青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-10 03:01:53 | 月の世の物語・別章

女は、戸棚を開け、そこから来客用のお茶の葉の入った袋を取り出しました。今日は、カメリアのことを調べるために、日照界からの調査員が彼女の家を訪れる予定になっていました。

彼女はもともと一人が好きな性格でしたが、カメリアが彼女の元に来てからというもの、赤ん坊や子供を見たくてしょうがない人が、よく彼女の元に薬を求めに来たり、用もないのに何かと物を持ってきて、カメリアを抱いたりあやしたりしに来ることが多くなりました。

赤ん坊や小さな子供というものは、だいたい地球生命の成長途中のごく幼い時の姿であり、本来月の世にも日照界にも存在しないはずのものでした。ここにいる人間はみな、だいたい二十代から三十代の姿をしており、たまに、自ら好んで、あるいは罪の償いのために、老人の姿をしている人がいるくらいでした。カメリアは今三才、かわいい盛りでした。こんな小さな姿をしている人間は今、カメリアのほかには、月の世にも日照界にも、絶無なのでした。

女が駄々をこねるカメリアに、村の人からもらった布の人形を与え、あやしていると、扉をとんとんと叩く音があり、頓狂とも聞こえる「こんにちは!」という大きな若者の声が聞こえました。女は「はい」と答えると急いで扉を開け、客を迎えました。扉の外には茶色の目と茶色の髪をして、顔面いっぱいに微笑みを浮かべた、女には戸惑いを感じさせるほど明るい、背筋をまっすぐにのばした若者が立っていました。挨拶を交わすと、女は彼を中に入れ、客用の椅子に座らせると、簡単な魔法でお茶を作り、彼の前のテーブルに置きました。

客は礼を言ってお茶を一口飲むと、さっそくですが、と目を輝かせ、テーブルの上にぽんとキーボードを出し、女に質問を始めました。カメリアは部屋の隅で、賢く、人形で一人遊びをしていました。

「カメリアちゃんが生まれた状況については、だいたい月のお役所からの情報で把握しています。今の段階でも、彼女の他に人間に戻った怪はいません。この世界で赤ん坊から大人に育っていくってことも、かつてないことだし、日照界の僕らもカメリアちゃんには興味しんしんなんです。で、質問なんですが、あなたはどうやってカメリアちゃんを育てているんですか?」
若者は明るいはきはきとした声でたずねました。女は、彼のまっすぐなまなざしを微妙によけながらも、しっかりした母親の声で答えました。
「はい。こちらの赤ん坊は、おむつがいらないので、地球上の子育てほどの苦労はありませんでした。夜泣きに困ったときが一時はありましたけれど、それはカメリアが遠い昔のことを思い出してしまうからだと、役人さんに教えられて、慰めの子守唄ですぐに対処することができました。言葉もすぐ覚え、最近ではよくおもしろいことをしゃべります。地球上の子供と違って、幼い時から、わりあいに難しいことを、よく理解します」
若者は、女のことばを聞きながらカチカチとキーボードに打ち込んで行きました。彼は次に、カメリアの食べ物について尋ねました。

「ええ、赤ん坊のときは、月光水だけで大きくなりました。でも一歳を過ぎてから、他にも食べ物を与えるようにと役人さんに指示されたので、夜麦と豆真珠のおかゆを食べさせています。他には、野菜と果物を柔らかく料理したものを。それと、半月島の先生からいただいたお薬を、一日に一回月光水に混ぜて飲ませています。カメリアの体の中には、怪だったときの毒がまだ残っていて、その薬を飲んで解毒を続けないと、成長が止まってしまう恐れがあるそうですので」
「半月島?ああ、日照界でやればいいものを、わざわざ月の世に来て研究しているあの酔狂な人たちのことですね!」
若者が微塵のためらいもなく言った言葉に、女は、は?と目を見開いて驚きました。女は呆れてしばしものも言えませんでした。まあ、なんと口の軽やかな若者だろう。日照界の人とは、皆こうなのかしら?
「日照界にも、怪はいますよ。ここほど豊かではありませんが。日照界の方が設備も整っているし、ここよりずっといい環境で研究できるのにな」
若者はただただ明るく、親切心のみで言っているようでした。女は、困ったように、はあと答えつつ、若者のまっすぐな瞳をよけてテーブルの上に目を落としました。

