昨年後半に行ってきた城攻めシリーズ。茨城県水戸市にある、水戸城へ行ってきました。
水戸城といえば、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の居城です。
元々は平安時代、平将門の伯父である平国香の子孫・馬場氏によって築かれました。その後、室町時代には江戸氏、さらに戦国時代には佐竹氏の居城となります。しかし佐竹氏は関ヶ原の戦いに際し、東西どちらの陣営に付くか家中の意見をまとめきることができずに曖昧な態度をとってしまったため秋田へと転封されます。
水戸へは家康の五男武田信吉が入りますが早世したため、のちに紀伊徳川家の祖となる当時2歳の十男・徳川頼宣が入城。後に頼宜が駿府へ移った後、十一男の徳川頼房が入城し、水戸徳川家の歴史がスタートします。
スタートはJR水戸駅。

水戸といえば水戸黄門。駅前には黄門様と助さん、格さんの銅像が立っています。
なお、水戸黄門こと徳川光圀は、徳川頼宜の三男で、水戸藩の2代目藩主となっています。

水戸駅前にあった、水戸学の道と題された看板です。水戸城は連郭式の平山城で、本丸、二の丸、三の丸と東西に連なっており、それらを巡るルートが紹介されています。
今回はこのルートを参考にして歩いてきました。

水戸駅から徒歩5分ほどで三の丸に到着します。
なんとなくお城っぽい感じの門と塀ですが、実はここは小学校の校門。実は水戸城の跡地は、その大部分が学校だったり庁舎だったりして、一般の人は入れません。観光的には残念ですね。

でも、代わりというわけではありませんが、水戸城の見所は空堀です。三の丸の西側には巨大な空堀跡が残っています。

水戸城は御三家の城でありながら、関東らしく石垣を使わない土の城。防御をこの空堀に頼っていた部分は大きかったでしょう。
三の丸と二の丸の間、二の丸と本丸の間にも大きな空堀があるのですが、それはまた後ほど。

空堀の中を通る道を通り、茨城県の三の丸庁舎へ行くことができます。

ぐるっと回って三の丸の北側へ。この三の丸北西エリアは中に入って観光することができます。その中心は、水戸藩9代藩主・徳川斉昭によって開設された、水戸藩の藩校である弘道館です。

こちらは北柵御門。弘道館建設時に作られた、教職員や役人用の門です。
2019年に復元された真新しい門で、背景におもいっきり庁舎が見えるので、あんまり雰囲気はありませんね。

北柵御門を裏側から。

これは孔子廟。これも弘道館開設時に建てられました。太平洋戦争で焼けたので、これは復元です。


奥へ入っていくと、鹿島神社があります。これまた孔子廟と一緒に、弘道館開設時に建設されたものです。

建学精神を刻んだ弘道館記碑が収められている、八卦堂。八角の面それぞれに八卦の算木を配し、中央に弘道館記碑を置くという構成は、徳川斉昭の宇宙観が込められているのだとか。すごいな、斉昭。
これも太平洋戦争で焼けているので、復元です。


徳川斉昭自筆の和歌が刻まれている、要石歌碑。大きな木に挟まれています。

弘道館内の学生に時を知らせた学生警鐘。鐘の表面には徳川斉昭自筆の和歌が彫られています。

寮や編修局、系纂局などで構成された文館の跡、なのですが、今は梅林となっています。文館も戦争で焼けたのですが、これは太平洋戦争ではなく、幕末の水戸藩内の内紛である、弘道館の戦いによるものです。


三の丸の西側に回ると、弘道館の正門があります。
弘道館の観覧は有料。大人400円、小中学生と70歳以上の方は200円です。

弘道館の受付に、100名城スタンプがあります。
スタンプの図案は、本丸にある薬医門と、三の丸の空堀。金山城もそうだったんだけど、無理やり二つ入れ込むのって、ちょっとイマイチじゃないですかねぇ。一つに絞ってドーンと押し出した方が良いと思うんだけどなぁ。

こちらが弘道館の正面。
中にはいろいろな資料が展示されているのですが、写真を撮っていいのかどうかよくわからなかったので、画像はありません。
弘道館の内部で一番印象に残っているのは、大政奉還後に徳川慶喜が4か月間謹慎していたという、至善堂御座の間ですね。
慶喜は鳥羽伏見の戦いのさなか、総大将でありながら、突然江戸へ帰ってしまいました。なぜ慶喜が退却したのかは諸説あるようですが、幕府側が勝つ可能性があった最後のチャンスが鳥羽伏見だったと思うので、歴史の大きなターニングポイントとなりました。
慶喜がこの部屋で何を考えていたのかは知りようもありませんが、狭い和室であるがゆえに、「徳川慶喜がかつて、すぐそこに座っていた」という事実を、リアルに感じることができました。戦国時代だとなかなかそこまでイメージするのは難しいですけど、明治時代だとまだ現代と繋がっているような感覚がありますよね。





