はんかくさいんでないかい。

八つ当たりブログである。だから誤爆はある。錯誤もある。情報の正確性も保証しない。でも、変なことは変だと言いたいのである。

決戦 奥祐筆秘帳

2013年06月17日 | 日記

上田秀人の奥祐筆秘帳シリーズも、冥府防人と柊衛悟の戦いに決着がついて終わり、一応の大団円を迎えて終える。

上田秀人の作品が素晴らしいのは、「この時代小説が凄い」で第一席を獲得する前から、別のシリーズ「竜門の衛」から始まる三田村元八郎シリーズを愛読していただけに、さもありなん、という思いだったのだ。

奥祐筆とは江戸幕府に於いて、不偏不党の立場で前例にあたって物事の処理を行う能吏である。忠誠を誓うのは、幕府に対してのみで、必ずしも将軍個人に与するものではない。

主人公と見られる柊衛悟だが、それは正しくないのであろう。明らかに奥祐筆組頭である立花併右衛門こそが、このシリーズの中心にある。不偏不党の能吏である奥祐筆が、田沼意次が将軍継嗣家基を暗殺するために使った冥府防人こと望月小弥太を、十一代将軍家斉の父である一橋冶済が、自身の野望のために保護し、手先として使うことから物事が始まる。

将軍家継嗣の暗殺などは表沙汰にはできない。無論、家基が亡くなった史実はあるのだが、それが田沼意次の仕業であると確定した史実は無い。小説だからこそ、もし仮にそれが事実であり、そのために十一代将軍が家斉になったのだとしたら、その父である冶済が将軍であってもおかしくなかったのである。

そこに、田沼意次によって御三卿の田安家嫡子から放逐され、白川藩藩主とならざるを得なかった松平定信が絡む。田沼意次は零落し、松平定信も老中の地位を離れた後から話は始まるのだが、前述のような時代状況と背景が前提となって物語りは進むわけである。

柊衛悟は柊家の厄介叔父、つまり婿入りさ先も無い、中堅旗本の次男である。しかし剣の腕前だけは、相当に高い。江戸城中での権力闘争に巻き込まれた隣家の立花併右衛門の、登城、下城の際の用心棒として雇われるところから話は始まるわけだ。

奥祐筆は江戸城中での様々な仕来りや前例などを覚え、許認可発行の事務手続きのすべてを行う。今で言えば官僚そのものであり、政治家である老中などの政策決定にも、前例に反する事柄がある場合には、異を唱えることができるし、決済を行うことそのものを、遅延させたりすることもできる。つまりは、実質的な江戸幕府を支える屋台骨である、とした上での物語りの構築である。

言わば、現在の官僚機構では、事務次官という立場に立つ存在だといえる。味方につければ、様々な政策的措置も容易となる。奥祐筆の直系の上司は老中ではなく将軍なのだ。奥祐筆による認可・認証は、すなわち将軍による認可・認証の制度そのものである。この奥祐筆を独自の立場として設置したのは、将軍親政を行った徳川吉宗だという。それまで幕閣と呼ばれる老中などの集団指導体制が、時として「会議は回る」常態となり、何も懸案が解決されない状態となった姿を見た吉宗は、意思決定の加速と、将軍の権威の再構築のために親政を布いた。その親政のためのツールとして奥祐筆が創設されたというのである。言わば、将軍の公的な秘書兼シンクタンクというのが奥祐筆である。

当然ながら、秘事についても詳しく、目付などと同様に不偏不党でありながら、口外無用のものには秘して語らぬことが前提となる。しかし、権力を欲する人間にとっては、その秘事こそが、自分の権力を増大・延命させるためには必要なのである。

こうしてみると、このシリーズは、ある種の現在の政治と官僚の関係のカリカチュアであるといえる。だから面白いとも言えるのだ。上田秀人が描く主人公の立脚点、主人公から物語る世界の見え方は、高い地位から見下ろした俯瞰的世界ではなく、庶民に近い、いやほぼ庶民と同じ目線から見える、個別具体的な社会である。それが俯瞰的で独善的な見方をする巨大な相手とまみえる世界を描く。蟷螂の斧のような戦いであっても、自分自身の立脚点を見据える主人公がある。

