日照界に、夕日の岸辺という海辺の小さな村がありました。岸辺から遠く海の方に目をやると、そこの太陽は、すぐにも水につかってしまうかと思うほど、はるか向こうの水平線すれすれに顔を出し、いつも西空を夕焼け色に染めていました。振り返って、反対側の東の空は、うっすらと夜の色に染まり、気配だけはあるが決して姿を見ることはできない月の光が、山並みの稜線をくっきりと白く照らしていました。
日照界で、ただひとつ、日の光と月の光を同時に感じることのできるこの海の磯には、月光薄貝という大きな白い薄貝が棲んでいました。その薄貝には珍しい習性がありました。山の向こうに光だけが見えて決して姿は現さない月が、満月になると、その白い貝は不思議な脱皮を行い、その抜け殻は、水面に蝶のような形の白く薄い皮となって浮かぶのでした。
職人は、暦を正確に読んで満月の日を選び、深い長靴をはいてその磯に入り、月光薄貝が脱皮するのを待っていました。岸辺をやさしくなでる波の音を聞きながら、職人は、一枚の月光薄貝が磯の底でぷるりと震え、白い貝の皮をするりと脱ぐのを見ました。彼はその白い皮をさっそく網ですくい、それを破ったり壊したりしないように、丁寧に扱いながら、腰に下げた籠の中に入れました。そうして、二十枚ほどの貝の皮を集めると、職人は仕事を終え、磯を出て、砂浜の向こうのゆるやかな丘の上にある、大きな工房の方に向かいました。
途中、職人は、何人かの女の職人たちが岸辺に立ち、バケツのように大きな銀製の碗をいくつか砂の上に置いて、それを斜めに立てて碗の口を夕日に向けているのを見ました。日の光は月光のように汲むことはできませんでしたが、銀の鏡の中に吸い取ることはできました。彼女らは銀の碗の中に十分に夕日の光が染み込んだのを確かめると、その碗の中に海水を注ぎ込み、月の世から取り寄せた豆真珠の粉をひと振りして混ぜました。すると海水は見事な夕日の色に染まりました。彼女らはその夕日の水を三日ほどかけてじっくりと煮込み、ただひと匙の、朱色の顔料を作るのでした。
職人は工房に戻るとその裏庭に周り、そこに夕日に向かって斜めに立ててある板の上に、月光薄貝の皮をその質や大きさによって分けながら丁寧に広げて並べ、夕日の光と風の中にさらしました。そうして三日ほど干しておくと、月光薄貝の皮は蝶の形をした、かすかに虹色を帯びた貝殻質の白い薄紙となるのです。職人は空の雲の動きを眺め、風や雨の気配などを気にしながら、今度は別の板の上にある干し終わった貝の薄紙を集め始めました。
工房の中には、たくさんの職人と三人の準聖者が働いておりました。職人たちはそれぞれ自分の作業場に陣取り、各々の仕事に集中していました。ある者は、顕微鏡をのぞきこみながら、糸のように細いナイフを使って、ごく薄い水晶や瑠璃の板を削り、星の形をした歯車や蚤のようなネジやバネなどを作っていました。またある者は、遠く月の世の天の国から取り寄せたという翡翠や瑠璃をすりつぶし、緑や青の絵の具を作っていました。ほかにも、かすかな月光をじっくりと時間をかけて碗に汲み、それに日照界でとれる綿の実を浸してごく細い光の糸をよる者がいたり、絹のような手触りのきめ細やかな土をこねて、指に乗るほどの小さな虫の形の器を、オーブンのような小さな窯で焼いて作る者がいたりしました。
二階では、三人の準聖者のひとりが、片隅で敷物の上に座り、古風な服を着て鼓をたたきながら、美しい声で呪文の歌を歌っていました。その歌声は、机に向かっているひとりの準聖者の霊感を高め、彼はその霊感に操られるように、半透明の薄紙の上に蝶の形と翅の文様を描き、型紙を作っていました。ひとつの蝶の型紙が完成すると、その準聖者は机を並べている隣の準聖者にそれを渡し、その準聖者もまた霊感を受けながら、その蝶の羽の文様の中にそれぞれしるしを書き、文様の色を指定してゆきました。
職人のひとりが二階に上って来ると、彼は深く準聖者にお辞儀をして、型紙を受け取り、すぐ下の階の自分の机へと戻っていきました。彼はその型紙を、乾かした月光薄貝の紙の上に載せ、極細のペンと写し紙を使い、薄貝の紙に傷をつけないように微妙に指先の力を調整しながら、準聖者の描いた蝶の形と文様を慎重に正確に薄貝の紙に写してゆきました。彼は型紙から写した文様に、一ミリの間違いもないのを何度も目と勘で確かめたあと、それを隣の机に座っている職人に渡しました。その職人は、書かれた蝶の形の通りに、薄貝の紙を細いナイフで丁寧に切り抜き、そして型紙を見ながら指定された通りに細い筆を絵の具に染めて蝶の翅に色を塗ってゆきました。彼の前には、瑠璃の青や、翡翠の緑、夕日の朱、金色の橘の実から吸い取ったという黄、豆真珠の粉でつくった白、月光を黒檀の密室でさえぎった闇から採取したという墨などの、さまざまな絵の具を入れた小皿が並んでいました。
