今日8月9日は、長崎県に原爆が投下された日。
戦争と恩人・田尻俊一郎医師を忘れない為にも、
何度でも記します。
過去記事
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長崎原爆投下の日に
立秋を過ぎ…
田尻先生が、この話を私にしてくださったのは、死を迎える少し前のこと。
「慰霊の旅をしてきたんだよ」と、先生はとつとつと話し始めた。
医師の職を辞され、その数年前に奥様を亡くされ、病に侵されたお身体は更にやせ細っていらっしゃった。
先生にお世話になったのは、保育士として働いていた20代半ばから退職する直前の5年間。
職業病に罹患し、廃人のようになった私を叱咤激励、時に涙しながら支えてくださった。
「僕はね、生き残ってしまったんだよ」
そんな言葉で、先生の慰霊の旅の話は始まった。。。
(画像はネット上からお借りしました)
当時の恩人は医学生。
その日は、体調が優れなくて冴えない表情をしていたそうだ。
上官の医師に呼ばれ、
「今日は休んで、家に帰っておいしいご飯でも食べておいで」
と言われて、長崎市内から佐賀の実家へ帰った。
それが、早朝。
11時2分、長崎市内に原爆が投下。
佐賀の実家で原爆投下を知った恩人は、
取って返すように長崎へ…。
投下の日から2日後。
恩人が見たものは、原型を留めない宿舎や軍事工場、働いていた医療施設…。
焼け野原になった町並み…。
あちこちに転がっているがれきの山、死体…異臭…。
恩人は百数十人の医学生の中で、生き残った。
「僕はね、生き残ってしまったんだよ」と、
申し訳なさそうに、悔いるように話された。
・・・・・・・・・・・・
自分で動ける間に、やっておきたかったと恩人はおっしゃった。
当時働いていた医療施設があった場所、最後に上官と話された宿舎、亡くなった仲間が埋葬された地…
写真を一枚一枚見せてくださり、想いを話してくださった。
恩人・田尻俊一郎医師は、働きすぎて死に至ることを「過労死」と名付け、生涯、労働者の為にご尽力下さった。
今の私が在るのは、田尻先生のお陰。
先生の想いを受けて、戦争反対を訴え平和を願う。
(画像はネット上からお借りしました)