青城澄作品集

詩人あおきすむの書いたメルヘンや物語をまとめます。

2025-01-16 03:38:13 | 月の世の物語・別章

ある小さなマンションの一室の、キッチンの隅で、若い女が一人、エプロンで頬を流れる涙をしきりにふいていました。彼女は、結婚したばかりの夫に、夕食がまずかったと叱られ、夫に口答えすることもできず、ただショックを受けて、一人声を立てることもなく、陰で静かに泣いているのでした。

その様子を、二人の少年が、隣の部屋から心配そうに見つめていました。彼女の夫は、居間のテレビの前で酒を飲みながら、ベースボールの試合を夢中になって観ていました。二人の少年がこの部屋にいることには、夫婦のどちらも気づいてはいませんでした。

「大丈夫だろうか?あんなことで、あんなに傷つくなんて。彼は、あんなに弱かったかな?」一人の少年が言うと、もう一人の少年が答えました。「彼は今女性だからね、多感なんじゃないかなあ。僕も女性に生まれたことはあるけど、確かにちょっとしたことでよく泣いてたよ」

少年二人は、泣いている若い女の中に、一人の赤い髪をした少年がいるのを見ていました。彼女は生まれる前、月の世で罪びとを導いていた少年でしたが、お役所の命で、二十数年前に入胎し、地球上に女性として生まれてきたのでした。
二人の少年たちは、居間にいる夫と、キッチンにいる女をかわるがわる見ながら、ため息をつきました。「…地球の男性は、女性を軽んじすぎるからなあ…」そう言いながら、少年二人のうちの一人が、キッチンの彼女の方に近づき、そっと、彼女の首にとりついていた小さな蜘蛛を捕まえて、呪文でしばりあげました。すると、女は少し体と気持ちが軽くなったようで、ふとエプロンから顔をあげました。少年は、彼女の魂にそっと近づくと、彼女の心の中でささやきました。(こんなことでくじけちゃだめよ。わたしは強いんだもの)すると女は、指で小さな涙をぬぐって、(そうね、まだまだこれからなんだから)と心の中で答え、少し微笑みました。

「おい、あまり余計なことはするなよ!役人さんに叱られる。彼はできるだけ自分の力で乗り越えなくちゃいけないんだ!」もう一人の少年が叫ぶように言いました。「わかってるよ。でもこれくらい、いいじゃないか。今の地球のひどさったら、ないんだから」蜘蛛を捕まえた少年は、唇をとがらせながら言い返しました。でも、もう一人の少年の言うことももっともなので、少し後ろ髪をひかれながらも、彼は彼女をそこに残し、二人でそっとマンションを出て行きました。

彼らは二人並んで夜空を飛び、マンションの隣町にある小さな山の麓の、短いトンネルのところに来ました。彼らの仕事は、人間が山に無断で開けたこのトンネルを清め、人間の代わりに山に謝り、そのトンネルが、山にとっていやなものにならないように、トンネルに意味のある美しい名前を付けて、よきものとすることでした。そのために彼らは数日かけて山の魂のために儀式を行い、長い慰めの呪文を、毎日読んでいました。そして、一生懸命、トンネルの名前を考えていました。しかし、なかなか良い名前が思い浮かばず、彼らは二人で考えに考え、考えるのに疲れて、ふと、近くに友達が生まれているのを思い出し、少し考えるのを休んで、そのマンションを訪れてみたのでした。

少年の一人は、トンネルの前に戻ると、呪文で縛り上げた蜘蛛に、もう一度呪文を振りかけ、月の世に帰るように命じました。すると蜘蛛は、ききっと声をあげ、少年の手の中からふっと姿を消しました。

闇空には高く丸い月が光り、静かに山を照らしていました。緑の山はそれは美しく、痛い穴をあけられながらも、それを自らの苦しいこととはせず、静かに微笑んで耐えていました。それは少年二人の心を、痛く苦しませました。人間はどうしてわからないのだろう。あらゆるものが、みんなこんな風に耐えていてくれることを。人間がいつか気付いてくれるのを、長い長い間、ずっと待ち続けていることを。

一人の少年が、目の前をライトを光らせながら通り過ぎていく車の列を見ながら言いました。「光る虫の道、てのはどうだろう?車って、ちょっと甲虫みたいじゃないか。美しいと思うけど」「そうだな。きれいな言葉だけど、どことなく、もっと愛がほしいなあ」「愛ねえ、どう言えば、愛が表現できるのかなあ。ここはもともと、人間が自分のエゴだけで造った穴なんだ。それを愛に言い換えるのは、難しいなあ…」少年たちは頭を抱え、腕を組みながら、懸命に考えました。たくさんの美しい言葉を考えて、いろいろと組み合わせてみたり、並べ替えてみたりしました。そうして、なんとか組みあげた名前を、山に問いかけてみました。しかし山は何も答えず、静かな沈黙でその名を拒否するのでした。少年たちはそうして、何日もの間考えて、いくつかの名をあみだし、そのたびに山に問いかけてみましたが、山はさっぱり受け入れてくれませんでした。少年たちは考えてばかりいるのに疲れ、また、例のマンションに住んでいる、彼女の元を訪れました。

