枯れ草と痛い小石の混じる果てもない荒野の中を、カメリアは、息を切らせながら、走っていました。後ろを見ると、影のように黒い男たちが、にやにやと笑いながら、自分を追いかけて走ってくるのが見えました。
いや!いや!いや! カメリアは叫びながら、懸命に逃げました。しかし男たちは彼女を追いかけることをやめず、その黒い腕を蛇のように伸ばし、彼女の襟首を捕まえたかと思うと、恐ろしい力で彼女をひっぱり、痛い荒野の石の上にぼろ人形のように投げ倒しました。
ああああああ!!
悲鳴を上げて、カメリアは寝床から飛び起きました。激しい息が肩を揺らし、涙で頬が濡れていました。隣で眠っていた母親が、その声に飛び起きて、「カメリア、どうしたの?」と声をかけました。カメリアは涙に震えながら、母親の胸に飛び込み、声をあげて泣き始めました。
「また昔の夢をみたのね」母親は、カメリアの背中をなでながら、言いました。「大丈夫。もうとっくに終わった夢よ」母親は、カメリアを抱きながら、しばし慰めの呪文の歌を歌いました。そうしていると、少しずつ、カメリアの気持ちも静かになってきて、怖い夢にもだんだんと幕が下がり、涙もかすみ、やがて彼女は、ふうと安堵の息をつきました。すると今度は、胸の中にたまらない悔しさが生まれてきて、カメリアは母の顔を見上げて訴えるように言いました。
「わたし、男は嫌い。いやって言ったのに、いやって言ったのに!」すると母親はカメリアを抱く腕を強めて、言いました。「…カメリア、あなたと同じ思いをした女は、星の数ほどいるわ」母親もまた、遠い昔のことに思いをはせ、苦しそうに眉をゆがめました。彼女は、覚めた悲しみの中に閉じてゆく自分の心を感じながら、娘の長い金髪を、指で静かになでて、言いました。
「カメリア、あなたはかわいいわ。男はね、女よりも、よっぽど、子供なのよ。あなたがかわいくて、好きになりすぎてしまうのが、怖いの。本当に愛してしまったら、自分が女に支配されてしまうんじゃないかって、それが怖いのよ。だから男はいつも、女に意地悪ばかりするの…」母親が言うと、カメリアは母の顔をじっと見つめました。「お母さんも、同じような思いをしたことがあるの?」すると母は切なそうな遠い目をして笑い、言いました。「…もう、何を言っても、どうにもならないことよ。終わったことは、忘れたほうがいいの…」カメリアは、苦しそうな目で母の顔を見つめ、しばし唇を噛んで、黙っていました。
まだ起きるには少し早い時間でしたが、ふたりとも、もう眠れそうになかったので、今日は早めに起きることにして、親子は普段着に着替え、ふたりで朝食の準備を始めました。カメリアは賢く、母親のしつけと教育もよかったせいか、料理や縫物がとても得意な、良い娘になりました。定期的に家にやってくる役人からも、たくさんのことを教えてもらい、魔法もいろいろ使えるようになっていました。彼女は今十七歳。運命の日が来るまで、あと三年と迫っていました。役人はいつも、彼女に、「君はあらゆる怪のための道を開く使命を持っている」と言いました。その言葉は、まだ少女であるカメリアには、とても重い荷のような感じがしましたが、しかし自分がかつて怪であって、数々の罪を犯してきたことも覚えていたので、いつか、その日がくれば、やらねばならないことをやるために、行かねばならないということは、十分に覚悟していました。
カメリアは家の掃除を終えた後、母親を手伝って、薬草畑の世話をしました。薬草に魔法の水をやり終わると、彼女は背を伸ばして空を見上げ、月の光を目に吸い込みました。露草色の空の月は美しく森を照らし、カメリアの心の悲しみを、幾分澄ませてくれました。
