今回は林野(はやしの)城と倉敷城の二つの名をもった中世・戦国期の城跡です。林野・倉敷の城名は、双方とも古文書に表記されているため、今では二つの名が並記されています。(林野城は鎌倉期より、倉敷城は戦国期に表記されている)
この城は梶並川を挟んで三星城と向かい合い、出雲街道と梶並川・吉野川を眼下に見通す要衝の地であり、中世・戦国期そして近世初頭まで使われた城跡です。
▲南からの鳥瞰 登城コースはイメージ by Google Earth
美作 林野城・倉敷城跡 英田郡美作町林野(美作市林野)
梶並川と吉井川支流吉野川の合流点の北側の位置にあり、対岸の梶並川の北西約700m地点に三星城がある。城山(標高249m)の頂上までの尾根筋に連郭式の曲輪を配し、堀切・土塁、西向きに物見櫓を配する中世戦国の特徴を有する城跡である。
鎌倉期に林野城の名があり、後藤良猶の弟後藤良兼が在城したと伝える。
康安元年(1361)山名時氏が美作国を侵攻したときに落とされた林野の城と見える。(『太平記』)。
天文13年(1544)尼子晴久は美作に勢力を広げ、倉敷城には尼子家臣川副久盛と東作の江見久蔵を置き、三星城主の後藤氏と共に東作地域を守らした。
しかし、しばらくして三星城の後藤氏は反尼子に翻ったようで、天文23年(1554)は浦上宗景と通じてこの林野城を攻略しようとしたが、川副氏、江見氏は迎え撃った。
永禄3年(1560)と見られる5月朔日に、倉敷城の江見氏は三星城主の後藤氏と三星城の山下の入田で合戦をしている。(「美作江見文書」、「美作国諸家感状記」、『東作誌』)。
永禄8年(1565)尼子氏が本拠地の月山富田城を毛利氏に包囲されたため、川福氏は出雲に引き上げ、翌年尼子氏が毛利に敗れた
永禄12年(1569))尼子勝久を擁して山中鹿助等が出雲に挙兵すると、これに江見氏も加わり戦っている。
天正7年(1579)宇喜多直家が東作地域に侵攻し、城番の江見市之丞は矢櫃城主江見次郎と共に勝田郡鷹巣城で宇喜軍と戦い敗れた。その後、倉敷城には宇喜多直家の家臣戸川秀安、岡市丞などを配した。
慶長5年(1600)の関ケ原の戦いで宇喜多秀家が没落し、同年12月から小早川秀秋が木下勝助、萩原龍浦らが城に置かれたとも。秀秋の年寄稲葉道政が代官になったとも記す「武家聞伝記」、「江見家記」)。
▲林野城跡縄張図 (『美作国の山城』津山市教育委員会)より
▲城山全景
アクセス
城山の山肌に安養寺の墓地があり、美作ハローワークの裏手に城址の案内板がある。そこから斜め左に登っていく。所要時間は約30分程度。
▲登城口の説明板
▲登山 ▲整備された登山道
▲三の丸に至る
尾根筋にある曲輪跡の途中(三の丸)に至る。左には二段の曲輪跡がある。ここよりゆるやかな尾根筋上の曲輪跡を登っていくと山肌が露出したあたりから、眼下が望める。
▲尾根筋上の曲輪跡
▲露出した山肌に階段が敷かれている
▲南方の展望
山肌を登りきるとヒトツバ(シダの一種)の群生が曲輪一面を覆っている。
ここを抜けると、切岸と堀切が待ち受けている。
▲ヒトツバの群生
▲上部の階段の左右が堀切(通路確保のため一部破壊)▲堀切
主郭の前に大きな堀切があるため、通路確保のため堀切を埋め、主郭右端の切岸の一部を削りとったことがわかる。
上に上がると主郭部である。
▲主郭に立てられた林野城想像復元図
▲復元図の拡大 傷んでいたので見やすく修正を加えた
