郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

摂津 有岡城跡2 黒田官兵衛の荒木村重への書状から

2020-03-31 10:45:31 | 城跡巡り
【閲覧数】2,556 (2013. 312.5~2019.10.31)                                 





伊丹・有岡城の幽閉の遺恨なし?

官兵衛が村重に書状  領地問題、協力を約束

2013.12.3 神戸新聞の記事より
 

 兵庫県伊丹市は2日、来年のNHK大河ドラマで描かれる戦国武将・黒田官兵衛が伊丹の武将・荒木村重に宛てた書状を確認した、と発表した。
 ともに織田信長の家臣だったが、村重は信長に反旗を翻し、説得に訪れた官兵衛を有岡城に幽閉。“敵同士”のイメージが強いが、有岡城落城4年後の書状からは、豊臣秀吉の下で協力する2人の姿が浮かび上がる。
 同市によると、書状は京都市の光源院所蔵で、1583(天正11)年11月12日付。光源院は当時、現在の鳥取県にあった領地を地元豪族に奪われたため、秀吉に茶人として仕えていた村重に調停を願い出ていた。

 村重は、中国地方の領地問題を担当していた官兵衛に意見を求めたとみられ、この書状は官兵衛からの返事。解決への協力を約束した上で、「(秀吉の)お供で姫路においでになると思っていたが、おいでにならず残念。機会があれば会うことを考えている」などと記されている。

  書状の存在は昭和初期の歴史書に記載されていたが、検証されたことはなかった。神戸女子大の今井修平教授(日本近世史)によると、所蔵の書状は原本の写しで、村重が光源院へ送った可能性があるという。

 今井教授は「幽閉後の2人の交流を示す唯一の史料。官兵衛は非道な扱いをされた印象があるが、両者には一定の信頼関係があったことが分かる」と分析している。(太中麻美)







◆  ◆  ◆  ◆  ◆  ◆


官兵衛の書状から 


官兵衛は荒木村重の幽閉に遺恨はなかったのか?

 その書状からは「両者には一定の信頼関係があった」と分析されているのはよくわかる。少なくても文面ではそうだろう。

 しかし、黒田官兵衛は、救出されたときは、約1年間の幽閉で身体は衰弱し肉は落ち足はもろく、皮膚病を患っていたと『黒田家譜』に伝わっている。

 劣悪で過酷な幽閉によって最悪の場合、命が奪われていたかも知れない。そんな身体的苦痛とともに信長に人質として差し出している一人息子長政(松寿丸、11歳前後)の安否が気がかりであったと思われる。

 そのような仕打ちのあと4年の歳月で、二人の関係が修復され、旧知の間柄になったとは想像できるだろうか。私には到底理解できない。
 
 この二人は、秀吉の播磨平定に地域の武将の説得と人質の確保に従事していた。二人に信頼関係が存続していたとすれば、有岡城幽閉の状況下でなんらかの村重の官兵衛に対する配慮があったのではないか。

 官兵衛が村重に説得に有岡城に行ったものの、官兵衛は村重の謀反の意を翻すことはできず、逆に村重は信長への謀反に至る心うちをすべて官兵衛に伝え、官兵衛を敵に回したくなかったからこそ城から出さなかった。生きるか死ぬかの過酷な牢獄ではなく、軟禁状態であったのではないかと推測している。



荒木村重の城脱出の顛末

 有岡城を脱出した村重は花隈城(神戸市中央区)に入り、すぐさま雑賀衆の実力者や毛利水軍の乃美宗勝に書状をおくり援軍を求めている。しかし、それも叶わず、池田恒興(姫路城主池田輝政の父)等と戦うが敗れ、毛利方に亡命した。

 城主がいなくなった有岡城内は収拾がつかず落城した。信長により、場内に残された妻や女房衆、家臣ともども一人残らず、みせしめのため処刑された。女房衆は尼崎の七松において鉄砲や長刀で処刑された。「122人の女房一度に悲しみ叫ぶ声、天にも響くばかりにて、見る人目もくれ心も消えて、感涙押さえ難し。・・・」と処刑の生々しい様子が『信長公記』に記録されている。