お母さんは、忘れた方がいいと言うけれど、わたしはなかなか忘れられない。あの痛み、苦しみ、悔しさ…。どうやったら、お母さんのように、忘れることができるの?乗り越えることができるの?カメリアの悲しみが、かすかに風を揺り動かし、何か目に見えぬ魂を呼び起こして、それは聞こえぬ声を発して、少女よ、とカメリアに語りかけました。
しかし、その声は母と娘のどちらの耳にも届くことはなく、ふたりは薬草の世話を終わると、家に入りました。そして簡単な昼食を済ませ、休息に入ろうとした、ちょうどそのときでした。
「やあ、こんにちは、奥さん、カメリア!」
突然、半月島の博士が、まるで勝手を知っているという感じで家の扉を開き、中に飛び込んできました。博士は笑いながら、母親とカメリアに小さく手をあげて挨拶すると、持っていた大きな袋を、テーブルの上に、どんと置きました。博士は、何やらうれしそうに笑いながら、ふたりに声をかけました。
「今月の分の薬を持ってきたよ、カメリア。それとほかにもいろいろ…。いや、僕もね、君のおかげで役人さんと会う機会が増えて、かなり勉強したもんだから。なんかいろんなものがたくさんできてしまったんだ。まずはこれ、ヨハネの新しい食べ物だよ。今までのものにね、ちょっと魔法を加えてみたんだが。いや、科学も大事だが、やはり怪を助けるためには、魔法と愛が大事だね。よくわかったよ」
家に入って来るなり、袋から次々とものを出しながら、はしゃぐように説明する博士を、カメリアは少し硬い顔をして見つめていました。母親は、そんな娘の顔を、少し心配そうに見ていました。
「…それとね、こいつはこの前の君の検査結果だ。ええとね、一応薬は持ってきたんだが、君の罪責のこともあって、だんだんと薬が効かなくなってきてるんだよ。それでどうしても解毒が追いつかないからね、ちょっとちがうものを工夫してみたんだが…」
そのときふと、家の中を、不思議な風がよぎりました。そのかすかな香りと聞こえない声の気配に、心の奥の何かを呼びさまされて、カメリアの胸の中で何かがはじけ、彼女はぽろぽろと涙を流し始めたと思うと、突然、「先生!」と叫んで駆け出し、その胸に飛び込んでしまいました。
「う、うわ!」博士はびっくりして、思わず足元がふらついて、後ずさりしました。カメリアの思わぬ行動に、母親も驚いて、あっと声をあげました。
「ど、どうしたんだい?カメリア…」博士は、自分の胸に顔をうずめているカメリアを見て、ただおろおろと、立ちつくしていました。カメリアは、博士の青いセーターをぎゅっとつかんで、額をぐいぐいと博士の胸におしつけました。博士は困ったような顔をして、母親の方を見ました。母親も、ちょっと困ったような顔をしましたが、何か、不思議な魔法の気配を感じて、何も言ってはいけないような気がして、戸惑いながらも、口を閉じて、すまなそうに小さく目を下げて博士に謝りました。
「ええ、ええと…、カメリア、つらいことが、あったのかい?」博士は言いましたが、カメリアは答えず、ただ彼の胸の中でじっと声もたてず泣いていました。
…ああ。
だれか、見えないものが、ささやきました。どうしようもない。たすけてあげよう。聞こえない声が言いました。
すると博士は、いつか、聖者に魔法で操られたときのように、自分の手が勝手に動き出すのを感じました。え、え? 博士は、自分の腕が、胸の中のカメリアの体を抱こうとするのを、茫然と見ていました。いかん、まずい、これはまずい。彼は心の中で叫びましたが、見えないものは、無理やり彼を黙らせました。
そうして、博士は、とうとう、彼女を、自分の胸深く、抱き沈めてしまいました。博士は、カメリアの体が細く、柔らかく、あまりに小さいのに、驚いて、身の内を何かに貫かれたようなめまいがしました。甘やかな香りが、博士の頭をくらくらと揺らしました。博士は腰が砕けて倒れてしまいそうになりましたが、また、見えない何かがそれを支えて、何とか彼を立たせました。