弘道館の庭には多くの植物が植えられています。大部分は、やっぱり梅ですけどね。
弘道館を出ると、目の前はもう二の丸です。

二の丸と三の丸の間にも、堂々たる空堀があります。


二の丸と三の丸をつなぐ橋の上から、両サイドを覗くとこんな感じです。
今は道路になっているので若干わかりづらいですが、この脇の崖がそのまま空堀だったわけですから、相当な深さであることがわかります。

橋の手前に徳川斉昭公の像があります。

こちらは門の裏側。新しすぎてちょっと風情がありませんね。

で、二の丸の中に入ったのはいいのですが、既に述べたように二の丸の中はそのほとんどが幼稚園、小学校、中学校、高校といった学校関係で占められているため、中を貫くこの道の周辺くらいしか見て回れるところがありません。

三の丸から入ってすぐのところに、水戸城二の丸展示館という施設があります。そんなに広くないですけど、いくつか展示が見られます。ここは無料です。
100名城スタンプは、ここには置いてありません。

水戸城の大シイ。戦国時代から自生していると伝えられ、推定樹齢は400年です。

中学校の敷地内っぽいのですが、自由にはいれるようなので、見晴台へ行ってみました。

山の上の見晴台みたいなものを予想していたのですが、思っていたより視点が低かった……。まあ、平山城ならこんなもんですよね。


二の丸から北側に下りる杉山坂と、その坂上にある杉山門。二の丸はあんまり見るところがないので、このくらいのものでも頑張って見物しますよ。

杉山門を過ぎると、いよいよ本丸。ただ、本丸はほぼまるまる高校の敷地なので、ほとんど入ることができません。

一応、本丸に入ってすぐの薬医門までは行けるのですが……。

二の丸と本丸の間にも空堀が。現在はJR水郡線が走っています。
ここもでかい。というか、三の丸と二の丸の間の堀よりも深そうですね。

空堀沿いに二の丸と本丸の間の道を南下すると、柵町坂下門があります。

本丸と二の丸の間にある堀を、別角度から。やっぱり立派なたたずまいです。
さすがに御三家の城だけあって規模は大きいですし、巨大な空堀など遺構もそれなりに残っています。ただやっぱり、あまり城郭内に入れないというのは残念でしたね。まあ確かに、空堀は良かったんですけど、空堀は良かったんですけど……。
しかし、こういう歴史的な場所にある学校に通えるというのはうらやましいですね。子供の頃からこういう環境で過ごしたら、地域の歴史に対する意識も相当深くなるでしょうね。
私の出た小学校も一応明治に創立されて歴史だけは古かったけど、周りは田んぼばっかりだったから、歴史に思いを馳せることなんてなかったからなぁ……。
水戸城といえば、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の居城です。
元々は平安時代、平将門の伯父である平国香の子孫・馬場氏によって築かれました。その後、室町時代には江戸氏、さらに戦国時代には佐竹氏の居城となります。しかし佐竹氏は関ヶ原の戦いに際し、東西どちらの陣営に付くか家中の意見をまとめきることができずに曖昧な態度をとってしまったため秋田へと転封されます。
水戸へは家康の五男武田信吉が入りますが早世したため、のちに紀伊徳川家の祖となる当時2歳の十男・徳川頼宣が入城。後に頼宜が駿府へ移った後、十一男の徳川頼房が入城し、水戸徳川家の歴史がスタートします。
スタートはJR水戸駅。

水戸といえば水戸黄門。駅前には黄門様と助さん、格さんの銅像が立っています。
なお、水戸黄門こと徳川光圀は、徳川頼宜の三男で、水戸藩の2代目藩主となっています。

水戸駅前にあった、水戸学の道と題された看板です。水戸城は連郭式の平山城で、本丸、二の丸、三の丸と東西に連なっており、それらを巡るルートが紹介されています。
今回はこのルートを参考にして歩いてきました。

水戸駅から徒歩5分ほどで三の丸に到着します。
なんとなくお城っぽい感じの門と塀ですが、実はここは小学校の校門。実は水戸城の跡地は、その大部分が学校だったり庁舎だったりして、一般の人は入れません。観光的には残念ですね。

でも、代わりというわけではありませんが、水戸城の見所は空堀です。三の丸の西側には巨大な空堀跡が残っています。

水戸城は御三家の城でありながら、関東らしく石垣を使わない土の城。防御をこの空堀に頼っていた部分は大きかったでしょう。
三の丸と二の丸の間、二の丸と本丸の間にも大きな空堀があるのですが、それはまた後ほど。

空堀の中を通る道を通り、茨城県の三の丸庁舎へ行くことができます。

ぐるっと回って三の丸の北側へ。この三の丸北西エリアは中に入って観光することができます。その中心は、水戸藩9代藩主・徳川斉昭によって開設された、水戸藩の藩校である弘道館です。

こちらは北柵御門。弘道館建設時に作られた、教職員や役人用の門です。
2019年に復元された真新しい門で、背景におもいっきり庁舎が見えるので、あんまり雰囲気はありませんね。