 その後、本能寺で信長が明智光秀によって討たれ、秀吉が天下を治めると、村重は堺に移り茶人となり、大阪で千利休らとも親交をもつようになった。村重は武将でもあり茶の湯を嗜む文化人でもあった。

 村重は、有岡城の戦いで頼りにしていたキリシタンの高山右近や小西行長が織田方に寝返ったことに恨みを持ち、秀吉に讒訴(ざんそ)したことが逆に秀吉にとがめられた。そのあと許されて、茶人としての召し抱えられている。村重は自らを「道糞」(茶人名)を使っていたが、秀吉が「道薫」と改めさせたという。




黒田家の家紋(藤巴)のこと

 司馬遼太郎著「播磨灘物語」では官兵衛が有岡城の牢屋の窓から藤の花を見て、勇気づけられる場面がある。それ以後黒田の家紋が藤巴に改められたと見るむきもあるが、実は、家紋は仕えていた主君との関係からきていると考えられている。






 黒田職隆(もとたか)・孝高(官兵衛)親子が御着城主小寺政職(まさもと)に仕え、官兵衛は小寺の名字を名乗ることを許された。そのとき藤巴紋を賜ったと考えられる。また小寺家は、もともと赤松一族で、小寺氏家紋の藤橘巴紋は赤松の巴紋を変化させたものであろう。  「web 戦国武家家伝」より


【関連】
・有岡城1

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摂津 有岡城跡1

2020-03-31 09:56:37 | 城跡巡り
【閲覧数】7,084 (2012.11.27~2019.10.31)


                               


▼有岡城跡(復元石垣) 
 




黒田官兵衛を追って摂津国 伊丹へ


 黒田官兵衛が長期幽閉された有岡城(伊丹城)跡を見てみたいと、10月下旬伊丹市まで足を伸ばした。ところが伊丹城は平城、すでに都会の街中で埋没していた・・・。


 伊丹市は兵庫県南東部に位置し、大阪府と隣接している。古代摂津国(摂州)の13郡の一つの川辺郡にあり、その13郡内のうちの西摂地方の川辺・武庫・兎原(うはら)・八部(やたべ)・有馬の5郡が現在の兵庫県域に属し、他の8郡は大阪府に属している。

                               

▼摂津の西摂地方の5郡  





有岡城(伊丹城)跡のこと  伊丹市伊丹2丁目(有岡公園内)



 有岡城は、鎌倉末期伊丹氏の築城に始まると思われ、応仁の乱以降伊丹氏は、荘園の代官職に任ぜられ摂津の有力者となっていった。その後の摂津守護細川氏の相続争いに巻き込まれるなど、幾たびかの戦火を交えるも、からくも一族存亡の危機を脱した。

 しかし、織田信長の時代に荒木村重(むらしげ)が現れた。摂津池田城主池田勝正の家臣であった村重は、池田家の内紛に乗じ頭角を現した。信長に従い、元の主君池田勝正を追放し、伊丹城を攻め落とした。それにより天正2年(1574)38万石の知行が与えられ摂津の実権を得て、新たな城造りに着手し、城名を伊丹城から有岡城に改めた。

  有岡城は東の猪名川と西の武庫川の間の大阪湾に張り出した伊丹台地の東縁部にあり、崖上の本曲輪を中心に猪名川を自然の堀とし、西は大溝筋で内曲輪・外曲輪をなし、内曲輪に侍屋敷を、外曲輪に寺院、町屋を配し、要所に上臈塚(じょうろうつか)砦(女郎塚砦)・鵯塚(ひよどりつか)砦、昆陽口(こよぐち)砦を置く本格的な惣構え(そうがまえ)の城を築いたのである。その時の城の様子が、天正4年(1576)にこの城に訪れたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが本国への手紙に「甚だ壮大にして見事な城に着きたり。」とあり、城の存在がこれにより裏付けされている。




▼摂州川辺郡伊丹郷 文禄年間(1592-1596) 之図

天保7年(1836)復元絵図 (伊丹市立博物館蔵)