若い女は、居間の隣の部屋に置いた、小さな机の前に座り、何かしきりに手を動かしていました。少年二人は、背後からそっと彼女に近づき、その手元を覗き込んでみました。「あ、刺繍だ!刺繍をしているよ!」一人の少年が声をあげました。彼女は、机の上に広げた刺繍の図案を見ながら、一針一針、丁寧に色糸を操り、紅い薔薇の花模様を白い布に縫いこんでいました。ふと彼らは、壁に、きれいなペルシャの猫を縫いあげた、刺繍の絵が額に入れて飾ってあるのを見つけました。彼らはそれを見て、ほお、と声をあげました。「いいじゃないか、これ、見事だよ」「うん、まだ若いけど、なかなかうまい。これ、ずっと続けていくといいな。そしたらとてもいいものができる」少年二人はしきりに感心し、しばし、彼女の、まだ少し不器用さを残しながらも、なかなかに上達した手の動きを見ていました。

「さてと」少年二人は、またトンネルの前に戻り、山に向かって儀礼をした後、二人で頭をふりしぼって考え始めました。目の前をひっきりなしに流れ、トンネルを出たり入ったりしている車たちは、まるで命のない石の塊が走っていくようで、とてもそっけなく、冷たく、山の存在をまるごと無視して通り過ぎて行きました。少年たちは悲しくそれを眺めました。「…いつか、人間がこれに気付いたら、今の僕たちと同じように、悩むだろうね」一人の少年が言うと、もう一人の少年がうなずきました。「たぶんね。彼らだって馬鹿じゃない。神がお創りになったすばらしい命だ。今は大変な時期だけど、彼らだっていろいろ感じて、進歩してるはずなんだ…」

少年の一人が、腕を組み、山を見上げながらため息をつきました。
「それにしても、難しい仕事だなあ。何にも思いつかないよ」「僕もだ。これはかなり時間がかかりそうだな」「なんでこんなこと、お役所がぼくらに命じたんだろう。先輩たちならもっとうまくやるだろうに」「そんなこと今更考えたって無駄だよ。とにかく、やれといわれたら、やらないとな」「ふうむ…」少年たちはしばし、いろいろと案を出し合いましたが、これといって手ごたえを感じるものはなく、やがて言葉を言うのにも考えるのにも疲れ果て、二人並んでひざを抱え、トンネルの前にうつむいて座ったまま、眠ったように動くのをやめました。

そして数日後、彼らはまた、マンションの彼女の元を訪れました。薔薇の刺繍はもう出来上がっており、壁に新しい額が飾られてありました。若い女は、彼らが薔薇の刺繍の見事さに感心している間、鼻歌を歌いながら背後で掃除機を動かしていました。
「きれいだねえ。これ、猫の絵より、上手いよ」「たしかに、上達してる。いいなあ。地球は、こういうところがすばらしいんだ。努力して、成長していくってとこが、とても気持ちいいんだ。僕も前に生まれた時、家具を作ってたことがあるんだけど、師匠について、毎日勉強して、だんだんうまくなっていくってのが楽しくってしょうがなかった」「いいなあ、それ、人間の美しさだね。ああ、それ、なんとかならないかな。トンネルの名前。美しい人間。人間の美しさ。これなんだよ。自分で作っていくってことなんだ。トンネルも、山にはとてもつらいことだけど、人間は確かに、苦労して造ったろうね」「それはそうだ。間違ってはいるけど、たくさんの人間が働いたろう」「トンネルができたことで、確かに流通はよくなった。ものの動きがよくなり、人間は簡単にものが手に入れられるようになって、暮らしは便利になった」「でもそれは半分悲哀だ。暮らしを便利にしなきゃならないのは、生きるのが辛すぎるからでもある」「うーん、そうだなあ」……

