はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

環境保護活動家の偽善

2013年06月22日 | 日記

下川町という町がバイオマス発電の拠点、モデルケースとして報道ステーションで取り上げられた。間伐材を原料とするバイオマス発電が林業の再生を生み出しているという。

私の高校時代の二年先輩のH氏の家業は、下川町で間伐材を使って割り箸を生産していた。ところが、環境保護を唱えるアグネス・チャンのような馬鹿に、割り箸が環境破壊の元凶扱いされ、家業は傾き、廃業を余儀なくされた。そうした逆風と国際的な木材流通の結果として下川町の林業は、一時期は開店休業となり、山林は荒れ果てて、そのため野生動物の食材そのものが失われ、野生動物が人里まで進出してくるなど、野生動物と人間社会との共存が難しくなった。里山が失われるなど、いわゆる結界として存在していた野生と人里との分水嶺が保持・保全できなくなったのだ。

林業は農業以上に山林の保水能力を保つために必要なのだ。山林を保全するためには、植林も必要なのだが、その植林を有効にするためには間伐という作業も必須である。ところが、このアホ極まりない「割り箸環境破壊論」を唱える環境保護活動のために、林業そのものが「悪辣」なものとして捉えられてしまった。

むしろ、割り箸などは国産に主眼を置くようにしたほうが良かったのである。この国内の割り箸生産が、アホ環境活動家の影響もあって減衰するのと期を一にして、中国や東南アジア製の割り箸が大挙輸入され始めた。中国産や東南アジア産の割り箸は、実は間伐材ではない場合が多い。結果として中国や東南アジアでは森林が失われることとなり、山林の保水能力は減衰して、大きな環境異変が起きている。

割り箸は使い捨てだから、見た目にはもったいない。しかし、山林の保全に役立つものだったのに、単に見た目の使い捨てだけに主眼を置いて、排撃しやすい「見た目」からの「環境保護運動」の標的となってしまった。この「見た目」を気にするあまり、事態の本質を理解せずに、割り箸悪人説に単純に乗っかったのがマスゴミと称されるマスコミである。

しかし、福島第一原発事故以降、エネルギーとしてバイオマスなどがいきなり持ち上げられる。見事なまでの掌返しではないか。

原発が環境政策に有効だ、などという意見は、事故が起きる前からうそ臭いと思っていたら、やはり原発は海水を発電量の倍の熱量で温める装置であると分かった。エルニーニョ現象を見るまでも無く、気候変動には海水温が重要な役割を果たす。日本列島では日本海側に特に原発が林立していると言って良い。もともと比較的暖かい海域で生息するエチゼンクラゲが、今や津軽海峡の北にまで生息域を北上しているのは、海水温の上昇が原因なのではないか。台風の巨大化もしかりである。

二酸化炭素は確かに温室効果があるだろう。ただ、それ以上に直接的に気候変動に影響するのは、海水温であるのは明白ではないか。その海水温を、我々が消費する原発エネルギーの倍の熱量で暖め続ける原発が、環境に良いはずがない。

何かといえば二酸化炭素の排出量を環境保護論者は語るのだが、それは大気温の上昇が海洋の温度にまで影響し、海流の変化が気候変動を起こしているという理屈からである。であれば、直接海を暖めている原発が、環境にやさしいわけがない。

二酸化炭素の増量が心配だとするならば、なぜ世界各地で植林運動をしないのか。更に言えば日本の山林に植林されるのは、建材として利用が容易な樹木ばかりである。二酸化炭素をより取り込むであろう木々はほとんど無視され続けている。栃木や群馬の山間部は、植林された杉ばかりが、間伐されずに密集して生えている。結果、その密集度が高く、木々の隙間が無いために地表にまで陽光が届かない。結果として上空からは緑で覆われた山々も、地表から見れば、下生えの植物すら育たぬ「緑の砂漠」となっている。

しかも、こうした建材に向く樹木は、根が比較的浅い。保水能力という点からも減点ではないか。

日本列島は植生という点でも、世界で稀有なほど多様である。ところが、そうした多様性は、利用する際の利便性と相反する。利便性だけを求め続けた結果、例えば東日本大震災前に起きた岩手・宮城内陸地震では、山体崩壊などが起きる事態となった。多様な植生そのものを否定し、単純化してきた日本人の姿が、ある意味重なって見える。

環境保護論者の方々は、産業そのものには目を向けない。ただ、時として単純な「見た目」から、その「善悪」という二元論で物事を判断し発言する。ところが、自然の世界は単に「善悪」とか「好悪」のような「白黒」が付くものではない。多様な視点から多様な議論が必要なことを、切って捨てるような言い方で切って捨て、相手を打ち負かした気になっている人も多い。自然の循環というのは、そんなに簡単なものじゃないのである。