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 11月上旬、文化の日と有給休暇を絡めて4連休にして、2泊3日で香川県へ城巡りの旅に行ってきました。
 最初の目的地は、香川県丸亀市にある丸亀城です。



 丸亀城は讃岐平野の西部にぽこんとある標高66mの亀山にある平山城。1597年に、豊臣配下で讃岐一刻を与えられた生駒親正、一正の親子によって、高松城の支城として築かれました。

 関ヶ原の戦いで、親正は西軍、一正は東軍に付くことになります。結果、生駒の領地は安堵され、一正が高松藩の藩祖となります。しかし一国一城令のために、高松藩の藩庁は高松城となり、丸亀城は一旦廃城となります。

 しかし一正の孫にあたる四代藩主・高俊は酒色におぼれてお家騒動(生駒騒動)が勃発し、生駒氏は出羽矢島藩に移封となってしまいます。高松藩は東西二藩に分割され、東側の高松藩には水戸徳川家から松平頼重が入り、西側の丸亀藩には山崎家治が入ります。
 家治の手により、廃城となっていた丸亀城が改修され、丸亀藩の藩庁として使用されることとなりました。この際、丸亀城の造りをかなり凝ったものにしたため、家治の存命中には工事が完成せず、継嗣がなく断絶した山崎氏の後に丸亀に入ってきた京極氏の代になり、32年の歳月をかけてようやく完成しました。





 スタートはJR丸亀駅。ここから南東へ1㎞ほど行ったところに丸亀城はあります。



 丸亀の商店街のアーケードを抜けると、目の前に丸亀城が現れます。現存天守ー! 
 丸亀の城下町は丸亀城の北側に広がっているため、丸亀城はこの北向きの方向が正面になります。そのため、全体的に北の方が見栄えが良いのですが、必然的に逆光になってしまうのがちと残念です。



 丸亀城はその城域が亀山公園として整備されています。



 ここは大手二の門。正門に当たります。



 大手門は枡形虎口になっており、二之門をくぐった先には大手一の門があります。
 大手一の門は櫓門になっており、中に入ることもできます。



 この日は、入ってすぐのところで菊花展が開催されていました。



 入口付近にあった丸亀城の地図。
 本丸、二の丸、三の丸から、それらを取り囲む内堀までが亀山公園の範囲となっていて、遺構がしっかりと残されています。



 三の丸へと向かう見返り坂を上っていきます。この写真だとそれほどには見えませんが、結構急で、登っていくのはそれなりに大変です。



 見返り坂を上った辺りから、三の丸の高石垣を見上げて。
 丸亀城と言えばなんと言っても石垣! この三ノ丸北側の石垣は、丸亀城内でももっとも高い20m以上の高さがあります。高さだけではなく、「扇の勾配」と呼ばれる、上に行くほど傾斜がきつくなる美しいカーブを描いています。



 まあ、すごい迫力です。



 石垣のふもとには高浜虚子の句碑もあります。



 もう少し上ると三の丸に到着です。



 三の丸の南東隅にある月見櫓跡からの眺め。
 目の前に、讃岐富士とも呼ばれる飯野山があります。ローカル富士は全国に多々あれど、この讃岐富士はなかなか“富士山感”のあるたたずまいですね。
 この旅行中に飯野山に登ろうかということも検討したのですが、スケジュールや宿泊地などを考えるとここで山登りをすることはできませんでした。機会があれば、登りたい山ではあります。



 月見櫓から下を見下ろして。



 ここからすぐに二の丸を経由して本丸へ登るルートもありますが、丸亀城の三の丸は本丸・二の丸をぐるりと取り囲んでいます。まずは三の丸をぐるっと一回りします。





 二の丸南東角の石垣を見上げて。



 三の丸の南側には勤王碑があります。幕末から明治にかけて活動していた勤王志士・土肥大作と村岡宗四郎が、それぞれ正五位と従五位を送られたことを記念し建てられたものです。



 その奥には、麻布にあった丸亀藩京極家江戸藩邸の一部を移築した、延寿閣別館があります。



 裏側。
 あまり大きくはなく、なんとなく普通の民家っぽい雰囲気もありますね。



 で、そのまま三の丸の南西角まで移動したのですが、実は丸亀城三の丸の南西にある坤櫓石垣と、その下にある帯曲輪石垣は、2018年に崩落してしまい、現在修復修理工事中で、立ち入り禁止となっています。
 この場所は江戸時代にも崩落しており、何度も修復が行われたという記録があります。この崩落も地震や台風によるものではなく、ある日突然崩落したものです。構造的に盛り土内に浸透した水が南西方向へ流れやすくなっているため、地滑りが発生しやすいようですね。



 今度は三の丸の北側へと回り込んでいきます。





 二の丸北側の石垣。
 丸亀城は夜間ライトアップされるのですが、そのための投光器が置いてあります。



 そして北から見上げる天守。
 丸亀城の天守は現存中に天守の一つで、三重三階。現存天守の中では小ぶりですが、唐破風に石落としなど、城っぽいポイントはしっかりと押さえています。



 三の丸の北西角にある、戌亥櫓跡。



 ここから丸亀市街がよく見えます。



 戌亥櫓跡あたりから、天守を望んで。



 吉井勇の歌碑があります。



 三の丸の西側から南西方面へ。こちらも崩落のため立ち入り禁止となっています。



 崩落の復旧作業はこんな感じです。





 三の丸北側から、二の丸へと入っていきます。



 その際、天守の下を通りますが、こちら側には石落としが設置されていて、防備を固めています。

 二の丸全体を広く写した写真は撮っていませんでしたが、登った先が二の丸です。






 二の丸北西隅には、二の丸隅櫓跡があります。
 二の丸には南東隅にも櫓跡があるんですけど、こんな名称でいいんでしょうかね?



 二の丸隅櫓跡から北東側を望んで。



 井戸跡。絵図によると深さは約65メートルで、日本一深い井戸と言われているそうです。

 なお、この井戸には、丸亀城の石垣を築いた石工の羽坂重三郎に関する伝説があります。石垣が完成したとき、その見事さに城主・生駒親正は大いに喜んだのですが、重三郎は適当な鉄の棒があれば登れますよと言って、実際に登って見せたそうです。それを見た親正は、重三郎が敵に寝返ることを恐れ、重三郎をだましてこの井戸に潜らせ、上から石を投げ入れて殺してしまったそうです。
 まあ、実際にあった話かどうかはともかく、隠し通路など秘密の仕掛けなどを作った人を、情報隠蔽のために殺したりするのは他でも聞く話。権力者側からしたら当然の処置かとも思いますが、仕える方からすればたまったもんじゃないですね。なまじ有能だとかえって不幸が訪れるわけで、そんなことでは頑張るモチベーションも低下するってもんです。



 二の丸の南西角にある櫓跡。特に看板はついていなかったような気がしますが、こっちも二の丸隅櫓跡ですかね?





 二の丸にあった、丸亀城二の丸橋。
 橋? まあ、欄干はあるけど、なんなんだろう、これ? 今は埋められているけど、昔は堀でもあったんですかね?





 「丸亀城キャッスルロード 川中島」という立札もありましたが、何を意味しているのかよくわかりませんでした。



 そしていよいよ二の丸から本丸へ。

 と、いったところで、長くなりそうなので一旦区切ります。続きはまた後程。



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