  天正6年(1578)10月、有岡城主荒木村重が突如織田に反旗をひるがえした。官兵衛は単身姫路城から伊丹の有岡城へ説得に向かった。しかし、そのまま有岡城で幽閉されてしまった。この時すでに官兵衛の主君小寺政職は荒木村重と手を組んでいたとされている。官兵衛は有岡城が織田方によって落城するまでの1年余りを牢獄に幽閉された。 

 有岡城の戦いでは、信長は鉄砲隊と火矢で押し寄せるが、有岡城は思いのほか堅く、信長の被害は大きく、持久戦を余儀なくされた。有岡城は本願寺や毛利からの援護がなく、兵糧が尽き始めたころ村重は城を脱出した。その後内部から裏切り者が出始め、西の上臈塚砦(女郎塚砦)が破られ、町屋敷に火が放たれ、城は丸裸となった。ついには天正7年(1579)11月、有岡城は陥落した。



▼有岡城惣構の図 案内板より 





▼発掘調査報告より  土塁内側の石垣 中に石仏なども





 この戦いに対する荒木村重に対する信長の仕打ちはことのほか厳しく、一族郎党の残酷な処刑が行われた。この処置のことを本願寺の顕如(けんにょ)上人が、天正8年(1580)の信長との講和の事情を説明する諸国門人衆に宛てた書状に、「※然時は有岡・三木同前に可成行事眼前候」とある。


 ※ 読み下し文 :然る時は有岡、三木同前に成り行くべきと眼前に候

      訳  :こうなれば、有岡や三木と同じようになってしまうと眼前の敵を見ながら思う。


 有岡城落後は、信長は池田之助(元助)を城主とし、有岡城は伊丹城と再改称され、羽柴秀吉の直轄領となり廃城まで続いた。

 江戸時代には、惣構えの領域の伊丹郷は、酒造りを中心とした商業町として発展し現在に至っている。

 しかし、中世の城跡は、明治以降の鉄道敷設、そして、昭和期の都市開発により総構えの堀跡・土塁跡はことごとく埋められ、破壊され、目に見えるわずかな遺跡は有岡城跡城址公園としてかろうじて面影を留めるにすぎない。 (参考:日本城郭大系、 日本地名大辞典他)



写真で見る城域の移り変り(昭和36年から平成19年までの約半世紀航空写真・国土交通省)



▼昭和36年(1961)                     


▼平成19年(2007)





アクセス


 有岡城跡へは、JR伊丹駅、イオンモール伊丹に向かって中国自動車道池田インターを降り、南下する。イオンモール伊丹からは伊丹郷町方面に陸橋が架けられ、西詰に復元された石垣がすぐそこである。これが有岡城(伊丹城)跡である。



▼イオンモールにつづく陸橋より北を望む     



▼史跡公園(本丸跡)の東側





 陸橋の西詰の北側に石垣で囲まれた城跡が見える。上に登ると本丸の曲輪跡がある。そこには礎石建物跡や井戸跡があり、周囲に土塁が築かれている。東側を流れる猪名川とは10m〜15mの高低差がある。 




▼本丸の礎石建物跡                  



▼井戸跡(2か所復元)



▼本丸の周囲の石垣と土塁             


▼土塁の上から




▼本丸の一角にある荒木村重と正室だしの句碑




・あらき だし  霜かれに残りて我は八重むくら なにはのうらのそこのみくつに

・荒木 村重  思いきや あまのかり橋ふみならし なにはの花の夢ならむとは  

                      信長公記より  鈴木充書




 この本丸以外の城跡の手掛かりを求めて、惣構えの北部の守り「岸の砦」があるという猪名野神社まで歩いた。

 街中を東に進むと造り酒屋や町屋敷等がある。それらを楽しみながら、途中右折し北に進むと宮前通りの先に神社の長い参道が見えてくる。鳥居の近くに「岸の砦」の説明板がある。

 猪名野神社の境内は広く、本殿の背後に長い土塁跡を見つけることができた。南北2km近くの惣構えの北の守りという。




▼猪名野神社参道にある「岸の砦跡」の説明板 



 




▼神社拝殿




▼土塁跡

                    



