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安志藩(その1) ~陣屋跡を歩く~
享保元年(1716)の今から300年前のことです。藩主小笠原氏が宍粟郡安富町安志(現姫路市安富町)に陣屋を構えました。その場所は西方は安志川に接し、東方には林田川があり、弥ノ谷山(やのたにやま)を背にして、南方に農人町安志を見下ろせる好立地でした。
この安志藩については、地元の一部の人以外あまり知られていません。というのは火事や災害で資料や遺構の大部分が失われ、藩の全容がよくわからなくなっているからです。
まだ残暑さめやらぬ8月30日の昼近く、近くに住む郷土歴史に詳しい志水氏に陣屋跡を案内していただきました。では、安志藩陣屋跡をご案内します。
下図は、 安志藩のあった場所の鳥瞰(ちょうかん)です。
▼南からの鳥瞰

▼北からの鳥瞰

黄色の囲い部分が陣屋・屋敷があった場所です。 現在は中国自動車道(以下「中国道」)がその場所を東西に真二つに分断しています。
次に廃藩当時の絵図をご覧ください。
▼廃藩当時の絵図 黄色線は中国道・29号線

分断された、北部に藩主御殿、南部に家臣屋敷がありました。北は、現在安富中学校校舎・運動場になっています。当時の町なかにあった東西(福崎から山崎方面)を結ぶ旧道の東詰が29号線に接し、今は西行き一方通行の道として町を横切っています。
▼幕末家中屋敷道路配置図と写真位置

その旧道の中央から北に伸びるなだらかな道を少し進むと左手に大手の名をとった「安志自治会館大手」が建てられています。この先のやや高くなった所に大手表御門跡地があり、北門につづきます。
▼ 写真① 安志自治会館前の道(北方向)

▼写真② 大手表門のあった所

▼写真③ 大手表門の左につづく石垣

この道(広小路筋)につながる左右の筋は十字に交わらず鉤(かぎ)状になり、右筋が南にずれているのが、今でも確認できます。この大手道の周辺は家臣の屋敷があり、屋敷道として使われていた細い道が今も残っています。中ノ丁あたりで大手道が右に屈折(電光型屈折)し、防衛上わざと見通しのできないように造られた道づくりが当時の面影をとどめています。
▼写真④ 大手を進むと、中ノ丁で道が右に屈折する

▼写真⑤ 石垣で囲まれた屋敷跡

▼写真⑥ かつての小路が残る

▼写真⑦ 大手表門の最初の角を右折して少し歩くと安富公民館横に「桜の馬場跡」があります。

さらに大手道を北に進むと中国道下のトンネルに至ります。中国道は家老屋敷を横切っています。屋敷跡は、あとで発掘ができるように、空洞として残されているということです。
▼写真⑧ この下に屋敷跡が

それは、図面に示される家老(小笠原氏、犬甘氏いぬかい)の大屋敷跡です。中学校の運動場沿いに進むと表門跡に記念碑が建てられています。ここが藩主の御殿入口の場所です。
▼写真⑨ 陣屋跡記念碑

藩主御殿跡は運動場となり、8月の終わりの昼前の暑い日差しの中で、安富中の野球部員が元気よく白球を追っていました。御殿内(中学校東端)に当時藩主が使っていた高い位置の井戸がありましたが、今では確認できません。
藩主邸の表門は長野の真光寺の山門に使われていると伝えられています。後でその門を見に行きましたが、なかなか立派なもので、かつてこの藩邸の門をくぐったところにあった御殿は弥ノ谷山を背にしてその威容を誇っていたのではないかと感じた。
▼真光寺(長野)の山門

▼瓦の家紋は小笠家三階菱

当然のことながら、当時はこの表門までは番所の許可なしでこれません。大手表御門には2人、他の3門(西・北・東門)は1人の門番が通行規定に従って出入りを厳しくチェックしていたようです。
光久寺前南の中国道をくぐったところに、安志川を内堀として高さ2m弱、長さ6mのさほど大きくない石垣がかろうじて残されています。その少し北に武家屋敷の西詰の西門がありました。
▼写真⑩ 西門近くの石垣


参考「安富町史・付図」
【関連】
安志藩(その2)~小笠原氏について~
安志藩(その3) 無城の地へ
安志藩(その4) 陣屋の建設と藩主邸
廃藩当時の絵図に載っている
⑥の場所に今でも住んでいます。
蔵に残っていた資料など見ながら、
当時の暮らしを振り返って楽しんでいます。
思い出すのに、安志藩の所在地について安志の志水出世先生(最後の写真)に夏の暑いさなか案内してもらったのが十数年前のことでした。