<「払田」付近のH28年の航空写真>
●歩いた日:2019年7月9日(火)
●歩いた所
・払 田:鳥ノ木、館前、森崎、早坂、下払田、下川原、宝龍
・板見内:一ツ森
・高 梨:穂田原、於園、上り場
●歩いたログ(足跡)(道のり6.1km)
(以上の航空写真・地図:国土地理院)
📷013の地点から東に進み、道路公園の案内を過ぎてすぐの道脇にこんな標柱が建つ。
(県道を横断する「払田の柵」の外柵線)
標柱には「この道路下に払田柵が眠っています」とある。前述したように払田の柵」の外柵は政庁跡のある「長森」だけでなく「真山」をも取り囲む長大なもので、その南側のラインがここを通っていることを示している。
県道の向こう側の道路公園の一角には、柵のラインに沿って木柱が建て並べられているが、本物の柵は人が容易に越えられないようなかなりの高さであったと思われる。
手前の標柱のちょうど陰に当たる県道の右脇に車を置いてあるので、そこに向かって最後の歩を進める。
この後、いつものように航空写真をご覧いただくが、今回歩いたところの最近の様子も見たいと思い、国土地理院のHPで検索すると、なんとH28年の航空写真がある。その写真をご覧いただく。
(H28年)
これまで最近の航空写真というとH15年の白黒の写真しか見ていなかったので、この写真を見てその鮮明さにびっくりする。さらに、撮影時期が7月下旬なので、田んぼは一面の濃い緑に覆われ、その美しさにうっとりしてしまう。先日のブログで、この7月16日に「姫神山」から眺めた「仙北平野」を「緑の絨毯を敷き詰めたような」と形容したが、その形容はこの写真にこそふさわしい感じである。8月に入って稲の穂が出揃うと田んぼは黄緑に変わり、やがて穂が熟すと黄金色に変わっていく。
H28年の写真が全域をカバーしていたらうれしいと思って調べたが、まだ一部の地域だけのようだ。早く全地域の写真が見られるようになって欲しいものである。
写真には今回歩いた道の黄色の線を引く(「P」が車を置いた場所)とともに、本文に登場した主な場所を書き入れてみた。
ところで、「真山」の東側斜面に木に覆われていない部分があり、麓に小さな建物が見える。数年前の雪の時期に「長森」を散策した時、ここはロープ塔を備えた小さなスキー場で子供の歓声が上がっていた。小さな建物はレストハウスである。その後すぐ閉鎖されてしまった。
次にS28年の写真と比較しながらS51年の写真をご覧いただきたい。まずは「真山」付近。
(S51年-1)
まず目に付くのは田んぼの区画の大きさで、S51年の10a区画が再整備されてH28年には大きな区画になっているのがわかる。
次に「払田分家」の庭園に注目していただきたい。庭園の東(右)側に銀屋根の大きな建物とそれより小さな建物が何棟か写っている。先に「広大な主屋は老朽化したためS50年代に解体された」と書いたが、S51年当時はまだ残っていたようだ。銀屋根の大きな建物は、正門を入ってすぐ右側にあったという米蔵と思われる。
ところで、当時はまだ「埋蔵文化財センター」も「払田柵総合案内所」も建っておらず、その場所は田んぼとなっている。黄緑線で囲んだ家屋に注目いただきたい。H28年の写真ではこれらの家屋がなくなっている(右端の2軒はH28年の写真では枠外になってしまったが)ことがわかる。史跡の調査や整備のために移転したものと思われる。ピンクで囲んだ場所にH28年には住宅が建ち並んでいるので、ここに移転したのであろうか。
次にS51年の「於園」、「下払田」辺りの写真。
(S51年-2)
「穂田原」の集落が南西側を舳先とする大きな船のような形に見える。舳先部分は元々の地形を残しているのであろう。「矢島川」沿いの低地、荒れ地の中の少し小高いところに家が建ち並んでようだ。大きな木立も写っている。当時は道を挟んだ南側にも大きな木がある。
「於園」の黄色線の部分に当時は右が通っていない。南から来た道がが屋敷に突き当たるため道を通すのが遅れたのだろうか。「大曲」と「千屋」を結ぶ東西に走る道に出るのにやや不便だったろうと思われる。
「上り場」の大きな屋敷を迂回して東に延びる道は、そのすぐ東側の家で行き止まりになっている。今回歩いた時、この家は屋敷跡が残るだけで無くなっていた。
「下払田」の東側を通る道(現県道)が緩くカーブ(写真に←で示した部分)している。この後このカーブが改修されまっすぐの道になった。なお、集落の南端も道が大きく西側にカーブしている。この部分も今の県道はまっすぐになっており、写真の道も現役で残っている。
(その7に続く)
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