雑 感


 有岡城の戦後処理では、城内に残された家臣やその妻女はことごとく極刑が処せられている。そのことは上月城・三木城の末路と似ている。ただ、違うところは城主の身の処し方だ。有岡城の戦いの最中、城を脱出した城主荒木村重本人は尼崎城・花隈城に移り、毛利に逃れ生き延び、晩年は茶人として、豊臣秀吉の御伽(おとぎ)衆に加わっている。嫡男、二男も生き延び江戸時代初期にそれぞれの道に進んだという。

 一方、黒田官兵衛が牢獄中、嫡男松寿丸(長政)が織田に人質として預けられていたが、官兵衛が有岡城から戻らないことで信長は裏切ったと判断を下し、松寿丸を殺すように命じていたという。しかし、竹中半兵衛の機転で匿(かくま)われていた。そして、官兵衛が救出されて、そのことを知ったときには、半兵衛はすでに亡くなって3ヶ月を経ていた(三木城の戦いの最中病死)。この有岡城落城の4ヶ月後の天正8年(1580)2月、三木城は長い籠城の末、落城している。

 信長の天下統一に揺れ動いた戦国期末期。武将たちのサバイバルは戦国武将の宿命だとはいえ、敗れ去ったものに哀れを感じる。また勝者の栄光も長くは続かないという盛者必滅の無常の原理が根底にあることを歴史の探索で知ることにもなる。


         ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




 猪名野神社のすぐ南に充実した市の図書館があり活用できる。伊丹郷町界隈には造り酒屋、町屋敷等が楽しめるゾーンがある。


伊丹郷町 界隈図






【関連】
・有岡城2 黒田官兵衛の荒木村重への書状から

 
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播磨 三草山城跡

2020-03-30 07:22:22 | 城跡巡り
【閲覧数】2,556(2012.3.16~2019.10.31)                                   


  

▼三草山城 南からの鳥瞰 

by google



三草山城跡のこと   加東市上三草


 三草山城(みくさやまじょう)は、加東市社町の市街地北東8kmの三草山(424m)山頂にあります。周囲には東条湖ランド、播州清水寺、朝光寺があります。頂上からの眺望がすばらしく、ハイキングコースになっています。

 古来よりこの地は丹波と播磨の境目の地で、北西麓を通る道(372号線)は、播磨・丹波・京都を結ぶ京街道としてにぎわう要衝の地にありました。

  三草山城はまた、古戦場でもあります。 平家物語には三草合戦が記され、嘉永3年(1184)に平家追討のため源義経率いる1万余騎は、丹波小野原に布陣し、上鴨川を通り、約12kmの道を駆けぬけ、夜討ちをかけたため、ふいを突かれた平氏の軍は敗走し、さらに一ノ谷の戦いで大打撃をこうむることになります。

 遺構の城跡は、南北朝期に※赤松出羽守則友によって築かれたと伝えられ、石垣・土塁・曲輪跡が残っています。嘉吉の乱(1441)では、三草口で赤松氏と幕府方の山名氏の戦いがあり、赤松軍が敗れています。一方赤松庶流の赤松満政は、嘉吉の乱で赤松追討の幕府大手軍として合戦に参加し、合戦後は東播磨の3郡(明石・美濃・加東郡)の支配を認められましたが、山名持豊に東播3郡を奪われてしまい、それに反感をもった満政はこの三草山城で赤松則尚と共に蜂起し、この城に立て篭り山名氏と戦いましたが敗れ去り、赤松持家(有馬家)を頼って落ち延びるも、受け入れられず逆に討ちとられました。

※赤松家播備作城記には、「三草山城 又朝光城と号す 加東郡福田庄 有馬出羽守則友 有馬出羽守則貞の子也 初めて之を築き居城す‥‥」 とありますが他の文献には現れなく、赤松則友についてははっきりしていません。




アクセス 


 三草山城跡には、三つの登山コース(三草・鹿野・畑コース)がありますが、距離と時間の短い畑(はた)コースを選択しました。畑コース朝光寺の北部の畑地区の口池に駐車場があります。



▼駐車場の入り口の説明版 (畑コース) 
             


▼登山路と等高線

 



 三草神社の鳥居が畑コースの登山口になっています。ここから頂上まで1.4kmで約40分要します。



▼三草山の畑コースの登山口 


             
▼整備された階段

 