職人は、蝶の文様に色を塗っている間は、息もしませんでした。少しでも息を吐くと、薄貝の紙が揺れて、微妙に文様の線から色がはみ出し、それだけでその蝶はもうだめになってしまうからでした。職人は一ミリどころか一マイクロの間違いも許されませんでした。ただ一心に蝶の文様を見つめ、描かれた線をけっしてはみ出すこともなく、顔料と水の量、筆に吸い取る絵の具の量、筆を動かす微妙な指の動きなど、職人は経験から得たほぼ神業に近い勘だけを頼りに、神よりの使命に動かされているかのように、貝の薄紙に色を塗ってゆきました。
ひと組の蝶の文様が完成するまで、職人はたくさんの時間を使いました。そして職人が、蝶の文様の裏も表も、まったく正確に塗りあげると、彼はそれを次の作業をする職人に渡し、そこで初めて息をしました。
色塗りの職人から蝶の翅を受け取った職人は、女の職人でした。彼女は、絹の土で形作り焼き上げられた小さな虫の器の中に、極小の歯車とネジとバネで作った小さな仕組みを入れ、それを黒い薄布で覆って光の糸と針で縫いこみました。そしてさっき受け取った薄貝の蝶の翅を、豆真珠の粉を固めた極細のチョークで仮に描いたしるしのところに、一ミリのずれもなく正確に縫いつけました。こうしてできあがった蝶は、最後にまた二階の準聖者のもとへ持ってこられました。そこで、鼓をたたいて歌っていた準聖者が、少しの間歌をやめ、職人らが作り上げた蝶を左手で受け取り、右手の人差し指ですいとまっすぐに宙に線を描き、それで細い光の筆を作りました。準聖者はその針金よりも細い光の筆をとり、蝶の両の目に、す、す、と白い光の点を描きました。すると蝶は初めて命を得たように、体内の歯車がかりかりとかすかに動きだし、翅をひらひらと動かし始め、木の葉のように宙に浮かびあがりました。職人と準聖者は、開けてあった二階の高窓から風が一筋忍び込んできて、蝶をまるで盗んでいくかのようにからめとり、工房の外へと導きだしてゆくのを見ました。
そうしてようやく完成した蝶は、夕日の歓迎を受け、じっくりと温められながら、風に導かれるまま、東の山を超え、そのはるか向こうにある高山へと旅しました。そこには高山の花々が季節をかまわず咲き乱れている、極楽の花園のようなところがありました。花園にはもう、工房で作られた蝶がそれはたくさん群れており、花々の中で、雌雄は互いに呼び合い、追いかけたり逃げたりを繰り返しながら、不思議な繁殖をおこない、透明な歯車で作られた目に見えぬ光の遺伝子を交換し合い、神の魔法の中で、これほど珍しく美しいものがあるのかと芸術家のだれもが驚きおののくほどの、見事な文様の蝶が、次々と新しく生まれ出てくるのでした。そんな蝶の数はみるみる増えて、蝶の群れは大きく大きく膨らんでゆき、まるで一つの生き物のように、花園の空を舞いました。
高山の花園に潜んでいた神は、その群れをゆっくりと操り、蝶の一匹一匹に描かれた文様が、一マイクロの狂いもなく正確に描かれているのをごらんになり、とても喜ばれました。そして、ほお、と感動の驚きを見せ、その蝶の群れを祝福し、その使命を認めました。
それぞれの蝶の翅に描かれた文様は、高き神の愛の思考より生み出された言葉の一つ一つの文字を、この世界に表現するために作られたものでした。その文字を、準聖者が神よりのことばとして霊感の中に受け取り、工房の職人たちが、その誠の心と磨かれた高度な技をかけて作り上げ、愛のしるしの下、皆で協力し合って、神の御言葉をこの世界にこれ以上には正確にはできないほど正確に写しとった、それはまさに神と人がともに作りあげた美しい工芸品でありました。そして、不思議な魔法の繁殖によって膨らんだ神の文字であるその蝶の群れは、神により書きあげられた、一巻の大きな物語の中の、ある一章でもあるのでした。
蝶の群れは、このまましばらく花園に暮らし、繁殖を繰り返しながら、十分に命として、言葉として機能する準備が整うと、いくつかの群れに分かれ、あらゆる世界に神の著された物語を伝えるために旅をしてゆくはずでした。人々には、その神の文字を正しく読むことは決してできませんでしたが、しかしその文様を見るだけで深く感動し、何かをせずにはいられなくなりました。そしてそれは、その人の生きる道を導き、まるで物語の一つの役を担うように、何かの使命に導かれ、学び始め、行動し始め、美しい愛へと向かう、自分のための自分の道を探し、歩き始めるのでした。そうして、蝶はあらゆる人の魂を、神の御心への道へと導き、人々の魂はそれを追って、大きく成長してゆき、人間の、いえ、あらゆる命たちの、大きな歴史の物語を、自分たちの力で創り上げはじめるのでした。
このようにして、命の歴史の物語、すなわち史(ふみ)は、夕日の岸辺の磯に棲む、一枚の白い月光薄貝が、自らの古い殻を脱ぎ、新しい自分へと生まれ変わることから、始まるのでした。
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