山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

2万5千分の1地形図難読図名(2)

2024-11-06 09:08:22 | エッセイ

11月1日新刊の2万5千分1地形図(令和6年調製)は34面、今回も難読地名が多い。

01 浅茅野台地(あさちのだいち) 02 浜頓別(はまとんべつ) 03 猿払(さるふつ) 04 浅茅野(あさちの) 05 鬼志別(おにしべつ) 06 エタンパック山 07 安別(やすべつ) 08 イソサンヌプリ山 09 セキタンベツ川 10 上問寒(かみといかん) 11 松音知(まつねしり) 12 中問寒(なかといかん) 13 モイマ山 14 声問(こえとい) 15 知来別(ちらいべつ) 16 曲淵(まがりふち) 17 下豊別(しもとよべつ) 18 樺岡(かばおか) 19 本流(ほんりゅう) 20 幌延(ほろのべ) 21 安牛(やすうし) 22 振老(ふらおい) 23 上勇知(かみゆうち) 24 兜沼(かぶとぬま) 25 夕来(ゆうくる) 26 豊徳(ほうとく) 27 稚咲内(わかさかない) 28 浜里(はまさと) 29 伊勢佐原(いせさわら)三重県多気郡大台町/宮川中流域 30 内宮(ないく)京都府福知山市大江町 31 胡麻(ごま)京都府南丹市 32 綾部(あやべ)京都府綾部市 33 菟原(うばら)京都府福知山市三和町 34 細工所(さいくじょ)京都府丹波篠山市

【01浅茅野台地〜28浜里】全て道北・宗谷地区。ちなみに「ベツ・ペツ(別)」、「ナイ(内)」(稚内など)はアイヌ語で川のこと。「ベツ」は水かさが増すとすぐに氾濫してしまう危険な川、「ナイ」は岸がしっかりしていて、洪水に強い川を表している。なるほど、宗谷地区北部にはクッチャロ湖周辺やサロベツ原野など、氾濫しそうな低沼地が散見する。

 アイヌの人々は、川や谷、岬や崖などに沢山の言葉を使っていました。その多くが現在の北海道の地名や河川名の由来になっています。アイヌの人々は、季節によって狩猟や採集のためのチセ[家]を持ち、海岸で漁労する居住点と内陸で狩猟や冬越しをする居住点との二重生活をすることもありました。その居住点との交通は主に川を利用していたので、アイヌの人々にとって川やそれをとりまく地形などの自然環境への理解は生命に直結することであり、そこに目印のように名前をつけたのかもしれません。
(北広島市デジタル郷土資料/アイヌの人々の自然観と北海道の地名)

【30内宮】伊勢神宮辺りかと思ったが、京都府北部、酒呑童子(鬼)伝説の大江山(千丈ヶ嶽)東麓に皇大神社があった。

伝承によれば、第10代崇神天皇39年(西暦紀元前59年)に、「別に大宮地を求めて鎮め祭れ」との皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求め、それまでお祀りされていた倭笠縫邑(現奈良県桜井市三輪)をお出になったといわれます。まず最初に但波(丹波)へお遷りなり、そのご由緒により当社が創建されたと伝えられています。皇大神は、当地に4年お祀りの後、さらに諸所を経て、垂仁天皇26年(西暦紀元前4年)に、伊勢の五十鈴川上の聖地(今の伊勢神宮)にお鎮まりになりました。こうしたことから当社は伊勢神宮内宮の元の宮として、「元伊勢内宮」あるいは「元伊勢皇大神宮」「大神宮さん」などと呼ばれ、今も庶民の篤い信仰が続いています。
天照皇大神は、大国主命から譲り受けた豊葦原千五百秋瑞穂国(日本国)に、孫の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が天降るとき「三種の神器」と「三大神勅」を授けられました。瓊瓊杵尊は、そのご神勅に従い「三種の神器」の一つ「八咫鏡(やたのかがみ)」は皇大神のご神体として宮中におかれ、それ以降、崇神天皇の御代までお祀りされてきました。しかし、崇神天皇の6年、「皇大神の勢いを畏りて、ともに住みたまふに安からず」とされ、宮殿の外にお遷しし、倭笠縫邑にお祀りされることになりました。その地に33年間お祀りされたのですが、上記のように、皇大神の御教えに従い、永遠にお祀りする聖地を求める旅に出られることになったのです。
(皇大神社HP/皇大神社について)

古のたたずまい

遥拝所から仰ぐ室ヶ岳(岩戸山)