母親は、頭の中では天地がひっくりかえるような思いを感じていましたが、何とか冷静を保ち、彼らから顔をそむけて、ヨハネの水槽などを見ながら、何も気づかないかのような振りをしていました。ふと彼女は、家の中の空気の密度が、なぜかしらいつもより濃く、灯りの火も幾分明るいのに気付きました。…ああ、なあるほど。彼女はようやく合点がいきました。何かが家の中にいる。きっと、このへんの山に棲んでいる木霊の精霊か何かが、よけいなことをしているんだわ…。
「カ、カメリア、ごめん、ごめんよ…」博士は何が何だかわからず、とにかく謝らなければと思いました。しかしどうしても、彼女を抱きしめている自分の手を動かすことができず、一体どうしたらいいのかと、これはなんなんだと、本当に、自分は何をしているんだと、胸の中でくりかえしながら、それでも、腕の中のカメリアの温かさを全身で感じて、こみあげてくる何かに溺れそうになるのを、必死にこらえていました。
そしてカメリアは、博士の腕に包まれて、どうしても、このまま溶けていくような幸福を感じざるをえませんでした。いやよ。本当は男なんて、大嫌い。みんな意地悪なんだもの。でも、どうして、先生は、先生だけは…。
どれだけ時間が経ったものか、やがてカメリアは、胸に十分に愛が満ちて、そっと顔を博士の胸から離し、うつむいて涙を拭きながら、「ごめんなさい、先生」とつぶやきました。「い、いや、僕の方こそ…」博士は、再び自分の腕が自由になり、ほっとしましたが、同時に、カメリアが自分の腕から離れてしまったことを、少し残念がっている自分に気づいて、また混乱しました。
なんなんだこれは。ちょっと待て。落ち着け。よおく考えろ。一体何をしにきたんだ、僕は。博士はずり落ちた眼鏡をなおすと、ようやく一番大事な用を思い出し、袋の中を探って、中からひとつの細長い箱を取り出しました。
「…そう、そうだ。ぼ、僕もね、ようやく、魔法を、いろいろ使えるようになったんだよ。いや、呪文と言っても、けっこう難しいもんだね。ほら、その、Fのね、発音が特殊なんだ。舌をね、かなり無理な感じにねじらないと、言えないんだね。でも練習して、なんとかできるようになったんだ。ほら、見てごらん」
そう言うと、博士はその細長い箱を開けて、二人に見せました。その箱の中には、黄色みがかった薄紅色の、雫の形をした小さな石を、細い銀の鎖に通した、きれいなペンダントが入っていました。
「月光質薔薇輝石というんだ。普通、薔薇輝石は薔薇色なんだけどね、呪文をかけて、七日ほど月光の中に干しておくと、変質してこうなるんだよ。これがね、その、良いんだ。君の体の毒を抑えることもできるし、君が悪い夢を見たり、つらい思いをするときにね、助けてくれるんだよ。薬と併用して使うといい。眠るときもつけているといいよ。…いやね、僕はね、最初、石のまま、お守り袋に入れて、君にあげようと思ったんだが、君も知ってる通り、僕には生意気な助手がひとりいてね、あんまりだっていうんだよ。それが、女の子へのプレゼントですかって。もっと気のきいたことができないんですかって。なんていうか頑固なやつでね、とにかくそう言ってきかないもんだから、僕も仕方なく、職人に頼んで、こうしてペンダントにしてもらったんだけど…」
カメリアと母親は、せっかく博士が優しい心の贈り物をしてくれようとしているというのに、博士のうろたえようがおかしくて、こらえることができず、ふたり顔を見合わせて、くすくすと笑いだしてしまいました。博士はまた、え?という顔をして、なんでこうなるんだと、ペンダントの箱を持ったまま、ぽかんと二人の顔を見つめていました。
しょうがないですねえ、また助けてあげますよ。ほうら、馬鹿になってしまいなさい。道化になってしまいなさい!
