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伊丹・有岡城の幽閉の遺恨なし?
官兵衛が村重に書状 領地問題、協力を約束
2013.12.3 神戸新聞の記事より
兵庫県伊丹市は2日、来年のNHK大河ドラマで描かれる戦国武将・黒田官兵衛が伊丹の武将・荒木村重に宛てた書状を確認した、と発表した。
ともに織田信長の家臣だったが、村重は信長に反旗を翻し、説得に訪れた官兵衛を有岡城に幽閉。“敵同士”のイメージが強いが、有岡城落城4年後の書状からは、豊臣秀吉の下で協力する2人の姿が浮かび上がる。
同市によると、書状は京都市の光源院所蔵で、1583(天正11)年11月12日付。光源院は当時、現在の鳥取県にあった領地を地元豪族に奪われたため、秀吉に茶人として仕えていた村重に調停を願い出ていた。
村重は、中国地方の領地問題を担当していた官兵衛に意見を求めたとみられ、この書状は官兵衛からの返事。解決への協力を約束した上で、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されている。
書状の存在は昭和初期の歴史書に記載されていたが、検証されたことはなかった。神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)によると、所蔵の書状は原本の写しで、村重が光源院へ送った可能性があるという。
今井教授は「幽閉後の2人の交流を示す唯一の史料。官兵衛は非道な扱いをされた印象があるが、両者には一定の信頼関係があったことが分かる」と分析している。(太中麻美)
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官兵衛の書状から
官兵衛は荒木村重の幽閉に遺恨はなかったのか?
その書状からは「両者には一定の信頼関係があった」と分析されているのはよくわかる。少なくても文面ではそうだろう。
しかし、黒田官兵衛は、救出されたときは、約1年間の幽閉で身体は衰弱し肉は落ち足はもろく、皮膚病を患っていたと『黒田家譜』に伝わっている。
劣悪で過酷な幽閉によって最悪の場合、命が奪われていたかも知れない。そんな身体的苦痛とともに信長に人質として差し出している一人息子長政(松寿丸、11歳前後)の安否が気がかりであったと思われる。
そのような仕打ちのあと4年の歳月で、二人の関係が修復され、旧知の間柄になったとは想像できるだろうか。私には到底理解できない。
この二人は、秀吉の播磨平定に地域の武将の説得と人質の確保に従事していた。二人に信頼関係が存続していたとすれば、有岡城幽閉の状況下でなんらかの村重の官兵衛に対する配慮があったのではないか。
官兵衛が村重に説得に有岡城に行ったものの、官兵衛は村重の謀反の意を翻すことはできず、逆に村重は信長への謀反に至る心うちをすべて官兵衛に伝え、官兵衛を敵に回したくなかったからこそ城から出さなかった。生きるか死ぬかの過酷な牢獄ではなく、軟禁状態であったのではないかと推測している。
荒木村重の城脱出の顛末
有岡城を脱出した村重は花隈城(神戸市中央区)に入り、すぐさま雑賀衆の実力者や毛利水軍の乃美宗勝に書状をおくり援軍を求めている。しかし、それも叶わず、池田恒興(姫路城主池田輝政の父)等と戦うが敗れ、毛利方に亡命した。
城主がいなくなった有岡城内は収拾がつかず落城した。信長により、場内に残された妻や女房衆、家臣ともども一人残らず、みせしめのため処刑された。女房衆は尼崎の七松において鉄砲や長刀で処刑された。「122人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。・・・」と処刑の生々しい様子が『信長公記』に記録されている。
その後、本能寺で信長が明智光秀によって討たれ、秀吉が天下を治めると、村重は堺に移り茶人となり、大阪で千利休らとも親交をもつようになった。村重は武将でもあり茶の湯を嗜む文化人でもあった。
村重は、有岡城の戦いで頼りにしていたキリシタンの高山右近や小西行長が織田方に寝返ったことに恨みを持ち、秀吉に讒訴(ざんそ)したことが逆に秀吉にとがめられた。そのあと許されて、茶人としての召し抱えられている。村重は自らを「道糞」(茶人名)を使っていたが、秀吉が「道薫」と改めさせたという。
黒田家の家紋(藤巴)のこと
司馬遼太郎著「播磨灘物語」では官兵衛が有岡城の牢屋の窓から藤の花を見て、勇気づけられる場面がある。それ以後黒田の家紋が藤巴に改められたと見るむきもあるが、実は、家紋は仕えていた主君との関係からきていると考えられている。
黒田職隆(もとたか)・孝高(官兵衛)親子が御着城主小寺政職(まさもと)に仕え、官兵衛は小寺の名字を名乗ることを許された。そのとき藤巴紋を賜ったと考えられる。また小寺家は、もともと赤松一族で、小寺氏家紋の藤橘巴紋は赤松の巴紋を変化させたものであろう。 「web 戦国武家家伝」より
【関連】
・有岡城1
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