実は、底辺から見る時代小説とうものの多くは、上田秀人が描く主人公よりも、よりペシミスティックなものが多い。柴田錬三郎が描く眠狂四郎はシニカルな立場を崩さないし、峰隆一郎の描く刀根又四郎は更に投げやりな存在である。対して上田秀人の描く柊衛悟にしても三田村元八郎にしても、実に前向きである。藤沢周平の小説に出てくる主人公でも、もう少し後ろ向きだろう。これがどうにも信じられない。昨今の乱造される時代小説の中では、細部に神経が行き届いた作品を著す上田だが、私生活はきっとそれなりに満ち足りているんだろうなぁ。


集える気力がある人は幸いではないか

2013年06月15日 | 日記

NHK-BSで「いるか」の福島でのコンサート状況を放送している。中の楽曲で「はんぶんこ」という歌があった。互いに支えあう気持ちを歌った歌である。しかし、と思う。本来ならば家族で苦しみも悲しみも分かち合うことができる人であっても、例えば被災して、ほとんどの家族を失った人もいるのだ。「はんぶんこ」出来ない人が出ている。そう思うと、この曲の思いとは別に、その曲に背を向けざるを得ない人もいるということを痛切に感じる。

多分、この「いるか」のコンサートに行ける人は、まだ「不幸中の幸い」が仮初であってもあるのだろう。

あの震災、津波、原発事故。私は当事者ではないし、地上波テレビが視聴できずに、BSやTBSニュースバードなどのメディアによる情報、twitterなどによる情報によって実態らしきものを追体験しただけの人間だが、思い起こすたびに心が痛む。実際に経験した人の苦悩や苦痛などとは想像できぬほどの乖離があるのだが、それでも心が痛む。かなり激しく痛む。

人は愚かだから、自分の犯した戦争という過ちで命を失うことはある。しかし、自然災害による理不尽な命の消失には我慢できぬほどの不条理を感じる。原発事故はそもそも「想定」が脆弱であることが判明し、実際の過酷事故に対する訓練も、手順確認だけで、実際に「動くはず」のものが動かないという不手際による人災であるという点についても、不条理を強く感じる。

「いるか」のコンサートは、そのコンサートに参加するだけの気概が残った人々によって支えられていた。しかし、実はそうしたコンサートやテレビのインタビューすら受ける気力も無い打ちのめされた人が、まだまだ多いことを考えなければ、こうした少なくとも「前をむこう」としている人は幸いなのではないか。

時として私たちが同情から流す涙は、ある部分「自分ではなくてホッとしている」ことの裏返しであることが多い。所詮は他人事なのであるが、この震災ばかりは他人事ではない。いつ自分の身に降りかかるか分からない自然の猛威なのである。被災者の人たちの心の痛みには及ばぬまでも、その思いに寄添い、自身の痛みとして心に留めなければ、復興庁の参事官のような発言に至るわけだろうなぁ。ああいう人にだけはなりたくない。


大丈夫?アベノミクス

2013年06月08日 | 日記

アメリカがクシャミをしたら、アベノミクスで浮かれていた日本の株式市場も発熱してしまい、浮かれ騒ぎは終わった。流入していた外国資本は、株高で浮かれていた日本人投資家がウキウキと株式投資を行う姿を横目に、利益を確定させて売り抜ける。あとに残るのは売り抜けを許し、損だけを押し付けられた日本人だけ、という事態に立ち至っている。

三本の矢のうち、その三本目の矢である日本政府の経済政策は、その昔、小泉構造改革時代の政策との違いがまるっきり分からない程度である。しかも、掛け声だけは勇ましいが、実際に何をどうするのか、具体的な道筋が見えない。願望だけなら誰でも言える。財政と金融の手は打ったが、経済政策は経団連と新経連との折衷案であり、既得権を守ろうとする立場の人間と、その既得権によりビジネスが展開できないため規制緩和を求める立場の人間の双方に言い顔をしているために、すべてが中途半端となっている。

例えば発送電分離の問題である。スマートメーターなどを使い、電力の自由化により発電などに加入したい側と、分離を回避し、既存のシステムを守り、発送電分離には反対する電力会社を中心とた旧来の勢力とでは、明らかに立場を違えている。