彼らがあれこれと語り合っている間に、時は過ぎ、女は買い物から帰ってきて、テーブルの上に買ってきたばかりの食物や本などを袋から出して並べました。少年の一人が、彼女が買ってきたその本が、料理の本であることに気づき、「お」と声をあげました。もう一人の少年もそれに気付いて、言いました。「彼、料理をもっと勉強するつもりなんだ。努力家だね。前からそうだったけど…」「へえ、夫に怒られても、反発しないんだ。あんなこと言われたら、悔しくて、却って意地を張る人が多いもんだけど」「あれは彼のいいとこだよ。ああいうのが、賢いってことなんだ」「賢い、か。賢い…、うん、賢いってことは、どういうことかな?」少年たちはまた考え始めました。「そりゃ、賢いってことは、常に愛から離れないってことだよ」「そうだよな。愛だよ、結局は。彼は、たぶん、怒られてつらかったろうけど、夫と喧嘩してみんなを不幸にするよりは、自分が努力して向上する方の道を選んだんだ」「…彼らしいね。賢い女性はよくそういうことをやるよ」「うん、美しい…なんかそこらへんに、何かありそうだな…」少年は唇をかんで考え込み、何かもやもやと頭の中に浮かんでくるものが何なのかを、探り始めました。

彼らは、彼女がベランダに降りて洗濯物を取り込み始めると、もう一度、薔薇の刺繍の絵を見つめました。彼女の上達はかなりのもので、糸の長さも張り具合もほぼ的確にそろい、色のバランスも見事で、薔薇の形は凛としてくっきりと白い布の中に浮かび上がっていました。それは、正しいことをひたむきに求めていた、彼女が生まれる前に少年だった頃の、まっすぐに澄んだ瞳を思わせました。

「…薔薇の入り口、というのはどうだろう?」ふと、一人の少年が言いました。「薔薇の入り口?」もう一人の少年が返すと、さっきの少年がもう一度言いました。「うん、今思いついた。薔薇は、真実の花だ。君も知ってる通り、薔薇の花霊は、最も真実を尊び、常に人間に真実を語りかけている。そして、人間の嘘に傷つきながらも、けなげに咲き続けている…」「うん、なるほど、真実か」「…そうか、わかったぞ、真実だ!トンネルを、薔薇の入り口と名付ければ、それは、真実への入り口となる。つまり、人間はあのトンネルを通って、真実への正しい道に入ることになる!」「おお!いいぞ、それ!つまり人間は、あのトンネルに入ることによって、美しい薔薇の真実に向かう道を走り始めるんだ!そしていつか、真実に目覚めて、あの山の愛と忍耐に、気付くんだ!」「よし、これだ!うまい!」「うん、とにかく、山に、問いかけてみよう!」二人はそういうと、マンションを離れ、山の方へと飛んでゆきました。

その夜、二人はともにトンネルの前で、一定の儀礼をし、山に対して深く敬意を表した後、トンネルの名を、「薔薇の入り口」と試みに名付けてみたいと、山に問いかけました。すると、山はそれを拒否せず、笑って答え、ああ、よい、と快く少年たちに言いました。そのとたん、まるで次元の幕が一枚剥がれたかのように、トンネルの光が清められ、前よりもぱっと明るくなりました。ひっきりなしに走ってくる車はみな、トンネルの入り口をくぐると、その光を浴びて、まるで生まれ変わったかのようにくっきりと新しい存在感をまといました。トンネルは、「薔薇の入り口」と名付けられたことによって、そこを通る者を真実の道へと導く新しい使命を与えられ、それによって、美しくよきものとなったのでした。

少年たちは喜びを顔いっぱいに表し、お互いに目を見合わせて、手を取り合いました。「やった!彼のおかげだ!」「うん、ほんとに!」「もう一度、会いに行ってこよう!」「うん、聞こえなくても、お礼だけは言いたい!」
二人は、もう一度マンションを訪れ、窓からそっと中に忍び込みました。夫婦は、シャワーを浴び終わり、寝巻に着替え、そろそろ眠る準備に入ろうとしていました。少年たちは、両側から女の耳に口を近づけ、二人声をそろえて、「ありがとう」と言いました。すると女は、何か聞き覚えのある声が耳に入ったようなくすぐったさを感じ、思わず首をかしげて、周りを見回しました。

「なんだい?びっくりしたような顔して」夫が問うと、妻はかぶりを振り、答えました「ううん、何でもないの。何か、聞こえたような気がしたのだけど、きっと気のせいね」

少年二人は、夫婦の寝室の邪魔をしないように、そっとマンションから抜け出し、空に飛び出しました。「彼、いい人生が送れるといいね」「ああ、また近くを通ったら、様子を見に来よう」「あまり余計なことはするなよ。彼は強いんだ。ここで生きることは苦しいけれど、きっと彼は、正しく生きていくよ。どんなにつらくてもね」「そうだ、人間たちだって、いつかきっと、みんな真実の正しい道を生き始める。あの薔薇の入り口を通ってね!」「いいなあ、それ…」。

二人は言葉を交わしながら、遠く下に見えるマンションの明かりに向かって、もう一度小さく合図を送り、そして、月の世に帰るために、星空へと向かって、高く飛んでゆきました。




 

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