▼森林管理署の表示板と地図(林管理署)

 

 


 20分ほど階段を登っていくと、ようやくなだらかな道に入り、その先に明るく展望のよい場所にやって来ました。



▼ベンチ                           



▼南の展望

 


 さらに進むと、見晴らしのよい尾根筋にはいります。説明版があり、その向こうに目指す三草山の頂上が見え始めます。



▼尾根上の道                        


▼説明板

 


 先を進むと、地肌が赤く露出した道があり、そこを抜けると、山頂南筋です。



▼赤い土肌が露出                    



▼山頂の南筋



 
▼案内板(左・南は鹿野コース、右は山頂)        




▼山頂南筋の緩やかな山道

 


この場所は、鹿野コースと畑コースとの合流地点です。鹿野のコースの方角を見ると、急な崖状になっていました。



▼鹿野コースからの城域に入る崖状の道

 



 ここから頂上まではゆったりとした城域で、右側にはいくつかの段になった削平地があり、頂上(主郭)下の曲輪には大きな切岸があります。



▼頂上手前の曲輪の切岸

 

▼頂上(主郭)の虎口 

 


 頂上の中央は、露出した自然石があります。頂上からの景色は格別で、播磨平野が一望できます。 天気がよいと、瀬戸内や明石海峡大橋・淡路島がよく見えます。



▼頂上 主郭(本丸)          



▼山頂からの展望(南) 中央昭和池

 
                

▼山頂からの展望(東)

 


山頂(主郭)の南側に石垣があります。



▼主郭の南の石垣              



▼主郭の南側

 



山頂(主郭)の北側は、崖状になり、小さな曲輪がいくつかあります。南に少し下ったところに、みくさ古道という表示がありました。



▼みくさ古道の表示と下り道       
 



◆城郭一覧アドレス


大火災 

2020-03-30 07:04:39 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】1,126(2011.8.22~2019.10.31)                                   



昭和41年(1966)の宍粟市山崎町大才町・今宿で大火 




 昭和41年12月1日午前零時20分ごろ出火した火事により、35棟が全半焼しました。大才町で発生したものが強風により500mも離れた今宿まで飛び火し、わら屋根が焼失。3、4か所から、一斉に火の手が上がったため、消火に向かうまもなく焼失したものもありました。
 また、揖保川を越えて河東地区の高所までも飛び火し、1棟が全焼しました。


写真:「山崎町 町勢要覧平成3年」より

播磨 善防山城跡

2020-03-29 12:55:17 | 城跡巡り
【閲覧数】2,895(2012.3.22~2019.10.31)                                   
 
 
▼南からの鳥瞰                        

by Google



 善防山(ぜんぼうさん)城跡のこと   加西市三口町・戸田井町・王子町


  善防山城は、伝承では室町期の城で、応永年間(1394~1428)に善防山(251m)の山上に赤松則繁(のりしげ)が築城したという。則繁は嘉吉の乱(1441)の首謀者赤松満祐(みつすけ)の弟で、兄に従って城山城(たつの市)に籠城しましたが、落城の際、脱出しています。
 
 城主不在の善防山城も山名軍に落とされ、そのまま廃城となったものか、その後の伝承はありません。城は削平された4つの曲輪から構成され、最上部の一の曲輪には石垣の一部と井戸跡、二の曲輪には堀切、四の曲輪にも石垣の一部が残っています。
 
 善防山の南麓は猫尾と呼び、これは、善防の侍の居住した根小屋があった山の根の意であったと考えられている。また昔より西国巡礼街道の法華山登り口でもあったようです。
 
 中世には善防山城の南に三口村(現三口町)がありました。三口という地名は、北は北条、南は高砂、西は姫路にあたる街道の口にあたるので三口(みくち)と称し、古くからの交通の要所であったようです。
 
