山の雑記帳

山歩きで感じたこと、考えたことを徒然に

甲駿交流の道[樽峠]

2024-11-08 16:09:58 | エッセイ

平治ノ段から富士山

2024年10月31日記事「山を彫る(9)山小屋の主」に関連して

【2010年2月記】

 貫ヶ岳は山梨県南部町の山だが、私たち静岡人からすると、興津川流域の山々の続きの中にあるピークとして捉えられる。駿河から甲州側に貫かれた、突き刺さった尾根の末端なのである。この興津川流域の山々に私が近しさを感じるのは、何と言っても青島秀也さんの山小屋「ヒュッテ樽」の存在が大きい。初めて貫ヶ岳を訪れたのも「ヒュッテ樽」での泊り宴会のついでだった。晩秋の日、二日酔いの足で辿った平治ノ段からの尾根道はリンドウの花が咲く「お嬢さんの散歩道」で、富士が大きく望め駿河湾は眩しく光っていた。
 山を歩いているとき海が見えると何故か嬉しくなる。国道52号線を通ると、建設中の中部横断自動車道早期全線開通を訴える「君は太平洋を見たか……」の看板を目にするが、海を見たいという感覚は山国の人々にとっても同様に、大昔から染みついたものだったろう。甲駿国境を越えるルートは幾つかあるが、地図を眺めれば静岡(駿河)の最も薄い地点(海に近い場所)が樽峠周辺であることに気付く。また標高724mの樽峠は、この山域の最低鞍部となる。かつて武田信玄はこの峠を越え駿河に侵攻したと伝えられることには、充分に納得できるのである。
 タルという言葉は「弛む」から来た山塊の鞍部(峠)を指すものだが、「樽(たる)」という地名は国境の峠そのものを直截に呼んだものではないかと思う(樽地名の謂れは諸説あるが)。山国甲斐からは、あのタル(峠)を越えれば明るい海へ出る。樽峠に立つとき、そんな昔の人々の強い想いを感じるのだ。
 なお2008年、日本山岳会山梨支部創立60周年事業「登山史を歩く」の一つに「樽峠」があり、以下に『岳人』誌掲載報告の一部を転載する。

樽峠の地蔵尊

 樽峠を下りたら茶畑だった。峠の北側(山梨県南部町)は、木材の生産地として知られ、杉やヒノキのきれいな植林地、南側(静岡市清水区)は、美しく刈り込まれた茶畑が斜面に広がっていた。寒さの厳しい甲府盆地の者にとって、樽峠は暖かい国への入り口だったに違いない。
 富士川右岸の甲駿国境は、貫ヶ岳の平治ノ段から樽峠、高ドッキョウ、徳間峠、田代峠、青笹山、十枚山と続く。この中で海に一番近い峠が樽峠だ。峠の北は南部町石合の集落、南は清水区樽の集落。両者の交流路として古くから使われてきた。
 峠の地蔵さんの前で、幕末の峠の風景を思った。三度笠、合羽、腰に一本刀を差した男たちの姿である。甲州側が黒駒の勝蔵、竹居のども安、津向(つむき)の文吉、駿河側が清水の次郎長、大政、小政、和田島の太左衛門ら…。峠を息も切らせず越えて行く。巻き起こる一陣の風。
 次郎長と勝蔵の出入りは数多い。勝蔵らが清水湊に向かうとき、どの道を使ったのだろうか。富士川を舟で下ったのでは目立ち過ぎる。富士川沿いの道も同様だ。徳間峠や田代峠、富士宮経由だと遠回り、目立たず、一気に駈け下りて行くには樽峠しかない。峠道を歩いて、そう実感した。
 樽から茶畑の谷を駆け下れば興津川に出る。太左衛門親分の和田島はすぐそこだ。さらに清水へ急ぐ勝蔵たち。逆に和田島から樽峠を越えて甲州に走る次郎長たち。
 維新前夜の侠客たちが本当にこの峠を越えたのかどうか。寡聞にして想像の世界になるが、位置関係からすると可能性は高い。樽峠を歩けたことで知った歴史の面白さだった。(記・深沢健三 『岳人』№752「登山史を歩く1」より転載)

ヒュッテ樽

 

 

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