢饉にはクズの根を掘り、粥(かゆ)1合宛配され、天保12年(1841)の大洪水では平地一帯が川になった。明治22年西庄村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から畜産・養蚕を副業とし、年々増加、同38年の養蚕戸数20(全体の6割)。古くからウメが特産物、木炭は雑木200町歩あり、大正10年には1万俵に達した。コンニャク玉の生産量は西庄村第2位だったという。大正12年電灯架設。昭和25年前後まで、畜産・養蚕を副業としていた。
◇今回の発見
・西大畠の地名は分村する前から大きな田畑があったからなのだろう。
・西大畠・小日山の両村とも江戸時代より紙すき業が盛んであった。西大畠の万能峠下で石灰生産が昭和初期まで行われていた。
・小日山に興味深い姨捨伝説が残る。捨てられた場所にお堂跡が残ると。