 
赤松則繁のこと
 

 赤松則繁は、赤松義則の八男で、嘉吉の乱(1441)の首謀者の赤松満祐の弟。性格は大変粗暴で、応永31年(1424)には細川持之屋敷の花見の席で家臣の安藤某を殺害しました。第4代将軍の足利義持は則繁に切腹を命じましたが、則繁は逐電し身を潜め、その間応永35年(1428)に義持が死去し、その後許されて出仕するという17年後の足利義教将軍の暗殺の「嘉吉の乱」さながらの事件を引き起こしています。
 嘉吉の乱(1441)では、満祐とともに京都を抜け出して、追討軍に備えて、美作口を守る手はずになっていました。よって善防山城は城主のいないまま、山名氏に簡単に落とされたと考えられ、その後の記録はありません。

 城山城落城に脱出に成功し、生き延びた則繁は北九州の小弐氏(しょうにし)を頼って落ち延び、そこで倭寇の棟梁となり、朝鮮半島まで攻め入り、朝鮮の一カ国を制圧する。その後、日本に舞い戻り、河内に潜んでいたが発見され、最後は 当麻寺(奈良)で討ち取られ、則繁の首は京都でさらされました。



 




・嘉吉元年(1441) 9月9日 城山城より脱出
・嘉吉3年(1443) 6月23日 朝鮮使節、則繁が朝鮮の一カ国占領することを訴える。
・文安5年(1448) 1月   則繁、対馬の少弐氏と共に肥前で大内氏と戦うが破れ、河内の畠山氏を頼る。
        8月8日  則繁、細川持常の手兵に奈良の当麻(たいま)寺で討ち取られる。 
 

参考:「西播磨の戦国時代(たつの市立埋蔵文化センター)」、「 日本城郭大系」他
 


 
アクセス 
 

 



 
 市立加西特別支援学校と下里小学校の裏手に登山口があります。先生にお断りをして、フェンスを開けて上りました。

 
▼登り口                            
 

 

 



一本筋の道なので迷うことはありません。


 
 ▼案内板がところどころに
  
 

▼向こうに善防山の第二頂上が見える  
         


▼岩場の道 
  
 


 だんだんと岩肌が露出し、その上を歩くことになります。振り返ると、学校やその向こうの山々が見え始めました。
 


▼加西市南部の東方面
  


 
 最初の岩山に到着しました。岩場には、松が多い。ここからの展望はさすがによく、足場を気にしながらビデオ撮影。岩の向こうに善坊山が見えます。まだかなりの距離感あり。この岩の先の下りが少し気になったが、尾根筋に岩の道が続いています
 

▼露出岩の頂上に到着                   



▼岩場から山頂を望む。
 

           

▼来た道を振り返ると 絶景が広がる
 


 
 ここからは、北・東・南の三方向にパノラマ的視野が広がっています。北西に立て筋に切り込まれた絶壁が見えましたが、あとから確認するとそこは、石切り場のようです。
 


▼北西に見える切り立った断崖           


 
 
  いったんは下りに転じて、すぐまた登りにかかる。大岩の急斜面がありました。ここが難所ですが、ロープが用意されています。
 



▼岩の難所 ロープでのぼる            


 
 
 だんだんと、山頂に近づいたかとおもいきや、そこは、第二頂上とあります。頂上はもう少し西でした。第二頂上は、東の見張り台のような印象を受けます。
 


▼右の第二頂上に進む                   



▼第二頂上    
 


 
▼第二頂上からの南展望              



▼第二頂上の石列(自然石のようにも?)
 


 
 そこから、頂上(案内には富士山)に向かって進みます。細い3m~4mほどの細い尾根筋を少し歩くと頂上に達します。頂上手前に大きな石がいくつか横たわっています。
 
 
▼一の郭の岸切                    



▼一の郭(主郭)
 
 



▼城説明 


 
一の郭の周辺は数段の郭が取り巻いています。主郭から南に下る登山道があります。
 

 ▼一の郭の西側の切岸                  



▼一の郭の西下の曲輪
  
 


▼一の郭の南西に下る登山道        



▼南西からの一の郭への虎口?
  



 
 ◇ 追 信
 

  このあと、笠松山と善防山の間にある古法華(ふるぼっけ)自然公園に行く機会があり、この善防山(城跡 )に登る西尾根筋の登山道を確認した。
 


▼笠松山と善防山を結ぶ公園内の吊り橋        
 


▼古法華方面から見る善防山                



▼案内板

 
 

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