北柵御門を裏側から。

これは孔子廟。これも弘道館開設時に建てられました。太平洋戦争で焼けたので、これは復元です。


奥へ入っていくと、鹿島神社があります。これまた孔子廟と一緒に、弘道館開設時に建設されたものです。

建学精神を刻んだ弘道館記碑が収められている、八卦堂。八角の面それぞれに八卦の算木を配し、中央に弘道館記碑を置くという構成は、徳川斉昭の宇宙観が込められているのだとか。すごいな、斉昭。
これも太平洋戦争で焼けているので、復元です。


徳川斉昭自筆の和歌が刻まれている、要石歌碑。大きな木に挟まれています。

弘道館内の学生に時を知らせた学生警鐘。鐘の表面には徳川斉昭自筆の和歌が彫られています。

寮や編修局、系纂局などで構成された文館の跡、なのですが、今は梅林となっています。文館も戦争で焼けたのですが、これは太平洋戦争ではなく、幕末の水戸藩内の内紛である、弘道館の戦いによるものです。


三の丸の西側に回ると、弘道館の正門があります。
弘道館の観覧は有料。大人400円、小中学生と70歳以上の方は200円です。

弘道館の受付に、100名城スタンプがあります。
スタンプの図案は、本丸にある薬医門と、三の丸の空堀。金山城もそうだったんだけど、無理やり二つ入れ込むのって、ちょっとイマイチじゃないですかねぇ。一つに絞ってドーンと押し出した方が良いと思うんだけどなぁ。

こちらが弘道館の正面。
中にはいろいろな資料が展示されているのですが、写真を撮っていいのかどうかよくわからなかったので、画像はありません。
弘道館の内部で一番印象に残っているのは、大政奉還後に徳川慶喜が4か月間謹慎していたという、至善堂御座の間ですね。
慶喜は鳥羽伏見の戦いのさなか、総大将でありながら、突然江戸へ帰ってしまいました。なぜ慶喜が退却したのかは諸説あるようですが、幕府側が勝つ可能性があった最後のチャンスが鳥羽伏見だったと思うので、歴史の大きなターニングポイントとなりました。
慶喜がこの部屋で何を考えていたのかは知りようもありませんが、狭い和室であるがゆえに、「徳川慶喜がかつて、すぐそこに座っていた」という事実を、リアルに感じることができました。戦国時代だとなかなかそこまでイメージするのは難しいですけど、明治時代だとまだ現代と繋がっているような感覚がありますよね。





弘道館の庭には多くの植物が植えられています。大部分は、やっぱり梅ですけどね。
弘道館を出ると、目の前はもう二の丸です。

二の丸と三の丸の間にも、堂々たる空堀があります。


二の丸と三の丸をつなぐ橋の上から、両サイドを覗くとこんな感じです。
今は道路になっているので若干わかりづらいですが、この脇の崖がそのまま空堀だったわけですから、相当な深さであることがわかります。

橋の手前に徳川斉昭公の像があります。

こちらは門の裏側。新しすぎてちょっと風情がありませんね。

で、二の丸の中に入ったのはいいのですが、既に述べたように二の丸の中はそのほとんどが幼稚園、小学校、中学校、高校といった学校関係で占められているため、中を貫くこの道の周辺くらいしか見て回れるところがありません。

三の丸から入ってすぐのところに、水戸城二の丸展示館という施設があります。そんなに広くないですけど、いくつか展示が見られます。ここは無料です。
100名城スタンプは、ここには置いてありません。

水戸城の大シイ。戦国時代から自生していると伝えられ、推定樹齢は400年です。

中学校の敷地内っぽいのですが、自由にはいれるようなので、見晴台へ行ってみました。

山の上の見晴台みたいなものを予想していたのですが、思っていたより視点が低かった……。まあ、平山城ならこんなもんですよね。


二の丸から北側に下りる杉山坂と、その坂上にある杉山門。二の丸はあんまり見るところがないので、このくらいのものでも頑張って見物しますよ。

杉山門を過ぎると、いよいよ本丸。ただ、本丸はほぼまるまる高校の敷地なので、ほとんど入ることができません。

一応、本丸に入ってすぐの薬医門までは行けるのですが……。

二の丸と本丸の間にも空堀が。現在はJR水郡線が走っています。
ここもでかい。というか、三の丸と二の丸の間の堀よりも深そうですね。

空堀沿いに二の丸と本丸の間の道を南下すると、柵町坂下門があります。

本丸と二の丸の間にある堀を、別角度から。やっぱり立派なたたずまいです。
さすがに御三家の城だけあって規模は大きいですし、巨大な空堀など遺構もそれなりに残っています。ただやっぱり、あまり城郭内に入れないというのは残念でしたね。まあ確かに、空堀は良かったんですけど、空堀は良かったんですけど……。
しかし、こういう歴史的な場所にある学校に通えるというのはうらやましいですね。子供の頃からこういう環境で過ごしたら、地域の歴史に対する意識も相当深くなるでしょうね。
私の出た小学校も一応明治に創立されて歴史だけは古かったけど、周りは田んぼばっかりだったから、歴史に思いを馳せることなんてなかったからなぁ……。
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