はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

集える気力がある人は幸いではないか

2013年06月15日 | 日記

NHK-BSで「いるか」の福島でのコンサート状況を放送している。中の楽曲で「はんぶんこ」という歌があった。互いに支えあう気持ちを歌った歌である。しかし、と思う。本来ならば家族で苦しみも悲しみも分かち合うことができる人であっても、例えば被災して、ほとんどの家族を失った人もいるのだ。「はんぶんこ」出来ない人が出ている。そう思うと、この曲の思いとは別に、その曲に背を向けざるを得ない人もいるということを痛切に感じる。

多分、この「いるか」のコンサートに行ける人は、まだ「不幸中の幸い」が仮初であってもあるのだろう。

あの震災、津波、原発事故。私は当事者ではないし、地上波テレビが視聴できずに、BSやTBSニュースバードなどのメディアによる情報、twitterなどによる情報によって実態らしきものを追体験しただけの人間だが、思い起こすたびに心が痛む。実際に経験した人の苦悩や苦痛などとは想像できぬほどの乖離があるのだが、それでも心が痛む。かなり激しく痛む。

人は愚かだから、自分の犯した戦争という過ちで命を失うことはある。しかし、自然災害による理不尽な命の消失には我慢できぬほどの不条理を感じる。原発事故はそもそも「想定」が脆弱であることが判明し、実際の過酷事故に対する訓練も、手順確認だけで、実際に「動くはず」のものが動かないという不手際による人災であるという点についても、不条理を強く感じる。

「いるか」のコンサートは、そのコンサートに参加するだけの気概が残った人々によって支えられていた。しかし、実はそうしたコンサートやテレビのインタビューすら受ける気力も無い打ちのめされた人が、まだまだ多いことを考えなければ、こうした少なくとも「前をむこう」としている人は幸いなのではないか。

時として私たちが同情から流す涙は、ある部分「自分ではなくてホッとしている」ことの裏返しであることが多い。所詮は他人事なのであるが、この震災ばかりは他人事ではない。いつ自分の身に降りかかるか分からない自然の猛威なのである。被災者の人たちの心の痛みには及ばぬまでも、その思いに寄添い、自身の痛みとして心に留めなければ、復興庁の参事官のような発言に至るわけだろうなぁ。ああいう人にだけはなりたくない。