伊勢神宮の元宮のような場所だったのだ。八咫鏡(=天照大神)を携えて近江、美濃、伊勢と彷徨したのが倭姫(ヤマトヒメ)で、斎宮の伝説上の起源とされる。日本武尊(ヤマトタケル)の伯母にあたり、やはり三種の神器の一つ「草薙剣」を彼に授けている。皇大神社の西北西427.3m城山(点名:日浦ヶ岳)が神体山の室ヶ岳(岩戸山)で、ピラミダルな山容が神々しい。東斜面は禁足地とされ、優れた天然林と貴重な植生が残り、京都府歴史的自然環境保全地域に指定されている。

31以下は、丹波の隣接する4面。

【31胡麻】[こま(ごま)]は、「河間、山間の小さな盆地とか谷の奥の平地」(『民俗地名語彙辞典』)。小さな盆地状の真ん中にある丸山(259m)は「環流丘陵」といって、かつて蛇行していた流れが直線状に変わって取り残された地形で、大井川支流寸又峡温泉背後の外森山と同様のもの。

JR山陰本線胡麻駅の南に碗を伏せたような丸い山がある。標高259m、直径約400mの丸山はその名のとおり半球状の山で、周囲は高度180~190mの平坦な低湿地によって囲まれている。環流丘陵と呼ばれるこの地形は、かつて北流していた古桂川の流路がこの丘をぐるりと巻くようにして流れていたためにできたものである。古桂川の塩貝地区を流れていた蛇行流路は浸食作用が次第に進んで、胡麻駅付近で切られて短縮された。そのため、新流路と旧流路の間に孤立した丘として残されたものである。その形成時代は40万年前頃にさか上ぼる。
(「京都府レッドデータブック2015」)

【34細工所】丹波篠山川上流の小さな谷間で何の細工が行われたのか?

細工所交差点の東南目前の山上(404メートル)に「細工所城跡」があり、荒木城・井串城とも呼ばれる。天文年間末(1550ごろ)に荒木山城守氏香が築いた壮大な山城である。本丸は約900平方メートルで回廊をめぐらし、内堀の長さ南北に61メートル、外堀は800メートルもあり、堀切を設けて多くの平坦地があり、七つ谷、馬の背などと呼ぶ多くの谷や峰からなっている。大手門は縦6メートル、横16メートルという堂々たる構えであった。東細工所に城館跡が、その東に明智軍が大筒を打ったと伝える鉄砲丸という峰があり、ここに廃灯明寺があった。
荒木氏の出自は、伊勢国とも志摩国荒木郷ともいい、『寛政呈譜』には波多野兵部少輔氏義が京都府天田郡荒木村に住んで荒木氏を称したとされる。山城守氏香は、波多野秀治に属し「丹波鬼」と恐れられた勇将であったが、天正5年(1577)、明智勢の猛攻をうけ落城し降伏して、東本荘の館に引き籠もったという。子の氏清ら一族は光秀に従い、天正10年の本能寺の変に続く山崎の合戦や、明智秀満が近江の坂本城に籠城した時にも参加している。
(丹波篠山市HP/丹波ささやま五十三次)

鉄砲や大筒など兵器の細工ということか? あるいはここに荒木氏が築城したことが戦略・戦術として細工だということか? 荒木氏の出自が伊勢ということで、ここにも彼の地との繋がりが垣間見られる。地理院地図を見ると、ここから篠山川を少し西に下った東本庄にはっきりとした前方後円墳がある。

東本荘の集落の東、道路の北側に県下で2番目に大きい前方後円墳の「雲部車塚古墳」がある。左右に車の両輪のように陪塚があるので、そのように名付けられた。もとは7基の陪塚があったというが、うち4基は、今はなくなってしまった。墳丘の長さは140メートル、後円部は径80メートル、前方部は幅83メートル、盾形の周濠をもち、さらに外側に周庭帯をめぐらしており、独立丘陵からの尾根を切断して墳形を整えている。明治29年に試掘した際に、後円部の中央より少し南の位置に竪穴式石室があって、四方に縄掛突起のついた長持型石棺が安置されており、甲冑や刀剣、槍などの副葬品があることを確認している。
被葬者は、崇神天皇のころ四道将軍の一人として派遣された、「丹波道主命」との説もあり、宮内庁より陵墓参考地に指定されている。しかし、現在、5世紀の築造で、国造級の墳墓との推定が一般的である。いずれにしても、大和と山陰方面を結ぶ重要地域の篠山盆地に大勢力を誇った集団が存在していたことを物語るものである。
(丹波篠山市HP/丹波ささやま五十三次)

崇神天皇というのは、「内宮」で触れたように八咫鏡放浪のきっかけとなった人物。その丹波征討軍(鬼退治?)の将軍(王子)の墓と伝えられることも、丹波・京都・大和・伊勢を繋ぐ因縁が感じられる。

余談だが、丹波大江山辺りの鬼のこと、今村翔吾の小説『童の神』が面白かった。



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