聞こえない声が、博士の耳にささやきました。博士は、何となく、何かがわかったような気がして、「ごめん、なにか、…まずいこと、言ったかな?」と言って、笑いながら、少し首をすくめました。
カメリアは、「そんなこと、全然ないわ」と言ってかぶりをふると、博士が差し出す月光質薔薇輝石のペンダントを、喜んで受け取りました。「ありがとう、先生」カメリアが嬉しそうにお礼を言ってくれたので、博士もほっと安心しました。カメリアはさっそく、そのペンダントをつけてみました。すると、本当に、なんだか、胸の中にあった重いものが軽くなり、彼女は薄紅色の希望が心の内に広がってくるように感じました。あの怖い夢の記憶も、だんだんとどこかに遠ざかって、もう忘れてもいいような気さえしました。
母親は、何かしら目の色が明るんだ娘の顔を見て、胸に安堵を感じつつ、言いました。「ありがとう。先生のおかげで、いつも本当に助かるわ」
「いや、別に、当たり前のことですよ。もともとは、僕が彼女のことを頼んだのだし…」
博士は頭をかきながら、言いました。カメリアは、博士に、お茶でも召しあがる?と声をかけましたが、博士は手を振ってそれを断り、言いました。「あ、その、研究所に用事があるから。また今度ゆっくりいただくよ。ありがとう。じゃあまた」
そして博士は、袋をテーブルの上に置いたまま、逃げるように家を飛び出すと、飛ぶように走って森の向こうに帰ってしまいました。その後ろ姿を見送った母親は、カメリアを振りかえり、少し目をとがらせて、言いました。「いたずらはだめよ、カメリア。先生が困ってたじゃないの」するとカメリアは、少し目を伏せて、小さな声で謝りました。「ごめんなさい。でも、いたずらをしたわけじゃないの。自分でも思いもしないうちに、いつの間にか、飛び込んでたの…」母親は、ふうと息をつき、笑いつつも、頭を横に振りました。いたずらっ子は、目に見えないあいつの方ね。ふたりとも、とんでもないおせっかいをされてしまったわ。
母親は家の中を見回しましたが、部屋の空気はがらんとしていて、見えないものの気配はもう何もありませんでした。母親は、カメリアに言いました。「今度先生が来るときのために、お礼とお詫びのものを、何か用意をしておかなくては。カメリア、それはあなたがやりなさいね」カメリアは、胸のペンダントに触りながら、はい、と答え、言いました。
「わたし、もっと勉強したい。先生も、役人さんも、お母さんも、みんなわたしを助けてくれる。みんなのためにも、わたしがやらなくてはいけないことは、ちゃんとやっていきたい…」
その言葉に、母親は何も言わず、ただ静かに笑っていました。そして、博士が去っていった森の向こうを見ながら、いつか、娘がその使命を終えたとき、彼女に小さな幸せが来るようにと、神に願いました。
さて、博士は、半月島の自分の研究所に戻ると、研究室に入るなり、机の前に座り、疲れ果てたというように、どたりと半身を机の上に落としました。その姿を見て、どこからか助手の少年が近付いてきて、言いました。
「どうしたんです?先生。なんか、よれよれですよ。まるで、敗残兵って感じ」
すると博士は、背中で深くため息をつき、言いました。「おい、少年、おーんなのこってのは、たまらんなあ…」
「何言ってんですか、先生も男でしょ、一応」
「…だめだ、僕は」
そう言って、机の上にへたり込んだまま動かない博士の姿を見て、少年はあきれたようにため息をつき、こりゃしばらく、使い物にならないなと思いました。そして、博士の机の上のペン立てから、勝手に一本の銀のペンを取り出すと、言いました。
「先生、怪の水槽の魔法印は、僕が書き直しておきますから。いいですね」
「…ああ、たのむよ」
そう言うと博士はまた、背中で深いため息をつきました。
机の上に投げ出した自分の腕に、カメリアを抱きしめたときのやわらかな感触が、まだ残っていました。
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