こんな違いがある双方に良い顔をしてみせる「骨太の方針」とやらが、骨だけで肉付けができぬものとなっているのは否めない。骨が太くても筋肉が付かないと、体は動かないのである。

利益相反する立場は、製造関連と流通関連との対立でもある。かって、池袋のビックカメラ本店では、たしかキャノンだと思われる東京本社営業部あたりの課長クラスの中年男性が、二十代そこそこの販売チーフに「こんな高い仕入れでは売れないんだよ、ヨドバシでは同じものが***円だって?」などと頭ごなしに怒鳴られ、責められていたのを見知っているだけに、メーカーと販売店との力関係が、今や一方的なものとなっているのを感じるのだ。特別な人気を持つ商品でもない限り、メーカーは販売店、特に量販店におんぶにだっこであることを如実に示している。

売るほうは、性能が同じ、使い勝手が同じなら、日本製でも中国製でもインドネシア製でも構わないのである。マーケットがグローバル化するということは、生産・製造もグローバル化するとういことであり、日本製が明らかに高性能である、という時代すらもコンシューマ向け製品では無くなっているのが実情である。それは買う側だって、特に若い人は国産や外国製などは問題ではない。人気のiPhoneは米国Apple社の製品だが、製造している国が米国かどうかは分からない。中国やマレーシア、シンガポールなどは米国Apple社の製品や部品を作ったりしている。使えれば気にしないのである。

PCなどは、エンブレムは富士通だったりNECだったりするが、内部のマザーボードが台湾製だったり、マザーボード上の部品が中国製だったりもする。

そんな中で、安倍晋三さんは何をどうやって、日本の産業を振興していくのか。

しかも、日本は少子高齢化であるにも関わらず、保育園には待機児童が溢れているのである。横浜市は待機児童が無くなったというが、保育園を諦め、仕事を諦め、育児を専業にしなくてはならない潜在的な待機児童が存在している実情を考えてもいない。安倍晋三さんは女性の力を発揮して貰う、などという。まさか、横浜市の待機児童ゼロ実現という報道を、実情を無視して額面どおりに受け取ったのではあるまい。

三本の矢は放たれたのだろう。二本目までは届いたのかも知れない。ただ、三本目の矢が的を射抜いたかどうか、あるいは的外れだったかどうか、すぐにでも結論は出る。で、三本目が的外れだったら、二本目の矢までの無理が大いに今後の日本に祟るのは間違いないだろうなぁ。


厄介なインターネット(デリミタとRFC)

2013年06月08日 | 日記

その昔、日本の商用ネットがインターネットに接続する時代に、少しもめたことがある。

コンピュータにはコマンドに複数の引数、つまり処理するために与える値が必要となる。その区切りには、通常はスペースやタブが使われる。中にはデータをカンマで区切ったものもある(CSV)。その中でも、現在のインターネットで使われている区切り文字で重要となるのが「.(ピリオド)」だ。

パソコン通信を黎明期から支えていたネットに日経MIXがある。そのMIXのユーザーの中にかなりの割合でハンドルネームの末尾が「.(ピリオド)」の人がいた。この名前をそのままインターネットのメールアドレスであるローカルパートに使うと、様々な不具合が生じたのである。

現在でも「.(ピリオド)」は、XXX.or.jpなどのようにドメインの区切りとして使われる。区切りだから、その後段には区切られる文字が必要である。

RFC822やその後継のRFC2822では、こうしたメールなどで使える文字、区切りとして使う特殊文字、システム上使用を控えなければ誤動作の原因となるであろう特殊文字が規定されている。使える文字をatomと言って、例えばアルファベットなどが挙げられる。そのうち区切り文字として使うものの中に「.(ピリオド)」は含まれる。

atom.(ピリオド)atomという使い方は容認されているが、.(ピリオド)の後ろにはnull文字、つまり文字が無いということは許されない。ここが英語で書かれていたRFCの解釈の厄介な点である。atom.という記法が駄目だ、とは書かれていなかったわけだ。そこで、多くのローカルパートの末尾に.(ピリオド)を使いたい人、使い続けていた人から苦情が出る。しかも、そうしたグレーゾーンの処理は、当時のメール配信プログラムであるsendmailではデフォルトでは使えていたわけだ。