若者はそれからいくつかの質問を繰り返し、そのたびの女は自分の経験してきたことを全て語りました。調査は一時間ほどで終わり、青年は立ち上がると、相変わらずためらいのない明るい元気な声で、「ありがとうございます!」と言って、女に握手を求めました。女は少し慣れてきて、彼を真似て明るく笑いながら、握手に答えました。

女はカメリアがおとなしく人形で遊んでいるのを確かめてから、若者とともに家の外に出て、彼を柵の外まで送り出しました。若者は柵を出ると女を振りかえり、別れの挨拶をしようとしました。そのときふと、彼は戸惑いを含んだ女の微笑みに気づいて、びっくりしたように目を見張り、突然、言いました。
「奥さん!あなたは、お美しいですね!」

女は一瞬わけがわからず、は?とまた目を見開いて、若者の顔を茫然と見つめました。若者はしばし見とれるように、微笑みながらその女の顔を見ていました。
「…いや、わたしは、師たる聖者にお尋ねしたことがあるのです。なぜ女性は、あのように美しいのですかと。そうしたら師はこう答えられました。なぜなら女性は、さまざまな屈辱に耐えながら、それをいやと言わずに『はい』と言って受け入れ、微笑んで全てを良きことにしてきたからだと。ほんとうに、どんな大変な苦労をしても、文句を言わず、ただ『はい』と言って、ずっとずっと、陰で静かに働いてきたからだと…。いや、そのときは、半分も師の言葉の意味がわかりませんでしたが、今、あなたを見て、ようやくわかりました。美しい女性とは、あなたのような人のことを言うんですね!」

女はまるまると目を見開き、体を震わせ始めました。恥じらいなのか屈辱感なのか、わけのわからぬ感情が胸をうずまきました。目の前の若者は、ただ素直に、自分の思っていることを彼女に伝えただけでした。それはわかっていましたが、彼女は突然の事態にどう対処していいかわからず、自分でも知らないうちに目に涙があふれ出し、あわてて前かけで顔を隠し、思わず駆けだして、家の中に飛び込んでしまいました。若者はその時になって初めて、日ごろ「おまえは軽々しくものを言い過ぎる」と師に戒められていることを思い出し、「…そうだ、女性に、うかつなことを言ってはいけないんだった…」と自分に言いながら、頭を抱えました。

女は背中で閉めた扉の前で、しばし前かけで顔をおおったまま、流れ続ける涙を拭いていました。そんな彼女を見て、カメリアが、「ああ」と声をあげました。女はカメリアに微笑みかけ、「だいじょうぶよ」と彼女に声をかけ、息をはげしくしながらも、胸を押さえながらなんとか自分を落ち着かせようとしました。そしてようやく涙がとまり、なんとか自分を立て直すと、今度は取り乱した自分の態度が恥ずかしくなり、もう一度若者に挨拶をしなおさなければと、扉に手をかけました。そのとき、扉のすぐ向こうから、若者の小さな声が聞こえました。

「申し訳ありません。失礼なことを言ってしまいました。…これは、おわびです」
すると、女の目の前で小さな白い光が踊り、いつしか丸い銀の手鏡が、女の手に握られていました。「あ、あら」女はあわてて扉を開け、外に飛び出しました。でも、日照界の若者の姿はそこにはありませんでした。

「ど、どうしましょう…」女は戸惑いから抜け出せず、手に持った小さな手鏡を見ました。と、不意にその鏡に月光が映りこみ、鏡は白い月光を反射して、その光の中に、水晶のように透き通った百合の花が現れ、ゆっくりと回り始めました。女はその美しい百合の花に驚いて、しばし見とれてしまいました。
そして、一体これをどうしたらいいのかと、若者の姿を求めてあたりを探し回りました。でも若者はもう日照界に帰ってしまった後で、どこにもその姿はありませんでした。

女は手鏡の映し出す百合の花を、月光の下で静かに見つめました。そのうちに、驚いていた心が、だんだんと静まってきて、彼女は普段の自分をようやく取り戻しました。そして、目に少し涙をともしつつ、まあまあ、と呆れたように言いました。

「男の人から、花をもらうなんて……」

露草色の空にかかる月が、彼女の胸に生まれた静かな喜びを見て、かすかに「いいんだよ」とささやいたような気がしました。


 
 
 
 
 

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