はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

発言できる人は幸いである。

2013年06月24日 | 日記

東日本大震災、それに伴う福島第一原発事故、それらの被災者の方々には、同情を禁じえない。メディアなどを通じて被災者が語る被災地の現状は辛酸を極め、語られる思いは重く、私の軟弱な心を切り裂く。

それでも、メディアなどを通じて被災の現状を語れる人は、壊れかけの心を奮い立たせる強さがある。語れるだけの強さを持っている、とも言える。ただ、私が気になるのは、被災地の復興商店街にも顔を出さず、テレビなどのインタビューも頑なに拒む人たちである。そうした人は多いのではないか。未だに癒えぬ被災の思いを、心の内に封じ込め、悶々としながら仮設住宅の中で、孤独に住まっているのではないか、ということである。

誰もが皆意見を何かに向かって言えるわけではない。地域の集会に参加する意欲を持つわけでもない。打ちのめされ、打ちひしがれたまま、たまの見回りの人たちに「大丈夫だよ」などと応えながら、その実ちっとも大丈夫じゃない人は、少なからずいるのではないか。

札幌で生活保護対象となる姉妹が、働き手の姉が病で急逝し、知的障碍を持つ妹が、その姉の死に伴い餓死するという事件が起きた。この姉は、実は市役所の支所などに、ある程度の相談をしていたのだが、相談に来なくなったから大丈夫なのだろうと行政は判断し、放置した結果、病で急逝した姉はともかく、助かるはずの妹も飢えて亡くなるということが起きた。

生活の苦しさを丁寧に担当者が受け止めれば、姉の病も何とかなったのかも知れない。ただ、この二人は、姉は遠慮や世間体などのシガラミから、大声でSOSを言えず、妹は知的障碍を持っていたがために、生きるすべを失ったのである。

このような「発言ができない」人というのは、実は一定数必ず存在する。言わない方が悪いという言い方もあるのだろうが、言いたくてもモノを言えぬ人というのは、ある割合で必ず存在する。

それは、どのような場面でも同じだ。だからこそ、代弁者が必要となるし、そうした人々が容易に集える「場」を作ることが必要となる。引っ込み思案でも出てこられる場、闇雲に明るいだけではなく、ただ静かにそこに集える場、というものが必要なのだ。寄添い心開くまで待ち続け、息の長い、しかも押し付けがましくない忍耐に満ちた行動がひつようなのだ。そこで始めて声を出せない人が声を出す環境が整うのである。実は支援は道半ばなのだ。