※大手道が曲輪の先に描かれている。ということは、現在の登山道は廃城のあと造られた登山道ということのようだ。
※大手の入り口には根小屋が描かれ、東麓の朽木にある荒木田大明神の社も城の一部として描かれている。
※二の丸の左奥(城山の西側)に物見台(櫓)が描かれている。(これは気が付かなかったため次回確認したい。)
▲主郭 主郭よりコビキB類の瓦が採集されている。
※鉄線引きの痕を残すコビキB類の瓦の出土は、宇喜多氏から小早川氏の時代の瓦葺きの建物と判断されている。
▲井戸跡
▲主郭 北側
主郭は幅が10~40m、長さが200m弱ある。北端には肌が露出した土塁がみられる。
その一段下の曲輪跡に倉敷城の看板が置かれている。
▲主郭北詰 土塁跡
▲主郭の一段下 窪みは井戸跡、石の散乱が見られる
▲搦手の道 ▲北の尾根筋の堀切
林野・倉敷の地名
林野:吉野川と梶並川の合流点付近の谷底平地に位置する。古代の平安期に林野郷と見え、中世の鎌倉期から戦国期には林野保と見える。
倉敷:蔵敷ともいい中世・戦国期に見える。鎌倉期以降に河川交通の途が開けた頃から河岸に立ち並ぶ蔵屋敷を呼称したと伝わる。
江戸期~明治29年まで倉敷村、明治29年~大正7年まで倉敷町、大正7年に林野と改称。
倉敷を林野と改称した理由
備中の高梁川河口の倉敷と混同されるようになり、美作の倉敷は林野と改称した。※荷物や郵便に住所に郡名の記載がない場合、備中の倉敷に誤配されるということが頻繁に起きたようです。
ちなみに改正前の住所は
美作の倉敷は 英田郡倉敷町
備中の倉敷は 窪屋(くぼや)郡倉敷町
雑 感
二つの城名
城山登城口の説明板、主郭の説明板には林野城跡としているのに、主郭の北側に倉敷城と書かれた看板を見たとき、あれっと思った。後日、地域の歴史を知り、先にこしらえ傷みかけた城看板の倉敷という城名(地名)に設置者の愛着、こだわりのようなものを感じた。
林野、倉敷の二つの城名の並記もされている。古代より林野郷の中心にあった倉敷村の城と私は理解している。
江見氏の尼子氏に対する忠誠心は本物
尼子氏が美作に侵攻し、後藤氏や江見氏を従属させた。倉敷城には尼子家臣川副久盛と江見久盛を入れ、守らしている。偶然にも二人の武将の名が久盛である。しかも、このあと江見氏は後藤氏とは違って、尼子氏のために最後まで忠誠の行動をとっている。尼子氏の月山富田城が開城となった後山中鹿助等が尼子勝久を擁して出雲に挙兵すると、これに江見氏も加わり戦っているのである。
この一連の動きは尼子氏が備州、作州、播州の雄となることを信じ、その暁に美作の江見となることを夢見て江見家の命運を尼子氏に賭けたとしか思えない。
しかし、出雲の雄尼子氏は毛利に屈し、滅亡した。後ろ盾を無くした江見氏は毛利方の宇喜多氏に攻められ敗北するも、宇喜多氏家臣戸川秀安の配下となり滅亡は免れている。
東作の有力者の後藤氏も江見氏も戦国の世に翻弄され、最終的には両者とも宇喜多氏の手にかかるも、後藤氏は滅び、江見氏は江戸時代庄屋として生き延びることができた。
東作ののどかな温泉地近くの二つの城跡探索によって、覇権争いに翻弄された戦国武将たちのサバイバルの戦いがこの地で繰り返された、そんな歴史を知ることができた。
参考
『美作国の山城』、『角川日本地名辞典』、『江見久盛 ウィキペディア」
【関連】
美作 三星城跡
出雲 月山富田城跡
城郭アドレス一覧