インターネットのコンピュータ上の規格は、紆余曲折を経て作られていた。だから、時としてグレーゾーンが生じ、そのグレーゾーンを放置したまま、主要なソフトウェアが「便宜的」に「RFCに禁止と書いていないことは実装する」という、まぁ大雑把な作り手の解釈による方法が許容されていた。他方「書いてあることだけを実装する」という一団もいて、その間の相互の接続に問題が生じることが多々あったわけである。

コンピュータには様々な規格があって、その規格文書の中にも、時として曖昧にしか捉えられない文言がある。主語と述語と結論をハッキリ書くと言われる英文の、しかもネットワーク規格の事実上の標準文書であるRFCですら、こうした受け取り手によって解釈が分かれる曖昧さが残るのである。あ~、厄介厄介。


ハシモト大阪市長の放言

2013年06月05日 | 日記

もはや日本維新の会は「日本失言・放言の会」と名称変更した方が良い。現在大阪府知事をしている松井氏はともかく、共同代表のお二方は歩く時限爆弾であるのは間違いない。石原慎太郎氏はご自身が作家であるという自負があるためか、ほとんど差別的意味しか残されていない言葉を平然と「差別的ではない」として使い物議を醸す。

共同代表のもうひとり、橋下徹大阪市長は、大阪市長という地方自治体の長の権限を越えた「外交」を沖縄にまで行って行う。その際の「風俗の活用」などを米軍司令官に進言したという。米国でのプロの風俗と言えば、それは日本の建前とは違って売春婦である。日本の風俗だって、合法非合法の境目は、パンティ一枚の薄さで仕切られている程度のものである。

橋下は言う。現在の風俗嬢は、かっての日本の貧困が産み出したものとは違う、と。本当か?多くの風俗嬢は「他に金を稼ぐ方法がなく、しかも稼がなければならない理由がある」から風俗に行っているわけである。貧困の別の局面でもある。

かってフジテレビが日曜の競馬中継の前に1時間程度の枠で流していたドキュメント番組で、リーマンショックの後、親の仕事が左前となって借金塗れとなった元女子大生が大学を辞めて風俗嬢に至る経緯を訥訥と語るものが放映された。

オレの小学・中学の同級生の中には、橋の下に違法なバラックを建て、電気も引かずに家族で住んでいた。そうした貧しさは存在していたし、今も存在するのではないか。母子が餓死し、数ヵ月後発見されたのも大阪である。覚悟の死だったらしく、餓死した子供への「食べさせてあげられなくてごめんね」という書置きがあったと言う。

他人との関係性を上手く作れない人というのは存在する。救いを求めたくても、その救いがどこにあるのか分からない人も多い。どこに救いがあるのか探す方法すら分からない人だっている。そうした人の多くは、この社会が生き難いものだ、と感じている。サッカーの日本代表のW杯本戦決定での渋谷あたりでの大騒ぎは、そうした日常への鬱積したものを晴らすための乱痴気騒ぎだともいえる。乱痴気騒ぎの輪に入れない人は、餓死するか、あるいは処刑は終えたが、宅間死刑囚や金川死刑囚のように、自ら死刑になるという目的のために、多くの人を無差別に殺傷するような、変な爆発が起きる。

こうした実情の中で、橋下氏は「貧困が風俗に身を売る原因となったのは過去の話」だと言う。餓死する町の市政を司る人間が、こんなトンチンカンで実情を見ない姿では、現在の貧しさの質を理解しているとは思えない。身を売りたいと切望して身を売る女性など、ほとんど存在しないのである。そうした職業を選択したのだと橋下氏は言う。それは違う。選択の余地が無い中で生きている人間だっているのだ。そうした人たちには未来は明るいものではなく、延々と人生の終端まで続く、雲が厚く垂れ込めた夕景の今にも夜が暮れる直前の黄昏が続くだけなのだ。

橋下氏が希望の星に見えた人も多かった。でも、それは太陽の死に際して爆発的に光を出す超新星の輝きで、その輝きが消えた後に残るのは、人を破滅という重力によって弾きつけ潰してしまう中性子星やブラックホールなのである。