<「上糠渕」の風景>
●歩いた日:2022年11月29日(火)
●歩いた所
・飯詰(飯詰):南中島、北中島、糠渕、上鶴田、中鶴田
・金沢西根 :上百目木、下町田、中町田、上糠渕、下糠渕
●歩いたログ(足跡)(道のり6.3km)
(以上の地図:国土地理院)
(📸009の位置から)「北中島」・「糠渕」の通りの西側(「糠渕」)に渡り、ここから引き返す。
郵便局のすぐ南には、広々とした駐車場の奥にぽつんと飲食店(休業中?)がある。その駐車場内を南に歩いて行くと、その隣の屋外プールの駐車場との間に水路があって渡ることができないので、いったん歩道に出る。歩道から再び屋外プールの駐車場を横断して、さらにその隣の「美郷町総合体育館リリオス」の駐車場に行く。
「リリオス」の玄関脇に何やら案内板のようなものが見えるので、その前に行ってみる。
(「美郷町総合体育館リリオス」の案内板)
案内板には「平安の後三年合戦コース」とある。平安時代に起こった「後三年の役」の古戦場などを巡るサイクリング・コースの案内である。
ここで、「後三年の役」に少し触れる。
平安時代の11世紀、「藤原」氏が「平泉」を拠点として「奥州」に覇権を確立し、三代にわたる栄華を築くに至った物語については、NHKの大河ドラマ、「炎立つ」(原作は「高橋克彦」氏の同名の小説)でだいぶ前に放映された。その物語のクライマックスの一つが、1083年に始まる「後三年の役」である。
「後三年の役」の少し前、「陸奥」(現在の「岩手県」)を支配していた「安倍」氏が「前九年の役」で滅び、それまで「出羽」(「秋田県」の「横手盆地」)を支配していた「清原」氏が「陸奥」もあわせて支配するようになった。しかし、その「清原」氏に内紛が起こり、その戦が「後三年の役」である。
「後三年の役」は「清原」氏が本拠としていたこの辺一帯で戦われ、陸奥守であった「源義家」を味方につけた「清原清衡」が勝利を収めた。「清原清衡」は「安倍」氏の棟梁の娘と「藤原経清」の子であるが、「安倍」氏が滅亡した後、「清原」氏と再婚した母とともに「清原」氏の下で暮らしたことから、姓も「清原」と変えていた。
「後三年の役」に勝利した後、彼は実の父親の姓である「藤原」に戻し、「平泉」に拠点を移して「奥州藤原」三代の基を築いたのである。
案内板に戻る。
現在地は中段左寄りの赤丸のところ。「後三年の役」の主な戦場は、現在地の南東にある位置する「平安の風わたる公園」と「金沢柵址」である。「平安の風わたる公園」にある「西沼」は、「源義家」が「雁行の乱れ」によって潜んでいた敵兵を察知してこれを打ち破ったとの言い伝えがあり、「美郷町」では「雁」を町の鳥に指定している。
「金沢柵址」の最後の決戦が行われた場所と言われる。
(以上、「美郷町の歴史(通史)」(発行:美郷町)から)
なお、「源頼朝」、「源義経」兄弟は「源義家」直系の子孫であり、「藤原」氏は「頼朝」に疎まれた「義経」をかくまい、「頼朝」はそんな「藤原」氏を攻めて滅ぼしたのも、何やら因縁めいている。
「美郷町総合体育館リリオス」の駐車場から隣の運動公園に入る。
(「美郷町南運動公園」の通路)
公園内の通路の両側に、鏡が据え付けられたオレンジ色の鉄柱?が立ち並んでいる。鏡は周りの景色を写しており、通路を進んで行くとその景色が変化して面白い。
鏡をよく見ると・・・。
(運動公園の石柱の鏡)
鏡に鳥が彫り込まれている。「雁行の乱れ」に因んだ「雁」の姿のようだ。鏡の高いところに彫られた「雁」を見上げると鏡に空が写り、さながら空に飛び立つ「雁」を連想させる。
運動公園の南隣、十字路の角は「こども園」である。歩道に出、十字路を右折して「こども園」を回り込むように進む。
生垣越しにこども園の敷地をのぞくと除くと、面白い道具を使って落ち葉集めをしている人がいる。手押しの芝刈機のような道具である。押すと回転する車輪の軸が落ち葉を掃き上げて、軸の上の袋に入れる仕組みのようだ。作業している人に「いい道具使っているなぁ。それなば(なら)、ハカいく(計行く=はかどる)べ」と話しかけると、「ハカいくども、押すのに疲れる~」との答え。なるほど、押すのは重そうであった。
西に少し進んだところで振り返る。
📸010:「上糠渕」の風景
奥から手前に来たところ。道奥、左にカーブしたすぐ先が📸008の十字路。正面に見える小高い山は「飯詰山」。
道右手のベージュ色の建物は高齢者福祉施設、その向かいには「仙南診療所」がある。
左手前の家の塀はなかなか趣がある。
(⑥に続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます