病院の受付で番号で呼ばれ激怒したままブログでその激怒を表明し、その稚拙な論拠にブログ炎上してしまい、弁明の記者会見をしたうえ、批判に耐えられなくなり自死した地方議会議員が出た。
多分、この議員氏は「オレの言うことの何が間違っているのか」と言う思いだったのだろうし、皆同じ思いをしていて賛同してくれるものだとばかり思っていたのだろう。ところが違った。
効率化は病院でもスーパーマーケットでも、実は日常的に行われているし、名前を呼ばぬ病院だって出てきている。同姓同名などが多い場合もあっての事であり、カルテを間違えたりすると大変なことになるからだ。実効的な意味を考えず、単に番号で呼ばれるのがケシカランというのは、マイナンバー法案などが検討されている時代に、形式的なものに拘りすぎとも言える。
この議員さんが勘違いしているのは、他にもある。議員は基本的に代弁者である。選挙区の人の意見を代表するという立場である。偉いわけではない。むしろ、自分の意見よりも、選挙民の意見を集約する役割を果たすのが筋だ。指導者ではないのである。地方議会に於いては、知事、市町村長などの行政のトップ、つまり指導者は別にいるわけだ。その指導者の行為を、住民の側に立ってチェックするのが議会の役割であり、議員の役割である。なにやら指導者とチェック係である議員とを混同している政治家が多い。
国会が「国権の最高機関」であるのは、すなわち指導者に対するチェックを最高の国権でチェックするための役割を果たしているわけだ。
で、ここで問題となるのが議員内閣制である。例えば内閣の大臣は行政の長となる。しかも、同時に議員である。本来ならば議員の立場、国権の最高機関の一員の立場で行政を「監督」する必要があるわけだ。暴走する科挙政治、つまり官僚政治をチェックしながら、選挙民の声を政策として行政に反映させる、という厄介な役割を果たす必要がある。
これを両立させるためには、類稀な能力が必要となる。全部が出来るのスーパーマンなどは存在しないだろう。だからこそ、大臣というか閣僚は、諮問機関などを作る。ところが、その諮問機関の人員選定には、官僚が大きな役割を果たす。既存の政策を推し進めるのに有利な人選を行い「第三者による諮問機関」だと言う。実は大臣は、こうした人選で、必ずしも規定の政策に阿ることのない「識者」を選べるかどうかで、その質が見極められるのではないか。
民主党の失敗は、官僚制度打破を謳いながら、その実政策決定や政策事項が官僚支配から脱していない点にあった。特に財務大臣から総理大臣になったドジョウ総理は、見事なまでに財務官僚の手先となってしまう。
現在の自民党の幹事長は、いわゆる軍事オタクである。であれば、防衛大臣のときに、防衛省官僚と折り合いが良かったかといえば、逆にあまり良くなかったという。なまじ防衛問題、軍事問題に知識があるために、防衛官僚の描き出す絵に対してダメだしが出来たためだ。つまり、官僚のロボットにならなかったのである。それでも指導力はあった。
民主党政権で厚生労働大臣となった消えた年金問題告発議員は、官僚のロボットにはならなかったもの、指導力が足りずに官僚のサボタージュを生み、ボンコツ・ハト総理と供に地位を去る。
他人をどう使うか、という点では、民主党政権はヘッポコのポンコツそのものであり、それが原因となって政権を追われる。他人を使う方法や、官僚への「指導」方法を熟知していた小沢一郎は、肝心の民主党内からもスポイルされる。そうしたスポイルするような構造そのものが、民主党の力の限界を示していたわけだ。
ふと思うと、今の自民党政権が「勝った」選挙は無い。先の都議選も、投票率は見事なまでの低空飛行である。これは、政治不信というよりも、いよいよ本格的に見放され始めたのだ、と思ったほうが良い。与党は利益共同体だから、まだ求心力を持つのだが、野党に堕ちた民主党には遠心力が限りなく大きくかかる。他の野党は、政治不信台風に吹き飛ばされている。与党だって安閑としてはいられない。アベノミクス効果が続けばよいが、これが米国のFRBの一声で局面が変わってしまう脆弱さを内包するため、果たしてどこまで続くか、その効果が多くの庶民に実感できるほど続くか、経団連のような大企業ではなく、商工会議所のような中小零細企業にまで行き渡るのか、先行きは不透明なのである。